透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「黄色い星の子供たち」

2012-01-09 | E 週末には映画を観よう





 シネマ・コラムニストの合木こずえさんが主催するFROM EAST 上映会(@塩尻の東座)で「黄色い星の子供たち」を観た。昨年「オーケストラ!」を観て、主演のメラニー・ロランに魅せられて、やはり彼女が主演のこの映画を観ようと前から思っていた。過去ログ

第二次世界大戦中の1942年の7月に、ナチス占領下のパリでユダヤ人の一斉検挙が行われた。ヒトラーのユダヤ人迫害政策により行われたと思われていたこの事件、実はフランス政府の主導で行われたのだった・・・。

この映画の内容については何も予備知識が無かったから「黄色い星」って、ある状況に置かれた地球のことだと思っていたが、ユダヤ人であることが一目で分かるように服に付けることを義務付けられた黄色い星形のワッペンのことだった。

目当てのメラニー・ロランは赤十字から派遣される新人看護師アネット役で、映画が中盤に差し掛かる頃に登場した。一斉検挙で冬期競輪場に収監された1万3000人ものユダヤ人を懸命に看護するアネット。

実際の事件を綿密に調べて再現した映画ということだが、どうも物足りないというか、映画の世界に入り込めないというか、感情移入できないというか、そんな状態だった。第三者的な覚めた眼でずっと観ていた。「オーケストラ!」は終盤、涙が止まらなかったのに・・・。

事実の間をフィクションで繋いで人間ドラマに仕立て上げるのが映画や小説というものだと思うのだが、元々ジャーナリストだったという監督はどうも事実の再現に終始したようで・・・。ドラマのことはメラニー・ロランと、自らも検挙されたユダヤ人医師を演じたジャン・レノ(フランスの名優とのこと、誰かに似ていると思っていたが、仲代達矢だと気が付いた)の起用だけで満足してしまったのかもしれない。

中年医師と美人看護師、ふたりの間に恋愛感情も流れて・・・、でもそれをドラマの中心に据えるわけにはもちろんいかない。やはり奇跡的に生き残った子供のひとりを主役にドラマに仕立て上げるのが良かったのではないか。昔のイタリア映画なら、けなげでかわいい少年を主人公にしてモノクロで云々・・・。以上、映画を観終わってからの評論家気どりの感想。

映画のラストでフランス人がこの事件で1万人ものユダヤ人を救ったことがテロップされる。私はこれがフランス人の自己弁護のように思えてならない。 検挙予定のユダヤ人は2万3千人だったそうだから、1万人は確かに多い数字だ。でもこの数字を「パリ市民の良心が救ったユダヤ人は検挙予定者の半数にも満たなかった・・・」という認識で描いて欲しかったとも思う。 


 自己弁護という言葉から、昔読んだ山口瞳の『酒呑みの自己弁護』というエッセイ集を思い出した。


御柱展@馬場家住宅

2012-01-08 | B 石神・石仏



国の重要文化財に指定されている馬場家住宅(松本市内田)



 馬場家住宅で開催中の「松本平・安曇野の御柱展」を見てきました。

ポスターに床の間に飾ったオンベ(左側)とソバ(右側)の写真が載っていますが、これは松本市内田北花見(きたけみ)の御柱のものです。展示パネルの説明文によると北花見講の講中27戸の人たちが1月14日の昼過ぎに地区の公民館に集まって、オンベとソバ(*1)をつくるそうです。それを床の間に飾り、神事を行ってから御柱に飾り付け、その日のうちに立てるそうです。この御柱は20日の早朝、日の出前に倒されて、飾りは皆が持ち帰って魔除けとして玄関などに飾るそうです。

同僚に三郷北小倉の御柱のことを聞きましたが、北小倉では元日未明に子どもたちが集落内を回って大人たちを集め、初日が昇るころまでに立てるそうです。7日の早朝に御柱を倒すそうですが、これを「寝せ御柱」というそうです。御柱を飾っていた御幣(オンベ)を子どもたちが各戸に配って回り、同時に松飾りと1年前の御幣を集めて、同日のどんど焼き(同僚は三九郎ではなく、どんど焼きと言ってました)で焼くそうです。

