史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東池袋 Ⅵ

2022年04月16日 | 東京都

(雑司ヶ谷霊園つづき)

 

雪放石川君墓(石川利政の墓)

 

 石川利政は旗本。一橋家家臣石川源兵衛の子に生まれ、文久三年(1863)、小姓組から小納戸役に進んだ。慶應二年(1866)、ロシアとの間で樺太国境画定交渉の遣露使節団の一員に選ばれ、ロシアとの交渉記録を残した。慶應三年(1867)、帰国すると外国奉行に就任し、のちに兵庫奉行に転じた。慶應四年(1868)、小出秀実の後を受けて江戸北町奉行に就いた。最後の北町奉行といわれる。江戸奉行の廃止に際して石川を大目付に抜擢しようとしたが、新政府の態度に抗議して切腹したと伝えられる。【1種4A号13~24側】

 

長郷泰輔墓

 

 長郷泰輔は会津出身。嘉永二年(1849)生まれ。ロシア正教会主教ニコライの紹介で,横浜のフランス人建築技師レスカスに学んだ。建築会社を設立し東京駿河台のニコライ堂、フランス、ロシア両大使館などの建設に関わった。明治四十四年(1911)。年六十三。

 

橋本家之墓(揚州周延の墓)

 

 橋本周延(ちかのぶ)は天保九年(1838)の生まれ。雅号は揚州。はじめ国芳および三代豊国に学び、のち豊原国周の門に入った。美人画が多く、特に大奥の風俗画を得意とした。ほかに明治初期の風俗画、子供錦絵、役者絵、挿絵なども残した。明治十二年(1879)には外務省の命により作画し、明治十五年(1882)には絵画共進会に出品して褒状を受けるなど、国周門下でももっとも画技に優れた。晩年は古版画の模写をしていたという。大正元年(1912)、年七十五で没。墓石の前には「最後の浮世絵師揚州周延歿後百年の碑」が建てられている。【1種4B号5側40番】

 

大野家之墓(大野吉之助の墓)

 

 大野吉之助は高田藩士。神木隊。慶應四年(1868)五月十五日、上野戦争にて戦死。墓誌には五月十四日となっている。

 

吉澤家之墓(吉澤勇四郎の墓)

 

 吉澤勇四郎(友三郎とも)は、工兵頭並。工兵隊長。明治二年(1869)五月、五稜郭にて戦死(亀田で行方不明とも)。墓誌によれば、没日は五月十一日となっている。三十一歳。

 

生亀恭介之墓

 

 生亀(いけがめ)恭介は、嘉永二年(1849)の生まれ。墓石背面および側面には、京都守護職に任じられた主君に従って上京したことや、戊辰戦争では朱雀隊銃卒。半隊長として越後口に出陣して負傷したことなどが記されている。維新後は宮内省に出仕。明治四十三年(1910)、六十二歳にて没。

 

本地利屋之墓 静岡県士族

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されている本地巳之太郎のものか。本地巳之太郎は、幕軍歩兵差図役下役。慶應四年(1868)一月四日、鳥羽にて戦死。

 

元田家之墓(元田直の墓)

 

 元田直(なおし)は、天保六年(1835)の生まれ。父は豊後杵築藩儒元田竹渓。幼時、父に経史文を学び、十九歳で父の塾生を教え、算学を古原、国学を物集高世に受け、帆足万里、広瀬淡窓らにも教えを受けた。楠木正成の忠節や水戸学に傾き勤王を志し、大阪に赴いて、さらに文久三年(1863)、京師に出て小河一敏を通じ志士と交わった。慶應二年(1866)、毛利氏と乱を謀り幽囚されたが、維新により赦され、明治元年(1869)、上京。内国事務局書記、渡会府判事となり、太政官大史に任じられ、神祇官宣教使の建議をした。明治二年(1869)、東京代言人初代会長となり、明治七年(1874)、法律学舎を建て箕作麟祥らを招いた。明治十三年(1880)、長崎上等裁判所判事に進んだが、明治十五年(1882)に辞し、斯文会を興した。明治二十年(1887)、東京府学務課長兼師範学校長となった。晩年、失明した。大正五年(1916)、年八十二にて没。【1種1号1】

 

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