透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

食材と調理

2015-06-18 | A あれこれ

■ 人との付き合いで基本になるのは何といっても会話、コミュニケーションでしょう。でもせっかく直接会っているのに、お互いにスマホとにらめっこではもったいない、つまらない。でも案外見かけます、この光景。

さて、人との会話ですが、相手からどんなことを聞くのが楽しいか、ということについて。

単に知識を並べられてもあまりおもしろくありません。もちろん豊富な知識を持っていてそれを聞かせてもらえれば、タメにはなりますが・・・。

このことを料理に喩えれば食材を語られてもつまらないということです。意外な食材の組合せとか、調理法を聞かせてもらえるのが楽しいのです。テレビ番組でもプロの料理人が、素人では全く思いつかないような食材を組み合わせて調理してみせる。できた料理を試食するとすごく美味しい、という過程が放送されることがあります。

会話していてなるほど!と思うのは全くこれと同じこと、つまり持ち合わせている知識をベースにした自分なりのものの捉え方や考え方について語ってもらう時なのです。こんな時は聞いていて興味深く、楽しいのです。

しばらく前、週末のサードプレイスで内科医のM先生の話を聞く機会がありましたが、上述の通りで大変興味深いものでした。

ユニークなというのか、オリジナルなものの見方を提示するということは簡単ではありません。ですから、単に知識を並べるだけ、物知り自慢という場合も少なくないのでしょう。もっともこのことには他の理由もありそうですが。

どんなことについても自分なりの見解を示すことができるように努力し続けること・・・、自分への課題としたいです。会話する相手がこのように望んでいると信じて。


 


古代駅路はすごい!

2015-06-18 | A 読書日記



 『信濃安曇族の謎を追う ―どこから来て、どこへ消えたか―』坂本 博/近代文芸社新書を読み終えた。

著者の坂本氏はあとがきに次のようなことを書いている。残されたわずかなデータを基に安曇族興亡の全体像を明らかにすることは土器の復元作業に似ている。土器の欠けた部分は石膏で補って全体像を明らかにする。石膏で補うことは古代史の場合には推論するということに他ならない。

なるほど確かに土器の破片をみればその曲面の様子からおよその大きさが分かるだろう。いくつもの破片が見つかれば大きさだけでなく表面のデザインの様子も把握しやすくなる。本書ではまさにこのような方法によって安曇族の興亡の全体像を浮かび上がらせている。

興味深く読んだ。


さて、次はこの本。


『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』 武部健一/中公新書

**邪馬台国の頃には獣道しかなかった日本列島も、奈良時代になると幅12mの真っ直ぐな道が全国に張りめぐらされ、(後略)**この本のカバー折り返しにはこのような文章が載っている。

本文中にも**日本の道路史のなかでもっとも特徴的で、かつ世界に誇るに足ることは、古代の律令制が確立した奈良時代を中心に、全国に七道駅路という道路運用の制度を備えた道路網を持ったことである。**(23、4頁)とある。その様子を示す、今の高速道路網を思わせるような全国地図まで載っている。

奈良時代にこんな道路網が整備されていたとは・・・、驚き。

古代駅路については、しばらく前にある方から話を聞いた。大変興味深い、驚きの内容だった。それで先日書店で偶々この本を見つけて買い求めた。

今週末はこの本を読むことにする。


 


朝カフェ読書

2015-06-17 | A 読書日記



■ 今朝も7時半ころから小一時間朝カフェ読書、『信濃安曇族の謎を追う』を読む。

以前はこちらがオーダーする前に「ホットのショートをマグカップですね」と確認してくれた店員さんがいたけれど、このところ見かけない。辞めてしまったのかも・・・。

2階のいつもの席に着く。

**八面大王こと安曇族を征伐したのは、仁科氏か坂上田村麻呂か、そのいずれであるか、あるいは両者の連合軍であったという結論が必然的に導かれる。**(207頁) そう、著者の坂本氏は安曇族以外には八面大王は考えられないとしている。

しばらく古代をさまようことにする・・・。


 


松本市会田 大黒天像

2015-06-17 | B 石神・石仏


撮影日150626  松本市会田(旧四賀村会田)の廣田寺前の路傍に祀られている大黒天像。

七福神のひとつ、いや一柱の大黒天像を石造で見るのは初めてかもしれない。
右手に打ち出の小槌、左手に福袋を持って俵の上に立つという、いつもの決めポーズ。
近々良いことがあるかもしれない。 にこやかな表情の大黒様に大いに期待したい。
臨時収入もあるかも・・・。


 



 


