(小城公園)
小城公園(自楽園跡)
この場所には、かつて「鯖岡(娑婆岡)」と称する小丘があった。小城初代藩主鍋島元茂は、この地に桜を植えて茶屋を設けた。明暦二年(1656)、二代藩主鍋島直能が桜岡と改称し、さらに吉野の桜などを移植した。直能は、桜岡の南方に池水・邸閣を配した庭園を造り「自楽園」と命名した。
明治六年(1873)、明治政府は太政官布告で公園の制定を掲げ、明治八年(1875)、佐賀県下で初めての公園として桜岡公園が成立した。園内には興味深い石碑や史跡などが点在している。
桜岡公園碑
桜岡公園碑は、明治八年(1875)。桜岡公園が誕生したときの記念碑である。表面には中林梧竹の篆書で「桜岡公園」と刻まれている。
梧竹退筆塚
梧竹退筆塚は、書家中林梧竹によって大正三年(1914)に建立されたもの。高さおよそ五メートルという大きなもので、題字は幕末の藩主鍋島直虎による。横石に「信哉(八十七翁梧竹)」、右門に「書聖垂範」、左門に「自彊乃成」と、いずれも梧竹の書が刻まれる。
除幕式の際は、町内に花笠が飾られ、当時の佐賀市長、小城町長を迎え、来賓・遺族約二百余名が列席し盛大に開かれたという。
甲戌烈士之碑
甲戌烈士之碑は、明治七年(1874)の佐賀の乱で戦死した旧小城藩士十三名の慰霊碑。明治二十八年(1895)、梧竹六十九歳の書で「甲戌烈士之碑」と刻まれる。
(桜岡小学校正門前)
藩校興譲館跡
小城藩藩校は、天明四年(1784)の文武稽古所に始まり、七代藩主鍋島直愈の時代、興譲館と改められた。生徒は武士の子弟に限られており。嫡子は十五歳から二十四歳まで寄宿舎に入り、食事代は藩から支給されていた。嫡子以外でも願い出れば寄宿できたが、半額は自己負担であった。授業には文学と武術があった。文学では、中国の書物が使われ読本が行われていた。武術は、槍,剣などが午後三時から日暮れまで行われた。試験は毎月三回、家老以下の藩士が臨席する中で行われ、成績優秀者には商品が与えられた。一方、罰として拘置、減食などがあった。職員は十五名で、生徒は寄宿生が百名、通学生が八十名ほどで、学校の経費として百五十石が支給されていた。
興譲館から、書聖中林梧竹、政治家の松田正久、波多野敬直、科学者の中野初子らが巣立っている。
(小城高校)
元小城藩館跡
小城は佐賀藩の支藩で、石高は七万三千石。佐賀藩の三支藩(小城・蓮池・鹿島)はともに城を持たず、藩主の屋敷は陣屋あるいは館(やかた)と称されていた。小城藩邸は、桜岡(現・小城高校付近)にあった、小城鍋島家初代鍋島元茂の邸宅に始まる。元茂は小城には常駐しておらず、佐賀城西ノ丸に居住していた。その後、二代直能が屋敷をつくり隠居所とし、三代元武がここを正式に居住所と定め、藩邸が成立した。藩邸は廃藩置県後の明治十五年(1882)、解体された。かつて藩邸正門前にあった石橋が残されているのみである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/01/5e5e9ebfb59cbeb9e7db03ece742682f.jpg)
正門前の石橋
(中林梧竹記念館)
小城は静かで落ち着いた街であるが、観光客を曳き付けるようなスターがいない。藩邸跡から梧竹生誕地辺りまでを梧竹ロードを名付け、中林梧竹の書を石碑に刻したものを展示していて、ちょっとした展覧会場となっている。その中心には中林梧竹記念館(別名・桜城館)があり、梧竹の作品が展示されているが、残念なことに連休中は閉館されており、拝観することはできなかった。梧竹は「近代書の祖」「書聖」と称されるが、残念ながら全国的な知名度は今一つ。中林梧竹では、市外からの集客は難しいだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/71/64ba2a1a920509a794573c79f000aa29.jpg)
中林梧竹記念館
(代官所跡)
小城市内には、梧竹の書が多く残されており、その全てを網羅するのは不可能だが、代官所跡にあった書碑を紹介しておこう。
中林梧竹の書「快雨」
「快雨」すなわち心地よい雨という意味である。梧竹五十九歳の作。恩人余元眉が清国に帰国するにあたって長崎に出向き、その帰途有田で書いたものである。
(中林梧竹生誕地)
