(念興寺)
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念興寺
由良町の念興寺に、会津藩士阿部井留四郎、見廻組隊士土肥仲蔵の墓がある。
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阿部井留四郎(右)・土肥仲蔵墓
阿部井留四郎は会津藩士。浩之進の叔父。十石三人扶持。大砲臼井隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて負傷。紀州由良にて死亡。二十八歳。
土肥仲蔵は見廻組並。慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十一日、由良町念興寺にて自刃した。坂本龍馬暗殺現場にいて、見張りをしていたといわれる人物である。
(光専寺)
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光専寺
皆川守之助墓
光専寺には会津藩士皆川守之助の墓がある。皆川守之助は内藤介右衛門隊。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十八日、死亡。二十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。
(興国寺)
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興国寺
興国寺は、葛山五郎景倫(かげとも)は鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)に真言宗西方寺として建立されたのが端緒である。その後、興国元年(1340)に後村上天皇から興国寺の号を賜った。天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を焼失したが、紀州藩浅野家、徳川家代々の庇護のもと復興された。
由良家歴世之墓(由良守応の墓)
由良守應翁顕彰碑
参道の右手に由良守応(もりふさ)の顕彰碑と墓がある。
由良守応は、文政十年(1827)、門前町に生まれた。由良弥太次と称し、号は義渓といった。幕末には志士として活躍。維新後は明治政府に仕えて、後藤象二郎、陸奥宗光らと親交をもった。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行して先進文化を吸収し、帰国後、東京で二階建て乗り合い場所「千里軒」を営業し、文明開化の先駆的な事業を手掛けた。明治二十七年(1894)三月、六十七歳で逝去。
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念興寺
由良町の念興寺に、会津藩士阿部井留四郎、見廻組隊士土肥仲蔵の墓がある。
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阿部井留四郎(右)・土肥仲蔵墓
阿部井留四郎は会津藩士。浩之進の叔父。十石三人扶持。大砲臼井隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて負傷。紀州由良にて死亡。二十八歳。
土肥仲蔵は見廻組並。慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十一日、由良町念興寺にて自刃した。坂本龍馬暗殺現場にいて、見張りをしていたといわれる人物である。
(光専寺)
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光専寺
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皆川守之助墓
光専寺には会津藩士皆川守之助の墓がある。皆川守之助は内藤介右衛門隊。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十八日、死亡。二十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。
(興国寺)
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興国寺
興国寺は、葛山五郎景倫(かげとも)は鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)に真言宗西方寺として建立されたのが端緒である。その後、興国元年(1340)に後村上天皇から興国寺の号を賜った。天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を焼失したが、紀州藩浅野家、徳川家代々の庇護のもと復興された。
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由良家歴世之墓(由良守応の墓)
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由良守應翁顕彰碑
参道の右手に由良守応(もりふさ)の顕彰碑と墓がある。
由良守応は、文政十年(1827)、門前町に生まれた。由良弥太次と称し、号は義渓といった。幕末には志士として活躍。維新後は明治政府に仕えて、後藤象二郎、陸奥宗光らと親交をもった。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行して先進文化を吸収し、帰国後、東京で二階建て乗り合い場所「千里軒」を営業し、文明開化の先駆的な事業を手掛けた。明治二十七年(1894)三月、六十七歳で逝去。
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