■ 菩提寺の壇信徒総代を2012年の4月から今年の3月まで3年間務めた。総代を務めるのを機に菩提寺の宗派・真言宗の開祖、空海について基礎的な知識を得ようと何冊か本を読んだ。それまでは、「空海は真言宗、最澄は天台宗」、「空海は三筆のひとりで、あとのふたりは嵯峨天皇と誰だっけ・・・(*)」、くらいの知識しかなく、まことに情けない状態だった。
「高村 薫がたどる21世紀の空海 高野山開創1200年」と題した記事が昨年の4月から今年の3月までの1年間、月2回のペースで信濃毎日新聞朝刊に連載された(写真)。わたしにとって実にタイムリーなこの企画、計24回の記事を毎回じっくり読んだ。
先日あるところで読んだ週刊誌でこの連載記事が書籍化されたことを知り、昨日(7日)丸善で買い求めた。
『空海』 高村 薫/新潮社
ここで空海について復習。新聞連載初回の空海紹介文を載せる。
**空海(774年~835年) 平安時代の初期の僧侶。最新の仏教を学ぶため、遣唐使の一員として唐(中国)に渡り、密教の正統な後継者になり、真言宗を開祖した。密教の思想・世界観を表す曼荼羅、仏と一体化するための瞑想法、憤怒の表情の不動明王などを日本に紹介。816年、修行の場を高野山(和歌山県)に開くことを嵯峨天皇に認められ、東寺(京都市)の講堂も造営した。書家、讃岐(香川県)の満濃池を修理した技術者、日本初の私立学校設立という教育者の顔も持つ。没後、「弘法大師」の号を贈られた。**(信濃毎日新聞2014年4月10日付朝刊11面文化欄より)
18歳の空海は大学で儒学や漢学をなどを学んでいたが、約束されていた官吏への道をなげうって、私度僧となって修行に入る。
空海は804年7月に遣唐使船で九州を出航。34日間漂流の末、唐に渡る。この時、4隻のうち2隻は行方不明になってしまう。漂着した空海の一行に上陸許可がなかなか出ない・・・。大使が書いた書状が受理されなかったのだ。そこで空海が代筆。空海の文才に驚き、めでたく受理される。
唐の長安で空海は不空の弟子・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)と運命的な出会いをする。そして・・・、**(前略)とまれ千人以上の門下のなかで両部の大法を相承したのが最終的に空海一人であったという事実は、まさに運命、もしくは奇跡と呼ぶ以外にない。**(55頁)
運命の邂逅からたったの半年後、恵果は入滅。まさに綱渡りの相承だった。当時、留学期間は20年と定められていたとのことだが(なんと長いことだろう)、空海は「滞唐二年、見るべきものは見つ」と帰国を決意して、806年の秋、九州博多へ帰着する。すぐにでも入京を許されるはずだと自信に満ちていた空海だったが、結局3年間も九州に留め置かれてしまう・・・。強運の持ち主の空海はその後入京、嵯峨天皇と交流が生まれる・・・。
**二十一世紀のいま、お大師さんとともに四国霊場をめぐる人びとは弘法大師に何を求め、何を得てゆくのか。学者や宗教者の手になる数多の研究とは別に、二十一世紀を生きる一日本人にとっての、二十一世紀の等身大の空海像を捉えたいと切に思う。空海を訪ねて日本各地をめぐる旅は、おそらく私たち日本人の信心のかたちをめぐる旅になるはずだ。**(15頁)
本を読むと新聞に掲載された時の文章に手が加えられていることがわかる。タカムラーでもないので、その比較まではしない。今日は用事がいくつかあるが、この本を読み終えたい。
過去ログ2
* 三筆:空海、嵯峨天皇、橘 逸勢(はやなり)