史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上越 Ⅲ

2011年09月12日 | 新潟県
(観音寺)


観音寺

直江津の観音寺には、戊辰戦争の戦死者二名の墓がある。
一つの墓の主は、中山正路(石之助)という小浜藩の若者である。
その隣に、同じく小浜藩の農民伊助の墓もある。


中山正路之墓


墓 若州二方郡 伊助

(寺町)
東征軍は、極楽寺を会所(本部)とした。現在極楽寺は廃寺となっている。本願寺、浄興寺、長遠寺、善行寺、本誓寺、真宗寺を宿舎に、来迎寺を野戦病院とした。


浄興寺


長遠寺


善行寺


本誓寺


真宗寺


来迎寺

戊辰戦争後、敗れた会津藩の降人(捕虜)は、信州松代藩と越後高田藩に預けられることになった。財政窮乏していた両藩は、降人受け入れの免除を懇願した。しかし、新政府は松代藩の願いのみを聞き入れ、松代藩に預けられるはずの降人は、東京の講武所、護国寺等に収容されることになった。
一方、高田藩では、慶長年間に戦時の避難所として城下町に寺町が形成されていた。現在でも六十三の寺が、並行する二つの通り沿いに整然と並んでいる。往時は百三十を越える寺院が軒を並べていたという。寺院はほぼ宗派ごとにまとめられており、本堂が東向きに建てられたものが多く、しかもいずれも深い緑に包まれている。
新政府は戊辰戦争で高田に進駐したときに、寺町の規模と収容能力を知っていたため、高田藩の懇願を却下し、会津藩降人千七百四十二名(脱走者もいたようで人員には諸説あり)を高田藩に移送した。もともと譜代藩という負い目もあり、新政府から二万石の援助を条件に高田藩は、会津降人を受け入れることになった。下表のとおり寺町の各寺に降人を分宿させている。なお、二万石の援助は空手形に終わった。
高田藩は会津藩に同情的であり、降人はつかの間(明治三年(1870)五月までの一年半)平穏な日々を過ごした。それでも栄養不足から脚気や腫物が流行し、この間六十八人が命を落としている。彼らは金谷山の会津墓地に葬られた。
藩主松平容保以下藩士一同の赦免が決定されたのは、明治三年(1870)二月のことで、同年六月、高田に収容されていた藩士は新潟港から新政府が用意した外国汽船で下北半島の斗南へ送られた。会津藩の受難はこれからであった。

本願寺高田別院・本堂 114
 同 ・茶所 4
 同 ・五日講 44
 同 ・総会所 90
神宮寺 38
長恩寺(現・天宗寺) 19
称念寺 32
長遠寺 54
日朝寺 51
善行寺 61
本誓寺 95
本浄寺 14
了源寺 14
円福寺 16
長楽寺 18
高安寺 42
太岩寺 28
真宗寺 58
法林寺 19
常国寺 33
願重寺 33
天林寺 11
最尊寺 28
願念寺 27
念妙寺 8
長命寺 33
浄国寺 27
安傳寺 6
浄林寺 9
光国寺 9
光学寺 11
大巌寺 33
妙国寺 37
常顕寺 48
海隣寺 54
宗恩寺 10
浄興寺 104
善福寺 18
浄正寺 9
浄泉寺 20
玄興寺 17
西光寺 10
正念寺 5
正光寺 15
常敬寺 36
浄蓮寺 14
明善寺 8
常栄寺 22
その他廃寺16カ寺 210

半日をかけて現存する四十数か寺を訪ねて、寺町を歩いた。写真を全部紹介するのも芸がないので、ここでは東征軍が宿舎や野戦病院とした寺院のみ写真を掲載することとした。
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