穂高柏原の道祖神

2015-06-16 | B 石神・石仏



撮影日150613

 北安曇郡池田町の川会神社を目指して安曇野市は穂高の生活道路を走行中にこの道祖神を見かけた。カーナビに表示されている住所は穂高柏原。双体道祖神で前稿同様、抱肩握手像。 白御影石は摩耗しやすい石質で、この道祖神も摩耗で顔の表情がはっきりとは分からない。

真円の中に貴族スタイル(衣冠束帯、十二単姿)の像をバランス良く納め、その周囲に大きく建立年を彫りこんである。右側は天保十三年、左側は寅(*1)、その下の渦巻きのような文字が読めない。最後は月吉日だろうが・・・。


 

*1 天保13年(1842年)、この年の干支は壬寅(みずのえとら) 


豊科細萱の道祖神

2015-06-16 | B 石神・石仏


安曇野市豊科細萱にて 撮影日150613



細萱洲波神社の参道入口脇に祀られている道祖神 天保12年(1841年)建立

江戸末期の道祖神だがほとんど摩耗しておらず顔の表情まで分かる。貴族の衣装、髪型の双体道祖神。お互いに肩に手をかけ、握手をする姿で、抱肩握手像と呼ばれるタイプ。温和な表情が印象的。像の上部に唐破風のような形を線刻してある。

手の上にお賽銭がのっている。こうような光景を見ると心が和む。


 


他人の褌で相撲を取る

2015-06-15 | C 狛犬









 同僚のT君が新潟県に出かけた際、彌彦神社に立ち寄って狛犬の写真を撮ってきてくれた。 この神社はパワースポットとして有名で、人出も多いようだ。

この狛犬は築地本願寺を設計した建築家の伊東忠太がデザインしたことで知られ、新社殿が竣工した大正5年に奉納されている。上方に引き伸ばされたかのような狛犬の姿勢は東大寺の狛犬に似ている。石造狛犬で最古と言われる東大寺の狛犬を意識したのかもしれない。



撮影日150125 東大寺南大門にて

新潟は隣県でありながらあまり出かける機会がない。いつか出かけて観察したい狛犬だ。






この狛犬の写真は神社大好きKさんに送ってもらった(トリミングして更に画像加工した)。千曲市の武水別神社(たけみずわけじんじゃ)の狛犬だそうだ。

ネット検索すると御祭神の武水別大神は善光寺平の五穀豊饒と千曲川の氾濫防止とを祈念して祀られたとする記事があった。ネット上の画像を見ると本殿も拝殿もなかなか立派だ。機会があれば訪ねてみたい。


 


「安曇族」

2015-06-15 | A 読書日記



 『信濃安曇族のルーツを求めて』坂本 博/近代文藝社 読了。『信濃安曇族の謎を追う ―どこから来て、どこへ消えたか―』を読み始めた。一冊読んだ後だから予習効果もたぶんあるのだろう、「謎を追う」は読みやすい。この本を読み終えれば有明山が、いや安曇野の景色が変わって見えるかもしれない。

狛犬巡りは予期せぬ意外なところに私を連れていくことになるのかも・・・。


 

安曇族に興味を抱く人は結構多いようだ。こんな本を紹介していただいた。近々丸善書店に出かけて安曇族について書かれた本を探してみよう。ああ、読みたい本が次々出てくる・・・。


 


川會神社を訪ねて

2015-06-14 | C 狛犬



川會神社の鎮守の杜全景 所在地 北安曇郡池田町会染 撮影日150613



『信濃安曇族のルーツを求めて』 坂本 博/近代文藝社新書 を読むまで対馬にも有明山があることを知らなかった、万葉集にも詠われた名山だというのに・・・。安曇族に関心のある人なら常識なのかもしれない。対馬のランドマーク的存在だという。

昔対馬に行ったことがあるけれど、その時は民家のみに注目していた。その他のことには全く関心が無かった・・・。

安曇野の有明山も常念岳と共にランドマーク的な存在で、その美しい山容から信濃富士とも呼ばれる。こちらも名山。対馬から北九州へ、そしてここ安曇平に大移動したとされている安曇族はこの山に遠く対馬を、志賀島を、重ねていたのかもしれない・・・。



平成18年に新築された石造の鳥居 柱には奉納 川會神社氏子一同 坂本 博 と、昨日買い求めたこの本の著者の名前も刻まれている。







川會神社という名称の由来が記されている。変遷史では坂上田村麿( 田村麻呂)の東夷征伐のこと、征伐が成功したことを喜んで社殿を改築したこと、高瀬川の水害で流されたこと、社を遷ずるも戦乱で灰燼に帰してしまったこと。その後再建するも水害にあったことなどが記されている。

安曇族がかつて志賀海神社(例の「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島にある神社)において祀っていた海の神の綿津見をこの神社でも祀っている。この神社は古代ロマンの世界に通じるタイムトンネルの入り口なのだ。


神楽殿


拝殿

この神社は延喜式神名帳(延長5年、927年に編纂された)に記載されているという。


ブロック塀に囲まれた本殿


残念ながら狛犬はいなかった・・・。


三郷温 長尾の諏訪神社

2015-06-14 | C 狛犬



安曇野市三郷温 長尾地区の諏訪神社 撮影日150613 



この額は芸術品!