展示されている各地の御柱の写真、当然のことながら、それぞれデザインが違っていて興味深く見ました。全部で29ヶ所の御柱が紹介されていましたが、こんなにあることを知りませんでした。立てられる期間が短く、また目立たないところの御柱も多いのでしょう(松本市梓川上野花見の御柱を見に行ったのですが、探すことができませんでした)。

このような伝統的な行事を絶やすことなく継続していくためには、まず多くの人が関心を持つこと、それから文化財に指定するなどして行政もバックアップすることが必要なのではないかと思います。

年の始めに道祖神の周りを火祭り(三九郎)で清めると共に神様を送り、御柱を立てて新たな年の神様を道祖神に招く・・・。毎年この行事を繰り返して来たんですね~(*2)

**御柱はどうやら三九郎(正月飾りやだるまなどを焼いて無病息災を願う伝統行事)や道祖神と関係のある祭りらしいのですが、詳しいことは分かりません。** 以前このブログにこのように書きましたが(過去ログ)、前述のような理解をすることができました。

*1 「ヤナギ」、「イナホ」と呼ぶところもあるそうです。 
*2 火祭りと御柱はそれぞれ別の行事であって、両者は無関係という見解もあるそうです。


論文「道祖神の柱立てと火祭りとの関係」を送ってくれた友人に謝意を表します。


「居場所の社会学」

2012-01-08 | A 読書日記


『居場所の社会学 生きづらさを越えて』  阿部真大/日本経済新聞社

 予定通りこの年末年始の休みに『楡家の人びと』北杜夫/新潮文庫の上巻を読み終えた。他にも数冊読んだが、この本もその内の1冊。

家庭で学校で職場でサークルで地域社会で・・・、あらゆる社会的領域で問題になる「居場所」が無いという問題。 いかに居場所をつくるかというテーマを社会学する。

まあ、「和して同ぜず」という論語(だったっけ)に示されている生き方をすればいいのだろうが、小人には難しい・・・。聖徳太子の「十七条の憲法」のコンセプトというか、基本理念の「和を以て貴しとなす」を実践すればいいのだけれど、どの領域においても難しい・・・。本を読みながらこんなことを考えた。

もっとも居場所の問題というのはどの領域のことであれ、全てその領域に関る個人に帰着するというわけでもない。例えば登校拒否は学校という組織の問題でもあり、職場の中に自分の居場所が無いというのは会社という組織の問題でもあるわけで・・・。

正月のアルコール漬けの脳みそでは、きちんと読むことができなかった・・・。



239 三郷一日市場の火の見櫓

2012-01-07 | A 火の見櫓っておもしろい

 
239 安曇野市三郷明盛一日市場の火の見櫓 撮影20120104

 踊り場が2ヶ所ある火の見櫓。なめらかな曲線の櫓が美しい。





客観性に欠ける個人的な評価

1 櫓のプロポーション ★★★★
2 屋根・見張り台の美しさ ★★★  目立ち過ぎるスピーカーで減点
3 脚の美しさ ★★★  脚には厳しい  アーチ材がコンクリート基礎まであれば・・・


 


「マンボウ最後の大バクチ」

2012-01-07 | A 読書日記



 昨年の10月に亡くなった北杜夫、いい人生だっただろうなと思う。『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞。同年刊行した『どくとるマンボウ航海記』がベストセラー。それから『楡家の人びと』で毎日出版文化賞を、『輝ける碧き空の下で』で日本文学大賞を受賞。作家として充分過ぎるほど成果を残している。

『マンボウ最後の大バクチ』で北杜夫は**わざわざ紀伊國屋書店に寄ってみた。すると、平積みの本の中の一ヵ所が空になっていて、そこに『航海記』の帯が一つ落ちていた。**と書いている。『どくとるマンボウ航海記』は売れたのだ。

この本も年末年始の休み中に読んだ。書名が示す通り、晩年の競馬にカジノというギャンブル三昧な日々を綴ったエッセイ集だが、ボリューム的には半分くらいで、残りの半分は来し方の回想録。「回想記」と内容的に重なる部分も多いが、より詳しい。

