透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

火の見櫓のある秋の風景

2022-11-03 | A 火の見櫓のある風景を描く


火の見櫓のある秋の風景 長野県朝日村にて 描画日 2022.11.02

 スケッチする風景を写真に撮って、その写真を見て描く人もいるが、私は現地で線描する。写真に撮ると3次元の空間(風景)が2次元の平面に置き換わっているから、自分で空間を平面に落とし込む、変換する作業をしないことになる。これはもったいない、一番楽しい作業をカメラに任せてしまうなんて・・・。全く下描きをしないで修正できない油性ペンでいきなり本チャンの線を描くというのも私の流儀、こだわり。

長時間立ち続けることがつらいので折りたたみ椅子に腰かけてスケッチすることもないわけではないが、立って風景を見る時よりも視点が下がり、普段目にすることのない風景に変化してしまうので好ましくない。特にこのスケッチのような透視図的構図の場合は。

風景や静物、人物などの描画対象がリアルに再現されているかどうか、このことが評価の基準になることもあるけれど(某テレビ番組のように)、それはあくまでも描画力というテクニックの評価。描画力はもちろん必要だとは思うが・・・。だが、それだけの評価だと例えば原田泰治の絵は高く評価されないだろう。原田泰治のパース的に正確でない描き方がふるさとの懐かしい光景を創出している。線も曲がっていて例えば描かれている民家の形も歪んでいたりするが、定規を当てて引いたような真っすぐな線だと、ほのぼのとした懐かしい雰囲気、味は出せないだろう。

何本もある線を1本の線に代表させ、複数ある色相を1色で表現するような、グラフィックな表現方法で短時間に実に味のある風景をスケッチする友人がいる。一見簡単な描き方のように見えるけれど、難しい。

絵を描きたいと思う、絵を描く動機付けとなるのは、風景なりものなりを美しいと感じる感性だ。自分が美しいと感じた対象を感じたままに的確に表現できているかどうか。自己判断、自己評価。描き手としてはここまで。

完成後は作品は描き手から離れ、独立した存在となる。後はその作品は鑑賞者の美的感性に委ねられる。

なんだか理屈っぽくなったが、描き手は美しいと感じた対象を自分が美しいと思えるように描けばよく、鑑賞者は好きなように鑑賞すればそれでよい、と思う。これは絵に限ったことではないだろう・・・。