(高源院)
高源院
高源院には萩藩医で兵学者でもあった東条英庵の墓を探した。東条英庵は、長州の出身でありながら、幕府に取り立てられ幕臣となり、維新後は静岡で学問研究所教授などを務めたという異色の経歴の持ち主である(文京区大塚3‐8‐4)。残念ながら英庵の墓を発見するには至らなかったが、その代わり通詞立廣作の墓誌を見つけることができた。
立君墓誌
立廣作は、弘化二年(1845)の生まれ。名村五八郎(泰蔵)から英語を学び、パリ外国宣教会のメルメ・ド・カションからフランスを学んだ。第一回遣欧使節団(正使・竹内保徳)に最年少(当時十七歳)通詞として随行した。維新後は、外務省に一等訳官として入り、大訳官、文書権正、外務大丞となり、さらに大蔵省に転じ大蔵大丞に進んだが、それを最後に官を辞し、第九十五銀行頭取に就任した。明治十二年(1879)、三十四歳で没した。国際法学者として名の高い立作太郎を養子とした。
高源院の墓誌は、明治十三年(1880)の建碑。中村正直の撰文。
(本傳寺)
本傳寺
本傳寺の墓地の一番奥の塀際に中村家の墓所がある。そこに漂流民仙八(仙太郎)の墓がある(文京区大塚4‐42‐23)。
三八君墓(仙八の墓)
仙八(元の名は仙太郎)は安芸生口島の出身。ジョセフ彦と同じく、嘉永三年(1850)、永力丸に乗船中大嵐に遭って漂流し、アメリカ商船に救助されてアメリカに渡った。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊に伴われて来日し、香山栄左衛門と面会している。香山栄左衛門は、このときの仙八について「アメリカ風之衣服相用、頭は五分月代(断髪)にて、同国之風躰」と記録している。このとき仙八は頑なに上陸を拒んだが、万延元年(1860)、宣教師ゴーブルとともに晴れて母国の土を踏んだ。その後、宣教師が住居とした神奈川の成仏寺で起居した。墓誌傍らの石碑によれば「『聖書摩太福音書』の翻訳に協力した。その後、クラーク教師に仕え、晩年は敬宇先生 (中村正直) の馭者」となったという。明治七年(1874)、四十一歳にて没。
本傳寺の中村家の墓所には、中村正直の父、武兵衛やその妻、正直の長男、長女(いずれも夭折したらしい)が葬られている。
花野の実家飯田家と並んだ笠塔婆の墓碑です。
ちなみに高源院の立嘉度のお墓ですが、本堂左脇の立家の大きな墓碑に合祀されています。