(天誅倉)
十津川から龍神までの国道は、カーブが連続する片側一車線の山道である。距離にして四〇キロメートル余り、走行時間は一時間以上。その間、ずっとカーナビの「急ハンドルを検知しました。安全運転をこころがけてください」というアナウンスが途切れることがなかった。
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天誅倉
天誅倉と呼ばれる小さな小屋は、文久三年(1863)、天誅組の水郡善之祐を首領とする河内勢八名が、再挙を図るため十津川から紀州藩領小又川まで逃れてきたが、里人から警備の堅固さを知らされ、脱出不可能を悟った彼らが自首した後、幽閉されたものである。この倉は百姓喜助の所有であった。
水郡善之祐は、倉の柱に
「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を刻んだ。
天誅倉は、昭和三十九年(1964)の大雨で倒壊してしまい、その後復元したものである。
十津川から龍神までの国道は、カーブが連続する片側一車線の山道である。距離にして四〇キロメートル余り、走行時間は一時間以上。その間、ずっとカーナビの「急ハンドルを検知しました。安全運転をこころがけてください」というアナウンスが途切れることがなかった。
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天誅倉
天誅倉と呼ばれる小さな小屋は、文久三年(1863)、天誅組の水郡善之祐を首領とする河内勢八名が、再挙を図るため十津川から紀州藩領小又川まで逃れてきたが、里人から警備の堅固さを知らされ、脱出不可能を悟った彼らが自首した後、幽閉されたものである。この倉は百姓喜助の所有であった。
水郡善之祐は、倉の柱に
「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を刻んだ。
天誅倉は、昭和三十九年(1964)の大雨で倒壊してしまい、その後復元したものである。
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