透明タペストリー

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「遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと」

2021-12-20 | A 読書日記


『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』飯田絵美(文藝春秋2021年6月29日発行*1)
*1 6月29日は野村克也氏の誕生日

 NHKの「ラジオ深夜便」、11月30日の午前4時過ぎから放送された「わが心の人」を聞いた。元スポーツ記者の飯田絵美さんが野村克也監督が亡くなるまで23年あまり続けた親交について語っていた。聞いていて涙が出てしかたなかった。番組で語られた内容が本にまとめられていると聞き、買い求めて読んだ。

著者の飯田絵美さんは産経新聞に入社後、サンケイスポーツの記者となりヤクルトの番記者になったが、1年間、野村監督からまったく口をきいてもらえなかったそうだ。ある日監督からかけられた言葉でひどく傷ついたという。その言葉はここに再掲しない。飯田さんは**もう、止めよう。馬鹿らしい。なぜここまでひどい態度をとられなきゃならないのか。私は虫けらじゃない。(後略)**(77頁)と思う。

でも次のシーズン、アメリカのユマで春季キャンプを行っていたヤクルトを取材していた飯田さんは「ユマからの手紙」という連載記事を始める。ある夜、野村監督と宿舎の庭でばったり会った、いや会ってしまった飯田さんは監督から声をかけられる。**「あの記事、おまえやろ?」文章が下手だ。中身がない。そんな批判を予想した飯田さんに監督は「読んどるよ、毎日」「あれを読むとな、あったかーい気持ちになる。女の持つ母性や。お前にしか書けん」**(84頁 適宜省略して引用した)と言う。それから母親の話を15分以上涙ながらに話してくれたという。知り合って2年目、これが初めての対話だったそうだ。

その後、飯田さんはヤクルトを担当しなくなってからも野村克也と20年以上も親交を深めることになる。

妻の沙知代さんを亡くした野村克也と10ヵ月ぶりに再会した飯田さんは愕然とする。沙知代さんのお別れの会の会場で車椅子に乗り、生気のない顔でぐったりしている老人が野村克也だった。無理もない、**野村克也引く野球はゼロ。野村克也引く沙知代もゼロ**(30頁)だったのだから。

野村の家族公認で飯田さんは月に1回野村克也と食事をするようになる。そこで飯田さんはある時は野村の愚痴を聞き、ある時は励まされる。**(前略)自分が『これだ』と信じたことをこつこつやっていれば、『あー、誰も見てくれていなや』と投げやりな気持ちになることもあるけど、それでも続けていれば、誰かが見てくれている。それも、思ってもみなかった人が、な。必ずそういう人が現れるぞ。いい仕事は必ず、誰かが見ていてくれる。だから、人間はどんなときにも手を抜いてはいけないんだ。この言葉を忘れるなよ。きっとそう思う日がやってくるから」**(196、7頁) 本には書かれていないが、飯田さんはこの言葉を聞いてその場で泣いたとラジオでは語っていた。放送を聞いていて僕も涙が出た。

この本には野村克也のいろんなエピソードや言葉が紹介されている。飯田さんが計画した記者たちとの同窓会、教え子たちとの同窓会。オレは月見草、長嶋は向日葵と対比的に評したライバル長嶋との再会、場所は金田正一のお別れの会。
**「おう、ノムー!」姿を認めたのと同時に、長嶋の方から声をかけてきた。しかも愛称で・・・。その事実が嬉しくて、顔をほころばせた野村は、大きな声で応じた。
「おまえ、元気か?」(中略)「おまえ、頑張っているか?オレはまだ生きているぞ。まだまだ頑張るぞ! 元気で頑張ろうな!」「おう、お互い、頑張ろう!」
ともに頬がゆるみ、紅潮していた。感極まっていた。**(280、1頁)この件を読んだ時も涙が出た。

野村克也が最後に何を考えていたのか知りたい、読みたいという言葉に後押しされた飯田さんは書いては泣き、泣いては書いたという。

野村克也にとって飯田さんは娘、いや母親のような存在だったのかもしれない。この本を読み終えてそう思った。なかなか好い本と出会った。


文中野村克也氏の敬称略