史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

酒田 Ⅱ

2012年07月01日 | 山形県
(本間家旧宅跡)


本間家旧宅跡


別館

 酒田は、河村瑞賢が西廻り航路を開いてから、北前船の拠点として栄えた。その中心にあったのが豪商本間家である。本間家は、初代久四郎原光が元禄年間に開業以来、十代に渡ってこの地に歴史を刻んできた。今でいう商社のような事業であった。特に中興の祖といわれる三代光丘のときには、千石船により商いを拡大する一方で、農業振興のための土地改良、水利事業や風害軽減のための砂防林の植林などにまで心血を注いだ。現存する本間家旧宅は、三代光丘のときに幕府巡見使一行のために本陣宿として明和五年(1768)に新築されたものである。藩主酒井氏に一旦献上され、のちに拝領した。外観は二千石の旗本の格式を備えた長屋門構えの武家屋敷造りで、奥は商家造りとなっている。
 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿さまに」と謳われるほどの圧倒的な財を蓄え、諸大名にも融資するほどの隆盛を誇った。幕末の庄内藩は、本間家からの莫大な献金を洋式兵器の購入に充てた。

(妙法寺前公園)


三烈士碑

 相生町の妙法寺前の公園の中央に「三烈士碑」が建っている。三烈士とは、幕臣天野豊三郎と佐藤桃太郎、岡崎藩士関口有之助の三名のことをいう。彼らは、箱根で伊庭八郎の率いる遊撃隊に属して戦ったが、庄内藩を頼って来藩したが、そのとき既に庄内藩も降伏していた。彼らは庄内林高院に潜伏しているところを捕えられ、明治二年(1869)四月、酒田で斬首された。

(日和山公園)


日和山公園 日枝神社山門


吉田松陰の碑

 最上川の河口に位置した風光明媚な場所が、日和山公園として整備されている。園内には、「文学の散歩コース」が整備されており、遊歩道沿いに酒田所縁の文学者や有名人の歌碑などが建てられている。
 吉田松陰は、嘉永五年(1852)二月二十一日、東北巡歴の途中、庄内に至った。石碑には、松陰の「東北遊日記」の一節が記載されている。

(瑞相寺)


瑞相寺


工兵隊之墓

 瑞相寺の場所は分かりにくい。結論からいうと、酒田南高校の構内に存在している。小さな墓地に酒田工兵隊の墓がある。

(酒田東高校)


酒田東高校


亀ヶ崎城址

 酒田東高校の所在地が、亀ヶ崎城跡である。庄内藩の城は、「鶴ヶ岡」と「亀ヶ崎」という誠に目出たいネーミングとなっている。元和八年(1622)最上氏が改易されて酒井忠勝が庄内藩主に封じられると、鶴岡城が居城となったが、亀ヶ崎城も存続が許され、江戸期を通じて松平氏を城代として配置した。一国一城令の唯一の例外といわれる。明治以降、一時酒田民政局が置かれ酒田県庁がとなったことがあったが、山形県の成立と同時に解体された。今はほとんど城郭を偲ぶものは残されておらず、土塁が唯一の遺構となっている。

(円通寺)


円通寺


亀ヶ崎城搦手門

 円通寺には、亀ヶ崎城の搦手門が移築されている。亀ヶ崎城の唯一の現存する構築物として貴重なものである。

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