史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上越 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(金谷山)


金谷山頂より上越市高田方面を臨む

金谷山(かなやさん)は高田の西方に位置する標高百四十五メートルの山である。山頂から上越市が一望できる。

明治四十四年(1911)、オーストリアのテオドール・フォン・レルヒ少佐が、金谷山でスキーを伝えたことから、この山はスキー発祥の地と呼ばれている。山頂には記念館がある。


レルヒ像

金谷山頂、スキーを履いたレルヒ像。ここから高田方面に山を下ると、裾野に墓地が広がる。

(医王寺)


医王寺 薬師堂

医王寺は、高田城の裏鬼門に当たることから、歴代藩主の篤い尊崇を得た。なかでも松平光長の母勝子は薬師如来を信仰し、医王寺境内に薬師堂を建立した。


高田藩士 明治戊辰戦死之碑

医王寺の墓地には二つの高田藩士の墓碑がある。戊辰戦死の碑は、旧幕軍に投じた神木隊の戦死者を弔ったものと言われる。


高田藩士 慶応丙寅戦死之碑

(官修墓地)
金谷山官修墓地には、各地で見慣れた台形の薩摩藩合葬墓がある。やはり侯爵松方正義の書。
墓の台座には、ここに葬られている薩摩藩の関係者の名前が記されている。西郷吉二郎、富山弥兵衛、中原猶介といった有名人の名前を見ることができる。


戊辰薩藩戦死者墓

中原猶介は、天保三年(1832)薩摩藩士の家に生まれた。長崎で公務のあいまに蘭学を修め、島津斉彬に見いだされて軍艦建造等の計画に関与した。その後江戸に留学して安井息軒に漢学、杉田成卿に蘭学を学んだ。帰藩して兵器軍制の改革、軍隊の調練に当たった。文久元年(1861)には再び藩命を受けて江戸に出て、江川英敏の塾に入って塾頭となった。帰藩後は海軍の整備、砲台の改造に従事した。戊辰戦争では海軍参謀となって北越に進軍したが、長岡にて戦病死した。年三十七であった。


官修墓地

山口藩、豊浦藩等の戊辰戦争戦死者の墓である。


御手洗噴水碑
西南戦争殉難者慰霊碑


高田藩士の墓

墓地には新政府軍に従軍した高田藩士も葬られている。その横には、明治十年(1877)西南戦争で戦死した高田藩士の合葬墓も建てられている。

(会津墓地)
金谷山の麓に会津墓地がある。
明治二年(1869)戊辰戦争に敗れた会津藩士千七百四十二名は降伏人として高田藩に預けられた。一年半の幽囚生活の末、越後の冬の厳しい寒さに六十八人がこの地で命を落とした。異郷で斃れた六十八名とともに、越後高田に在住した三十余名の会津藩出身者が合わせて眠っている。


会津墓地


会津墓地

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