史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

羽曳野 古市

2020年11月14日 | 大阪府

(古市六町墓地)

 大和川の支流石川の土手に小河(おごう)一敏の顕彰碑があるということは、以前から分かっていたが、なかなかその正確な場所が分からず、探しあぐねていた。Google Mapでようやくその場所を特定することができたので、早速訪ねることにした。場所は近鉄古市駅から東に約十分歩いた共同墓地である。

 

小河一敏紀念碑

 

 小河一敏は文化十年(1813)の生まれ。岡藩士。通称は弥右衛門。角田九華に朱子学を学び、のち陽明学、仏典を渉り、国学を究め、さらに易経、国乗、兵法の三科を専らにし、弓馬、槍剣、詩歌、点茶、挿花にも免許を得た。幼時、父を失い十一歳で家督を継ぎ、二十四歳で会計元締役、家老とともに新政を布いた。天保十一年(1840)、俗論党に嫌われ蟄居を命じられた。皇室の式微を嘆き、毎月六回読書会を開いて、尊王の志気を興し、京都中山家と通じた。嘉永六年(1853)、米艦の来航を知り、ひそかに藩を出て両肥、両筑を遊説した。このとき真木和泉、平野國臣らと結んで尊王攘夷を鼓吹し、安政元年(1854)閉門。許されると、長崎より渡航しようとして失敗、謹慎処分に処された。この時点で小河は岡藩尊攘派を代表する存在になっていた。文久二年(1862)、広瀬重武と出奔、真木和泉の幽居に赴き大勢を知って帰藩した。文久三年(1863)、田近陽一郎ら十六人と上京の途上、下関にて西郷隆盛らと国事を談じ、上阪して薩邸に入り、志士とともに島津久光を盟主とし、孝明天皇の大詔渙発を請わんとしたが、有馬新七らが寺田屋に討たれ、真木和泉を捕らわれて計画は失敗した。小河一敏は免れて京摂にあり、岩倉具視、大原重徳の諸卿が天皇の内旨を奉じて一敏に問われたので、一書を献じ叡覧を賜った。久光を通じて天皇より感状を賜ったが、帰藩後、禁固に処された。許されて、同志とともに上京、帰阪してまた禁固された。明治元年(1868)、内国事務権判事などから堺県知事に任じられた。大和川の叛乱により住民が苦しむのを見かね、民部省にかけあって堤防事業を興そうとしたが容れられなかった。一敏は専断をもって断行し、その結果、明治三年(1870)、免官、謹慎に処された。一説に資金を得るために勝手に藩札を発行したためとされる。古市の顕彰碑はそのことを感謝記念したものである。その後、宮内大丞に任じられたが、嫌疑を受けて明治四年(1871)、鳥取に幽閉され、明治六年(1873)、赦されて教部省、太政官、宮内省に出仕し、明治十四年(1881)には宮内省御用掛に任じられた。明治十九年(1886)、年七十四にて没。

 

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