史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

四日市 Ⅱ

2020年11月07日 | 三重県

(富田小学校)

 名古屋で途中下車して、近鉄富田で下車。駅近くの富田小学校が最初の訪問地である。この日は近鉄名古屋線、あすなろう鉄道、JR関西本線から伊勢鉄道を乗り継いで、近鉄鈴鹿線から再び近鉄名古屋線に戻って津市内を散策した。久しぶりに充実した一日であった。

 

富田小学校

 

東海道

 

 明治元年(1868)九月二十日、車駕にて京都を出た明治天皇は京都を出て東京に向かった。同月二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日、富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御小憩され、そこで富田の焼き蛤をご賞味になったとされる。同年、十二月八日には京都に帰る途上、再度広瀬方で休憩を取られた。

 

明治天皇御駐輦跡

 

 明治二年(1869)三月十五日、やはり東京に上る途中、再び広瀬方にて休憩。明治十三年(1880)、陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸された際、同年七月三日、広瀬方に四度目の来訪となった。富田小学校の前には、明治天皇の行幸を記念した石碑が二基建てられている。「明治天皇御駐輦跡」は公爵近衛文麿の筆。

 

史蹟 明治天皇富田御小休所阯

 

 広瀬五郎兵衛の屋敷跡は東海道沿いの、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてとされる。

 

(法従寺)

 近鉄富田駅付近の谷口畳製造所にて自転車を貸してくれる(17時まで。三百円)。法従寺まで歩くと片道三十分近くかかるので非常に助かった。

 

法従寺

 

 川北二丁目の法従寺には、明治になって桑名の大塚本陣上段の間を含む一部を移築した書院がある。明治天皇行幸の際には行在所・小休所として使われたものである。残念ながら、外から見ただけではどこにその書院があるのか分からなかった。

 

(諏訪神社)

 四日市市街地に鎮座する諏訪神社は、建仁二年(1202)、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝えられる古社である。社頭が東海道に面していたこともあり、多くの旅人も道中に参拝したといわれる。

 

諏訪神社

 

 諏訪神社境内には、明治天皇御製碑や遥拝碑がある。明治元年(1868)、明治天皇の東京行幸の際には、「三種の神器」のうち神鏡が安置された。

 

明治天皇御製

目に見えぬ神にむかひてはぢざるは

人の心のまことなりけり

 

明治神宮遥拝所

 

(諏訪公園)

 諏訪神社に隣接する諏訪公園は、日露戦争の戦勝を記念して開かれた公園である(当時は「保光苑」と呼ばれた)。四日市出身の実業家村山清八が「五箇条の御誓文」全五箇条を刻んだ巨大な五角形の石碑を建立した。

 

五箇条の御誓文碑

 

(日永の追分)

 

二の鳥居

 

 かつて泊山霊園の水戸藩士の墓を訪ねるために泊駅まであすなろう鉄道を使ったが、今回はあすなろう鉄道で泊駅の次の追分まで乗った。この超ローカル線を二度も使うことになるとは思ってもいなかった。

 追分駅を降りると二の鳥居までは近い。この鳥居は安永三年(1774)、久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛という人が、江戸から京都に向かう際に、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って建てたものである。鳥居は、皇太神宮の遷宮に合わせて二十年ごとに建て替えられることになっていた。現在の鳥居は平成二十八年(2016)に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第十代目となる。

 

左いせ参宮道

 

 追分というのは、道が左右に分かれている場所をいい、日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点である。

 明治天皇は、明治元年(1868)九月二十四日、十二月十九日、明治二年(1869)三月十四日、明治十三年(1880)、七月三日に当地を通行している。

 

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