(伊東玄朴旧宅)
伊東玄朴旧宅
神埼町的(いくわ)の伊東玄朴旧宅である。庭に眼光鋭い玄朴の胸像が置かれている。
伊東玄朴は寛政十二年(1800)、農家の長男としてこの地に生まれた。十一歳のとき、不動院玄透法印について漢学を学び、十七歳の時、自宅で漢方医を開いたが、新しい医学へ憧れて長崎の鳴滝塾でシーボルトに師事し、学識を飛躍的に向上させた。二十五歳で江戸に出て、当時不治の病とされていたジフテリアを治したことから蘭方医として名声を博した。天保四年(1833)、蘭学塾象先堂を開設し、人材の育成に努めた。天保十四年(1843)、佐賀藩主鍋島直正の御匙医となり、「牛痘種痘法」を翻訳する一方、牛痘接種を強く献言した。尚正は意見を取り入れ、藩医楢林宗達を通じて蘭医モーニッケより牛痘苗を取り寄せた。嘉永二年(1849)、藩主の長男淳一郎に、同年江戸屋敷にて長女貢姫(みつひめ)に接種して、いずれも成功した。のちに十三代将軍家定の奥医師となり、文久元年(1861)には、西洋医学所(現在の東京大学医学部の前身)を創設した。明治四年(1871)、七十一歳で病死。我が国における近代西洋医学の父と仰がれる。
伊東玄朴之像
伊東玄朴先生誕生之地
伊東玄朴旧宅
神埼町的(いくわ)の伊東玄朴旧宅である。庭に眼光鋭い玄朴の胸像が置かれている。
伊東玄朴は寛政十二年(1800)、農家の長男としてこの地に生まれた。十一歳のとき、不動院玄透法印について漢学を学び、十七歳の時、自宅で漢方医を開いたが、新しい医学へ憧れて長崎の鳴滝塾でシーボルトに師事し、学識を飛躍的に向上させた。二十五歳で江戸に出て、当時不治の病とされていたジフテリアを治したことから蘭方医として名声を博した。天保四年(1833)、蘭学塾象先堂を開設し、人材の育成に努めた。天保十四年(1843)、佐賀藩主鍋島直正の御匙医となり、「牛痘種痘法」を翻訳する一方、牛痘接種を強く献言した。尚正は意見を取り入れ、藩医楢林宗達を通じて蘭医モーニッケより牛痘苗を取り寄せた。嘉永二年(1849)、藩主の長男淳一郎に、同年江戸屋敷にて長女貢姫(みつひめ)に接種して、いずれも成功した。のちに十三代将軍家定の奥医師となり、文久元年(1861)には、西洋医学所(現在の東京大学医学部の前身)を創設した。明治四年(1871)、七十一歳で病死。我が国における近代西洋医学の父と仰がれる。
伊東玄朴之像
伊東玄朴先生誕生之地
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