拝殿の両サイドに狛犬がいる。 



拝殿に向かって右側、阿形の狛犬(獅子)



そつなくまとまっているけれど、なんとなく物足りない・・・。




左側、吽形の狛犬



蹲踞の姿勢、後肢をきっちり折り曲げている。 石でここまで表現するってスゴイことだと思う。


 


豊科 細萱洲波神社の狛犬

2015-06-13 | C 狛犬


豊科 細萱洲波神社 撮影日150613


鳥居額



御祭神:建御名方命と事代主命 ともに大国主神の子ども。異母兄弟。大国主神は多くの女神との間に子どもを多数設けた。俗な言い方をすれば好色だったということか。神様に向かって何ということを!古事記によると人数は180柱!



神楽殿 端正で美しいプロポーション、モダン。


拝殿



拝殿の後方の本殿 写真を撮っていいものかどうか、いつも気になる・・・。



大国主神の御子神が祀られている神社を守護する狛犬



ユーモラスな表情の狛犬は明治26年の9月生まれ。通常、拝殿に向かって右側は阿形で口を開け、左側は吽形で口を閉じているのだが、ここの狛犬は逆の布陣。

頭の上のこぶは生えたての角。



こんな表情に狛女はだろう。 心が和む。





しっぽもかわいい。






なんだか情けない表情をしている。何か失敗でもしたのかな・・・。前肢の筋肉を表現しているように見えなくもない。結構強いのかも。



後肢は融けだしてしまったかのよう・・・。

なかなか高得点の狛犬


 


三郷 三柱神社の狛犬

2015-06-13 | C 狛犬


三柱神社 所在地 安曇野市三郷明盛 撮影日150613


鳥居額

■ 安曇野市の三郷総合支所の裏手にある神社で、映画「神様のカルテ」「神様のカルテ2」のロケ地として有名になった。県外からも参拝者というか、ロケ地見学者か、が多数訪れているそうだ。

以下拝殿前に置かれていたチラシを参考に記す。

御祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、新羅三郎(しんらさぶろう)の三柱。

創建:嘉吉元年(1441年)、正平年間(1346~70)、天文年間(1532~55)とあり、定まらないようだ。

変遷:元は諏訪神社といい、旧二木村の氏神さまとして祀られていたという。寛文3年(1663年)に、一日市場と七日市場が同時に分村し、七日市場は元禄5年(1692年)にこの神社を分社して独自に諏訪神社を建てた。以来この神社は二木村と一日市場村の氏神さまとして今日に至っているという。明治37年(1904年)に諏訪神社から三柱神社と名称を変えたそうだ。

このような神社を守護するのは下の狛犬。





組まれた獅子岩に鎮座する阿形の狛犬(獅子) 明治27年9月19日建立





獅子と言うには鬣(たてがみ)が短くて少ないように思う。何か別の・・・、そう恐竜がモチーフのようなデザイン。胸板が無い。前足で牡丹の花を押さえている。





台座に刻まれた石工の名前 「松本町 石工 久保田蕪(?)太郎」 蕪は判然としない。






前足の下に玉を置く。つるりんちょに近い体の表現。



4点支持の足座は不安定そうだが、大丈夫かな・・・。


 


547 豊科成相の火の見櫓

2015-06-13 | A 火の見櫓っておもしろい


547 安曇野市豊科成相 撮影日 150613

 まだまだ観察していない火の見櫓が見つかる。今朝、池田町まで出かけたが、途中でこの火の見櫓に遭遇した。

3角形の櫓の柱がカーブを描くことなく直線状だが、このタイプは安曇野でよく見かける。櫓の途中にある申し訳程度の踊り場、これでは梯子を直登する際の恐怖感を和らげる効果はあまり期待できそうにない。

消防団員が恐がって火の見櫓に登ろうとしない、ということも火の見櫓撤去の一因となっていると聞く。





脚部は柱材とアーチ材のみで構成されていて何だか心もとない。



「成相消防組」と彫り込まれた古い館名板を設置してある。古い施設を建て替える場合にはせめてこのくらいのことはして欲しい。