ギャンブル紀行などは書いて欲しくなかったな。この書名ではなくて、やはり『どくとるマンボウ回想記』として出して欲しかった。前稿で書いた本と同名だが・・・。


 


「どくとるマンボウ回想記」

2012-01-06 | A 読書日記



 年末年始の休みに本を数冊読んだ。

自分史を書いて自費出版することが流行っているようだが、この『どくとるマンボウ回想記』日本経済新聞社は北杜夫が来し方をふり返ってまとめたもの。「出生」、「幼少期」、「父・斎藤茂吉」、「小学校入学」・・・。簡潔な文章で綴られている。

何枚か写真も載っている。

「祖父が建てた青山脳病院」の写真は今読んでいる『楡家の人びと』に描かれている「楡脳病院」の描写に一致している。カラコルム登山隊に加わった時の写真も載っている。『どくとるマンボウ航海記』は北杜夫を一躍人気作家にした作品だが、この作品の元となった水産庁のマグロ調査船で航海をした時の写真も載っている。遠藤周作とのツーショット、阿川弘之とのツーショット、佐藤愛子とのツーショット。埴谷雄高と奥野健男と一緒に写っている写真。孫を抱く北杜夫などなど。

自作の評価も載っていて興味深い。

**カラコルム登山隊にドクターとして加わった折の作品「白きたおやかな峰」は(中略)まあ高級エンターテイメントのたぐいであろう。(116頁)**「どくとるマンボウ航海記」は、笑いの文学の少なかった日本でマーク・トウェイン流のオーバーなユーモアを持ち込んだものとして納得できる。(117頁)**「楡家の人びと」は、いつか書こうと思っていた長篇であった。大学時代から、私はトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」を模して自分の家のことを書きたいと考えていた。(90頁)** この作品については**自分でも納得できる長篇である。(115頁)**と書いている。三島由紀夫はこれこそ小説なのだと絶賛した。(文庫本の下巻カバー折り返しに載っている)

北杜夫ファンにはたまらない本だ。巻末の北杜夫著作目録もありがたい。


 


正月の伝統行事 御柱 その3

2012-01-06 | B 石神・石仏

松本市波田上波田下町の御柱


御柱全景


御柱に飾られている白幣とびっしり飾られた色鮮やかな御幣(オンベ)、巾着(キンチャク)。先端のデザインとしても興味深い。




 正月の伝統行事に詳しい友人から「道祖神の柱立てと火祭りとの関係」という論文が郵送されてきた。雑誌「信濃」に掲載された論文の別刷だ。道祖神の御柱と三九郎(どんど焼き)との関係に関する論考。

三九郎について友人は正月の終りに松や注連飾りを炊き上げるのではなく、年の終りに一年間の厄を焼き払う「厄払い」の行事だとし、御柱については、歳神が降臨する依り代だと指摘している(下線:私)。

また、色鮮やかな御幣を飾る理由について、厄神(例えば疫病神や貧乏神)は陰気なもの、弱々しいものに取り憑くので、元気なもの陽気なもので「威嚇」をしているのだと説明している。

正月に松本平で行われる三九郎と御柱。道祖神の近くで三九郎(火祭り)を行って厄を払い、穢れを清める。そして色鮮やかな御柱(柱立て)によって厄神を避け、歳神を迎えるという一連の行事と捉えることができる(ただしこの時系列は必ずしも守られてはいない)という。

このような説を実証する手立てがあるのかどうか私には分からないが大変興味深い論考だ。

私の住む僻村でも明治末期まで御柱が行われていたことが村誌に記載されているが、その復活は無理だろうか・・・。


別の友人からは安曇野市豊科新田では火の見櫓の隣に御柱を立てるという情報をもらった。この御柱も後日紹介したい(先の論文にもこの地区の御柱の写真が掲載されているが、確かに隣に火の見櫓が写っている)。


238 三郷二木の火の見櫓

2012-01-05 | A 火の見櫓っておもしろい

 
238

 年が改まっても火の見櫓センサーの感度は良好です。 今回は安曇野市三郷二木の火の見櫓です。二木分館の敷地内に立っています。安曇野市三郷支所(旧三郷村役場)からも近いです(所在地についてはローカルな情報ですが、他県の方、ご容赦願います)。

