史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

酒田 Ⅰ

2012年07月01日 | 山形県
(松山歴史公園)


出羽松山城大手門

 伊予、備中の松山城は有名であるが、東北にも立派な松山城がある。出羽松山城は、庄内藩の支藩二万石酒井氏の本拠である。
 私が出羽松山城を訪ねたとき、年に一回の松山城祭がちょうと始まったばかりであった。何という間の悪さ!
 武者に変装した行列に行く手をはばまれ、自動車は先に進めなくなってしまうし、やっとのことで公園内に入って大手門の写真を撮ろうにも何時までも武者行列が途切れない。半分、泣きそうになりました。

 松山城の大手門には一つのエピソードが伝わる。大手門は寛政二年(1790)に落雷により焼失したものを酒田の豪商本間家が寄進し、寛政四年(1792)に再建したもので、山形県内に残る唯一の城門建築である。明治二年(1869)、城郭破却中に検分のため松山に来た官軍按察使坊城俊章に対し、松山藩では旧知の田中静居画伯が応対した。両者は旧交を温め、坊城が帰路に着く際、「この大手門を残したところで、今さら謀反もないだろう」ということで破却を免れたといわれている。


松森胤保胸像


松森胤保肖像写真

 松山歴史公園内には、松森胤保の胸像が置かれている。松森胤保は、維新前長坂欣之助といい、文久三年(1863)庄内藩の物頭から松山藩の付家老となった。慶応三年(1867)十二月二十五日の三田薩摩藩邸焼き打ちに際して、松山藩の総大将として表門から突入した。慶応四年(1868)四月に松山藩軍務総裁に任じられ、翌五月には白河藩支援のため出兵を命じられた。七月、秋田藩が奥羽越列藩同盟に離反すると、反転して秋田へ向かい、横手、大曲、角館を転戦した。しかし、会津藩の降伏とともに庄内、松山両藩も降伏することになった。十一月、藩主酒井忠良と謝罪のため東京へ向かった。その後、藩主からそれまでの功績に対して「松守」の姓を賜ったが、畏れ多いとして「松森」と改姓した。明治後は県会議員などを歴任するとともに、博物学、考古学、機器の改良・発明、写真に取り組み、明治二十三年(1890)には奥羽人類学会の初代会長に就いた。超人的な博学ぶりから「日本のレオナルド・ダビンチ」と称された。明治二十五年(1892)、六十八歳で逝去。


川俣茂七郎顕彰碑

 同じく公園内には、川俣茂七郎顕彰碑が建立されている。
 川俣茂七郎は、天保十年(1839)松山藩主の侍医川俣玄璞の三男として江戸に生まれた。早くから尊王攘夷思想に目覚め、文久三年(1863)二十五歳のとき、江戸藩邸を脱して上州赤城山挙兵計画に加わったが失敗。江戸長州藩邸に匿われた。元治元年(1864)、天狗党の筑波挙兵に参加し、幕府軍と戦った。しかし、天狗党が次第に藩内抗争と化すのに嫌気がさし、分離して横浜での攘夷を企図した。その途上、幕府軍と衝突して壊滅。同志は四散し、川俣茂七郎も大橋村破衣(現・笠間市)にて自刃した。享年二十六。
 川俣茂七郎所持の槍には、辞世が刻まれていた。

 みちのくの木の間かくれの山桜
 ちりてぞ人や夫と知るらん


藩校里仁館

 松山公園近くの生涯学習施設「里仁館」が、藩校里仁館跡である。里仁館は、戊辰戦争後の明治二年(1869)、藩校文武講習所として開校し、明治四年(1871)一貫堂と改称、さらに里仁館と改名されたものである。校名は、論語の「里仁為美(仁に里(お)るを美と為す)」に由来する。その後、現在地に在った県立松山里仁館高校にその名を留めていたが、平成十四年(2002)に閉校となり、その建物が生涯学習施設として活用されている。

(南洲神社)


南洲神社

 南洲神社は、全国に四カ所ある。最も有名なのが西郷隆盛の墓がある鹿児島市内のものであるが、ほかにも沖永良部島、都城市(宮崎県)に所在している。酒田の南洲神社は、昭和五十一年(1976)に創建された。西郷隆盛と酒田との関わりは、戊辰戦争後まで遡る。帰順降伏した庄内藩に対し、新政府の措置は極めて寛大であった。その背後には西郷隆盛の指導があったことを知った庄内藩士は、明治三年(1870)、時の藩主酒井忠篤とともに鹿児島を訪れ、約半年にわたって西郷に触れた。そのときの西郷の発言を書き留めてまとめたものが「西郷南洲翁遺訓」である。庄内藩ではこれを明治二十三年(1890)に刊行した。西郷隆盛は、自ら文章を残すことが少なく、後世その思想を知ることは極めて難しい。「西郷南洲翁遺訓」は、辛うじてその一端を知ることができる貴重な資料となっている。


「徳の交わり」像

 鹿児島市武の西郷公園でも、西郷隆盛と菅実秀(臥牛)が向かいあう「徳の交わり」像を見ることができる。


西郷隆盛


菅実秀

 菅実秀(すげざねひで)は、天保元年(1830)に出羽鶴岡に生まれた。父は庄内藩校致道館典学菅基。豊かな学識と文名高い父に勝るとも劣らない才能と気骨を有していた。三十三歳のとき、藩の要職側用人を命じられて江戸に上り、時局に関する識見を高めた。文久三年(1863)、幕命により庄内藩が市中取締の任務を受けると、実秀は家老松平親懐を輔佐して活躍した。慶應三年(1867)十二月の薩摩藩邸焼き打ちをはじめ、戊辰戦争で新政府軍を苦しめた庄内藩は薩長の恨みを買うには十分な履歴を有したが、格別の寛大な措置を受けることになった。これに感激した菅実秀は、鹿児島を訪れて西郷隆盛との好誼を厚くした。明治二年(1869)大泉藩(旧庄内藩)の権大参事に就任。明治五年(1872)には士族救済のために松ヶ岡開墾の指導にもあたった。明治三十六年(1903)、年七十四で没。


南洲翁遺訓碑


敬天愛人碑


南洲会館

 南洲会館では、西郷隆盛の遺墨や関連資料のほか、幕末著名人の書などが展示されている。

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