■ 「大江健三郎さん死去」 信濃毎日新聞は3月14日付 朝刊の1面トップで大江健三郎さん死去の報を伝えた。第一社会面(31面)に大江さんの主な作品が紹介されている。
以下雑記。
大江健三郎さんの作品
280
「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」「見るまえに跳べ」「われらの時代」「遅れてきた青年」「性的人間」「個人的な体験」。記事に紹介されているこれら初期の作品を文庫本で読んだのは高校生の時だった。大江健三郎と安部公房は同期生に人気のある作家だったと記憶する。初期の作品の中で「個人的な体験」を子育て中に再読して感銘を受けた。
大江作品の文庫本はもう手元にない。古書店に引き取ってもらった文庫本約1,100冊に含まれている。再読するとき、また買い求めればよい、と割り切った。各出版社が大江作品の増刷を決めたとのこと。初期の作品を読んでみよう。
今手元にある大江さんの著書は上掲写真の単行本と文庫と新書それぞれ1冊のみ。
高校生のころから親しんできた大江さんの作品
夏目漱石や川端康成、三島由紀夫は中学の時に一通り読んだ、などという高校の級友の言葉にぼくはショックを受けた。中学時代は松本清張の推理小説を読んでいて、級友が挙げた作家の作品は読んだことがなかったから。それで、高校生の時に夏目漱石や川端康成、三島由紀夫の小説を読み、大江健三郎、安部公房の小説も読んだ。それから北 杜夫も。
今、小説はもっぱら文庫本で読んでいるが、何年か前までは単行本でも読んでいた。
以前書いた大江作品に関する記事
2008年2月2日に書いた記事を再掲する(一部省略・改稿、写真差し替え)。この記事では建築家の原 広司さんがモデルになっている小説を取り上げている。
『揺れ動く 燃えあがる緑の木 第二部』大江健三郎(新潮社1994年)
この本は大江さんがノーベル文学賞を受賞した頃に出版されて(第一部1993年 第二部1994年 第三部1995年)、よく売れたのではないかと思う。
よく知られているように原 広司さんと大江健三郎さんとは友人関係。大江さんの出身中学校は原さんの設計によって改築された。建築雑誌に当然掲載されたが残念ながら手元にその雑誌はない。
大江さんはこの小説に荒先生として原さんをモデルにした建築家を登場させている。「あら」と「はら」、よく似ている。
**荒さんは、その独創的な構想を、粘り強くあらゆる細部にわたって実現する建築家だった。** 小説から引用したこの文章は原さんの評価そのものだ。
こんな記述もある。**この土地の民家の建物と集落をイメージの基本に置いて、木造小屋組みの上に和瓦を載せたものだった。** また、こんなくだりもある**教会のために建設しようとしている礼拝堂は直径十六メートルの真円が基本形です。** これは原さんが設計した大江さんの出身中学校の音楽室ではないか。直径が同じかどうか資料があれば調べてみたい。
円形は音響的には好ましくない。そこで**荒さんは生産技術研究所の同僚の専門家に実験を依頼されました。二十分の一の縮尺模型を作って、実験が行なわれたわけです。** この先もまだ続く。こうなれば、この中学校の設計の解説文だ。
作家はこのように実話を小説のなかに取り込む。それが時に問題になったりすることもあるが、この小説を読んだであろう原さんはどんな感想だったんだろう・・・。
1995年の秋 大江さんの講演を聴いた。
今日、15日の 信濃毎日新聞朝刊1面のコラム「斜面」に大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞した翌年、当時岩波書店の社長だった安江良介さんと松本で講演したことが書かれていた。ぼくはこの講演を聴いている。1995年のダイアリーにはこの講演会のリーフレットが貼ってある。それによると演題は「この五十年と私の文学」。講演内容は覚えていないが、ダイアリーの講演当日(9月14日)の記入欄に **自分の言葉で愛と美を語れ** と記してある。
コラム「斜面」には**戦後文学の旗手は現実の世界と正面から向き合って、迷いなく語り、行動した。自身の思想と倫理のみに従う強じんな精神ゆえだろう。** とある。大江さんは文学世界にこもることなく、社会や政治と関わり続けた。
大江作品は何色のイメージか
大江作品はどんな色に譬えることができるだろう、安部公房は・・・。大江健三郎の作品はこげ茶、安部公房の作品はグレー。安部公房の作品がグレーというのは前衛的な作品のイメージから。大江健三郎の作品のこげ茶は、なんとなく。
大江健三郎さん、読みでのある作品を何作もありがとうございました。