中林梧竹生誕地を探して、付近を歩き回ったが、なかなか見つからない。近くのコンビニの店員に聞いてみたところ
「聞いたことはありますが、分かりません」
という返事しか得ることができず、半ば諦めかけた時、ようやく発見することができた。
中林梧竹生誕の地
中林梧竹が、この地に生まれたのは、文政十年(1827)。父は小城藩士中林経緯。藩校興譲館に学び、草場佩川に師事した。のちに江戸に出て、書を山内香雪に学んだ。二十八歳で帰藩し、興譲館指南役を務めた。維新後は役職に就かず、書に専念した。明治十年(1877)頃、長崎に移り住み、清国領事の余元眉と知り合う。明治十五年(1882)、清国に渡り、潘存に師事した。明治十七年(1884)帰国後は、東京銀座の伊勢幸に住み、以来二十九年間をそこで過ごした。明治二十四年(1891)、副島種臣の勧めに従って、王義之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を賜った。明治三十年(1897)、再度清国に渡った。明治三十一年(1898)、富士山頂に「鎮國之山」銅碑を建立した。
梧竹の生まれた新小路は、藩邸の東にあって、藩士の屋敷があった。中林家の屋敷は、梧竹自身が語り残したところによれば「小城の旧邸には、竹と桐の大木があり、世人が桐の家と呼んだくらいだ」という。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5d/e709ee98aa89d7ba0c37d5a6f9676b72.jpg)
小城公園(自楽園跡)
この場所には、かつて「鯖岡(娑婆岡)」と称する小丘があった。小城初代藩主鍋島元茂は、この地に桜を植えて茶屋を設けた。明暦二年(1656)、二代藩主鍋島直能が桜岡と改称し、さらに吉野の桜などを移植した。直能は、桜岡の南方に池水・邸閣を配した庭園を造り「自楽園」と命名した。
明治六年(1873)、明治政府は太政官布告で公園の制定を掲げ、明治八年(1875)、佐賀県下で初めての公園として桜岡公園が成立した。園内には興味深い石碑や史跡などが点在している。
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桜岡公園碑
桜岡公園碑は、明治八年(1875)。桜岡公園が誕生したときの記念碑である。表面には中林梧竹の篆書で「桜岡公園」と刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/dd57d20b601502d0567ddc24bd2eb649.jpg)
梧竹退筆塚
梧竹退筆塚は、書家中林梧竹によって大正三年(1914)に建立されたもの。高さおよそ五メートルという大きなもので、題字は幕末の藩主鍋島直虎による。横石に「信哉(八十七翁梧竹)」、右門に「書聖垂範」、左門に「自彊乃成」と、いずれも梧竹の書が刻まれる。
除幕式の際は、町内に花笠が飾られ、当時の佐賀市長、小城町長を迎え、来賓・遺族約二百余名が列席し盛大に開かれたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/30/3b97aa73ab9a48d2150fc3d1bad5723e.jpg)
甲戌烈士之碑
甲戌烈士之碑は、明治七年(1874)の佐賀の乱で戦死した旧小城藩士十三名の慰霊碑。明治二十八年(1895)、梧竹六十九歳の書で「甲戌烈士之碑」と刻まれる。
(桜岡小学校正門前)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/1a/6d713f63048e2557374c7793b20bd795.jpg)
藩校興譲館跡
小城藩藩校は、天明四年(1784)の文武稽古所に始まり、七代藩主鍋島直愈の時代、興譲館と改められた。生徒は武士の子弟に限られており。嫡子は十五歳から二十四歳まで寄宿舎に入り、食事代は藩から支給されていた。嫡子以外でも願い出れば寄宿できたが、半額は自己負担であった。授業には文学と武術があった。文学では、中国の書物が使われ読本が行われていた。武術は、槍,剣などが午後三時から日暮れまで行われた。試験は毎月三回、家老以下の藩士が臨席する中で行われ、成績優秀者には商品が与えられた。一方、罰として拘置、減食などがあった。職員は十五名で、生徒は寄宿生が百名、通学生が八十名ほどで、学校の経費として百五十石が支給されていた。