三郷では防災無線のアンテナとスピーカーが取り付けられている火の見櫓が多いです。スピーカーが目立ち過ぎて火の見櫓本来の姿から離れてしまっています。火の見櫓から防災無線へと移行しつつある現状では仕方がないのかもしれませんが、残念です。

下半身がやや太めですかね。そして、脚を開きすぎではないかと。あくまでも火の見櫓の評価です。



屋根の下の半鐘は取り外されています。それにしてもものものしいスピーカーです。屋根も見張り台もそして見張り台直下もよくあるデザインです。少し錆が出ているのが気になります。



見張り台の半鐘が取り外されていて、踊り場の半鐘だけが残っていることがよくあります。なぜか・・・。高い櫓の見張り台まで上るのは大変だから、踊り場に付けてしまおうと、移設した? 違うか・・・。理由は分かりません。



脚元に消火栓と消火ホースの格納箱が設置されています。



櫓を構成している鋼材のジョイント部に注目。リベット(上)とボルト(下)を併用していますがその理由が分かりません。施工性ならボルトの方がいいと思います。では経済性? ある鉄工所の工場長が「昔火の見櫓を造ったことがある」と言ってましたから、機会があれば聞いてみたいと思います。


 


正月の伝統行事 御柱 その2

2012-01-04 | B 石神・石仏


安曇野市三郷明盛一日市場(ひといちば)東村の御柱 撮影20120104


道祖神、陽根石、大黒様

 集落の路傍に祀られている道祖神は邪悪なものを集落内に入れず、さえぎる神様とされていた(塞の神)。手元の資料(*1)には道祖神は古代中国の思想―道教から発生したものだと書かれていて、わが国に伝わると神道や仏教、俗信と融合して民衆に次第に浸透して、厄除け、五穀豊穣、生産、安産を祈願する神と見立てて祀ったものだとある。要するに道祖神はオールマイティな神様で庶民のどんな願いも叶えてくれるというわけだ。

さて、道祖神脇に建てられている御柱だが、これは降神の目印だと聞いたことがある。道祖神の所在が分かるように建てるというのだ。新しい神様が御柱を目印にして降りてくる・・・。そして三九郎(どんど焼き、道祖神火祭りなど)は、災厄を焼き払って、新年を祝い、諸々のことを祈念する行事だが、 昇神のためという意味もあるのかもしれない。煙と共に役目を終えた古い(と言っていいのかどうか)神様が昇っていく・・・。松本平にはこの行事がきちんと継承されている集落が少なくない。

この正月行事に詳しい友人に近々話を聞きたいと思う。 



この御柱は子孫繁栄の願いをストレートに表現している。

そういえばこんな道祖神もある。→ 過去ログ


*1 『道祖神』 降旗勝次編 榑沼光長撮影/鹿島出版会 昭和50年8月発行


正月の伝統行事 御柱 その1

2012-01-04 | B 石神・石仏


安曇野市三郷(旧三郷村)北小倉にて3基の御柱を撮影しました。 20120103


赤い丸の日天(にってん)と白い月形の月天(がってん)

 安曇野や松本地方ではこのような正月の伝統行事が継承されています。過去ログ

日天、月天。姿・形が示す通り、太陽と月を神格化したものです。安曇野市三郷北小倉地区では元日、日の出と共に地域の人たちの手によって御柱が建てられます。道祖神の火祭り(野沢温泉村の火祭りは全国的に有名)とこの御柱とは関係があるといわれています(御柱は道祖神のすぐ近くに建てられます)。

このことを詳細に調べた友人に近日中に会って話を聞く予定です。この地区に住む同僚にも話を聞いてみます。内容をまとめて後日追記します。今日はとりあえず写真のみアップしておきます。












御柱の後方に注連縄を飾った道祖神が写っています。



237 電柱・電線が邪魔

2012-01-04 | A 火の見櫓っておもしろい

 
237 安曇野市三郷楡の火の見櫓(楡公民館のすぐ近く) 撮影20120103

■ 左後方の白い外壁の住宅のような外観の建物が楡公民館です。その手前にちらっと道祖神が写っています。



火の見櫓の写真を撮るとき、電柱や電線が邪魔なことがよくあります。火の見櫓も電柱も道路沿いに立っていますから、撮る方向によっては重なってしまうんですよね。うまい具合に別の方向から撮ることができればいいのですが・・・。



すっかり雪化粧した常念岳をバックに写真を撮ろうとすると電柱とぴったり重なってしまって・・・。すっきりしているはずの櫓がゴチャゴチャしてしまい、全く美しくありません。

電柱・電線 邪魔!
 