興譲館から、書聖中林梧竹、政治家の松田正久、波多野敬直、科学者の中野初子らが巣立っている。
(小城高校)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/45/7fcd9861a42eb3a2eb2a729203d5a482.jpg)
元小城藩館跡
小城は佐賀藩の支藩で、石高は七万三千石。佐賀藩の三支藩(小城・蓮池・鹿島)はともに城を持たず、藩主の屋敷は陣屋あるいは館(やかた)と称されていた。小城藩邸は、桜岡(現・小城高校付近)にあった、小城鍋島家初代鍋島元茂の邸宅に始まる。元茂は小城には常駐しておらず、佐賀城西ノ丸に居住していた。その後、二代直能が屋敷をつくり隠居所とし、三代元武がここを正式に居住所と定め、藩邸が成立した。藩邸は廃藩置県後の明治十五年(1882)、解体された。かつて藩邸正門前にあった石橋が残されているのみである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/01/5e5e9ebfb59cbeb9e7db03ece742682f.jpg)
正門前の石橋
(中林梧竹記念館)
小城は静かで落ち着いた街であるが、観光客を曳き付けるようなスターがいない。藩邸跡から梧竹生誕地辺りまでを梧竹ロードを名付け、中林梧竹の書を石碑に刻したものを展示していて、ちょっとした展覧会場となっている。その中心には中林梧竹記念館(別名・桜城館)があり、梧竹の作品が展示されているが、残念なことに連休中は閉館されており、拝観することはできなかった。梧竹は「近代書の祖」「書聖」と称されるが、残念ながら全国的な知名度は今一つ。中林梧竹では、市外からの集客は難しいだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/71/64ba2a1a920509a794573c79f000aa29.jpg)
中林梧竹記念館
(代官所跡)
小城市内には、梧竹の書が多く残されており、その全てを網羅するのは不可能だが、代官所跡にあった書碑を紹介しておこう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/65/0f000c602676ecbe8280981422e5a712.jpg)
中林梧竹の書「快雨」
「快雨」すなわち心地よい雨という意味である。梧竹五十九歳の作。恩人余元眉が清国に帰国するにあたって長崎に出向き、その帰途有田で書いたものである。
(中林梧竹生誕地)
中林梧竹生誕地を探して、付近を歩き回ったが、なかなか見つからない。近くのコンビニの店員に聞いてみたところ
「聞いたことはありますが、分かりません」
という返事しか得ることができず、半ば諦めかけた時、ようやく発見することができた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/24/1594cedd79052c2ac43000b34dcb3c3c.jpg)
中林梧竹生誕の地
中林梧竹が、この地に生まれたのは、文政十年(1827)。父は小城藩士中林経緯。藩校興譲館に学び、草場佩川に師事した。のちに江戸に出て、書を山内香雪に学んだ。二十八歳で帰藩し、興譲館指南役を務めた。維新後は役職に就かず、書に専念した。明治十年(1877)頃、長崎に移り住み、清国領事の余元眉と知り合う。明治十五年(1882)、清国に渡り、潘存に師事した。明治十七年(1884)帰国後は、東京銀座の伊勢幸に住み、以来二十九年間をそこで過ごした。明治二十四年(1891)、副島種臣の勧めに従って、王義之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を賜った。明治三十年(1897)、再度清国に渡った。明治三十一年(1898)、富士山頂に「鎮國之山」銅碑を建立した。
梧竹の生まれた新小路は、藩邸の東にあって、藩士の屋敷があった。中林家の屋敷は、梧竹自身が語り残したところによれば「小城の旧邸には、竹と桐の大木があり、世人が桐の家と呼んだくらいだ」という。
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