 


236 松川村板取の火の見櫓

2012-01-03 | A 火の見櫓っておもしろい

 
236

 北安曇郡松川村板取(板取公民館のすぐ近く)の火の見櫓と消防団詰所。安曇野ちひろ美術館の東方約1kmのところにある。

火の見櫓の高さは17、8mくらいか。





高い火の見櫓ではこのように踊り場にも半鐘を吊るすことが少なくない。後から付けられたと思われる。踊り場の櫓の造りは脚部と似ている。



脚部の様子。繰り返し書くが基礎部分までアーチ材が届いていないと、どうも落ち着かない・・・。詰所の壁面に消防信号板が取り付けられている。



― 穂高の火の見櫓

2012-01-03 | A 火の見櫓っておもしろい


安曇野市穂高有明(富田公民館の隣)の火の見櫓

 昨年までは火の見櫓の所在地をきちんと把握していなかった。人の基本的な情報として、住所と年齢、職業が挙げられるが、火の見櫓もやはり所在地をきちんと押さえておくべきだと反省、今年からは所在地が分かるようにしたい。建設年は銘板があれば分かるが、無ければ近くに住む年配の方にヒアリングするしかない。これは限られた観察時間では難しい。

今回は昨年の暮に観察した穂高の火の見櫓。奥に写っているのは冨田公民館。

3角形の櫓に8角形の屋根は少ないタイプ見張り台は円形。櫓のブレースは4段。高さは12、3mくらいか。



4つのスピーカーがうっとうしい。この火の見櫓も本来の使命を終えている。屋根のデザインはごく一般的。だいぶ錆びているのが気になる。見張り台の手すりはシンプルなデザイン。



脚部は直線材のみで構成されたトラス。



― 善光寺の火の見櫓

2012-01-03 | A 火の見櫓っておもしろい


写真の左側に仁王門の屋根が写っている。 撮影 20120102

 今年最初に取り上げるのは善光寺の仁王門脇に立っている火の見櫓。昨年の初詣の際にも観察しているので、2回目となる。

櫓は上方へ直線的に絞られているが、これは古いタイプによく見られる。ブレース材には丸鋼ではなく、等辺山形鋼と平鋼が用いられ、交叉部をリベットで固定している。よく見ると鋼材の接合部にはすべてリベットが用いられている。

戦後、リベット接合は次第にボルト接合に変わっていくことと、よく似たタイプの火の見櫓が長野県庁のすぐ近くにあって(下の写真)、昭和5年という竣工年を記した銘板が付けられていることから、この火の見櫓も戦前に建てられたものと推測する。



脚部の様子。



分団詰所・器具置場のデザインは善光寺の参道という立地を考慮したものであろう。



初詣

2012-01-02 | A あれこれ


山門から見る本堂 撮影20120102

 ここ何年か善光寺に初詣に出かけています。松本駅を朝8時過ぎ発の普通列車で長野へ。車内では北杜夫の長編小説『楡家の人びと』を読んでいましたが、どうも外が気になって・・・。冬景色の中に火の見櫓を何基か見つけました。今年も火の見櫓観察を続けます。

長野駅から善光寺まで雪降る参道を歩いていきました。仁王門(1918年の再建)と山門(1750年の建立 重要文化財)を抜けて本堂(創建以来10回以上火災に遭うもその都度復興され、現在の本堂は1707年の再建 以上善光寺の公式サイトで得た情報)へ。

御本尊に手を合わせてお願いすることは毎年同じです。

 *****

昨年の出来事といえば東日本大震災と福島第1原発の大事故に尽きます。避難先で年越しをした人が30万人を越えるとか。家族全員で「紅白」を観ながらそばを食べ、年を越すことができたことを幸せに思います。

今年が幸多き年になるよう願ってやみません。