(ウェルネスパーク五色)
日露友好の像
洲本市五色町都志は、あの高田屋嘉兵衛が生まれ育った土地である。ウェルネスパーク五色は、テニスコートやオートキャンプ場、野外コンサート会場、温泉施設などを併設する広大な複合施設である。園内には郷土の生んだ英雄高田屋嘉兵衛の顕彰館などがある。

高田屋顕彰館・歴史文化資料館
顕彰館に入ると、早速大きなホールに案内され、上映時間十三分の「菜の花の沖」紹介DVDを見せていただくことになる。例によって、分刻みのスケジュールで史跡を回っていた私にとって、十三分は大きな時間のロスであったが、観客は一人しかおらず、館員から「是非、見て行ってください」と熱心に口説かれて、とても御断りすることはできなかった。平成十二年(2000)、NHKで放映された「菜の花の沖」は竹中直人が主演。ダイジェスト版を見ただけであるが、なかなか面白そうな雰囲気である。

高田屋嘉兵衛肖像
顕彰館の展示
リコルドと意見を交わす嘉兵衛

顕彰館の展示
菱垣廻船
リコルド肖像
ディアナ号副艦長リコルドは、ゴローニン救出のために高田屋嘉兵衛と協議したロシア側の人物。

高田屋嘉兵衛顕彰碑
日本の誇り
高田屋嘉兵衛翁 此の地に眠る
顕彰碑は、時の総理大臣羽田孜の筆による。

高田屋嘉兵衛最初の埋葬地
文政元年(1818)、事業を弟たちに譲り、郷里都志に引退した嘉兵衛は、都志八幡神社随神門の寄進や灌漑用井堰などの築造、都志港などの修築等郷土の開発に尽くした。文政十年(1827)、病のためその波乱に満ちた生涯を閉じ、ふるさとを見下ろすこの地に手厚く葬られた。葬儀は、都志の長林寺で執り行われたが、この地への葬送の列は、道中途切れることなく、まだなお寺の境内にあふれていたといわれる。
(多聞寺)
高田屋嘉兵衛翁墓碑
高誉院至徳唐貫居士
この地域では、埋葬した墓とは別に「参り墓」がある「両墓制」となっている。多聞寺墓地には高田屋嘉兵衛の石造五輪塔型の墓があり、その正面に法名「高誉院至徳唐貫居士」と刻まれている。
平成十一年(1999)、嘉兵衛の生誕二百三十年に際し、地元の人々がその偉業をたたえるために新しく大きな墓碑が建立された。
(高田屋嘉兵衛記念館)
今回、淡路島の高田屋嘉兵衛所縁の地を歩いて、もう一度司馬遼太郎先生の「菜の花の沖」(全六巻)を読んでみようという気になった。書棚から「菜の花の沖」を取り出したのは恐らく三十年以上も前のことである。気に行った本は何度も繰り返し読む習癖を持つ私が一回しか読んでいないということは、当時あまり心に残らなかったということである。今度はどうだろう。
高田屋嘉兵衛記念館
高田屋嘉兵衛像
高田嘉兵衛が生まれ育った屋敷跡に、現在高田屋嘉兵衛翁記念館が建てられている。この記念館には、嘉兵衛愛用の望遠鏡を始め、書簡や屋敷図、辰悦丸の模型などの資料が保存・展示されている。昭和五十四年(1979)の竣工。
地元では毎年八月十五日に街を挙げて「高田屋嘉兵衛まつり」が開かれているそうである。
史蹟 高田屋嘉兵衛旧邸跡
嘉兵衛が生まれた頃の屋敷は小さかったが、文化年間(1804~1816)に大規模なものに建て替えられた。母屋だけで九間半に五間、それ以外に七棟もあり、周りに高い塀を巡らせた屋敷の総面積は一八九二平方メートルに及んだ。
高田屋嘉兵衛顕彰碑
屋敷跡に建てられた顕彰碑は、大正四年(1915)、都志の有志が中心となり、全国中等学校からの寄付金等、各方面の協力を得て建立されたもので、高さ六・三メートル、幅三メートル、厚さ〇・四五~〇・七五メートルという堂々たるものである。

日露友好の像
洲本市五色町都志は、あの高田屋嘉兵衛が生まれ育った土地である。ウェルネスパーク五色は、テニスコートやオートキャンプ場、野外コンサート会場、温泉施設などを併設する広大な複合施設である。園内には郷土の生んだ英雄高田屋嘉兵衛の顕彰館などがある。

高田屋顕彰館・歴史文化資料館
顕彰館に入ると、早速大きなホールに案内され、上映時間十三分の「菜の花の沖」紹介DVDを見せていただくことになる。例によって、分刻みのスケジュールで史跡を回っていた私にとって、十三分は大きな時間のロスであったが、観客は一人しかおらず、館員から「是非、見て行ってください」と熱心に口説かれて、とても御断りすることはできなかった。平成十二年(2000)、NHKで放映された「菜の花の沖」は竹中直人が主演。ダイジェスト版を見ただけであるが、なかなか面白そうな雰囲気である。

高田屋嘉兵衛肖像

顕彰館の展示
リコルドと意見を交わす嘉兵衛

顕彰館の展示
菱垣廻船

リコルド肖像
ディアナ号副艦長リコルドは、ゴローニン救出のために高田屋嘉兵衛と協議したロシア側の人物。

高田屋嘉兵衛顕彰碑
日本の誇り
高田屋嘉兵衛翁 此の地に眠る
顕彰碑は、時の総理大臣羽田孜の筆による。

高田屋嘉兵衛最初の埋葬地
文政元年(1818)、事業を弟たちに譲り、郷里都志に引退した嘉兵衛は、都志八幡神社随神門の寄進や灌漑用井堰などの築造、都志港などの修築等郷土の開発に尽くした。文政十年(1827)、病のためその波乱に満ちた生涯を閉じ、ふるさとを見下ろすこの地に手厚く葬られた。葬儀は、都志の長林寺で執り行われたが、この地への葬送の列は、道中途切れることなく、まだなお寺の境内にあふれていたといわれる。
(多聞寺)

高田屋嘉兵衛翁墓碑

高誉院至徳唐貫居士
この地域では、埋葬した墓とは別に「参り墓」がある「両墓制」となっている。多聞寺墓地には高田屋嘉兵衛の石造五輪塔型の墓があり、その正面に法名「高誉院至徳唐貫居士」と刻まれている。
平成十一年(1999)、嘉兵衛の生誕二百三十年に際し、地元の人々がその偉業をたたえるために新しく大きな墓碑が建立された。
(高田屋嘉兵衛記念館)
今回、淡路島の高田屋嘉兵衛所縁の地を歩いて、もう一度司馬遼太郎先生の「菜の花の沖」(全六巻)を読んでみようという気になった。書棚から「菜の花の沖」を取り出したのは恐らく三十年以上も前のことである。気に行った本は何度も繰り返し読む習癖を持つ私が一回しか読んでいないということは、当時あまり心に残らなかったということである。今度はどうだろう。

高田屋嘉兵衛記念館

高田屋嘉兵衛像
高田嘉兵衛が生まれ育った屋敷跡に、現在高田屋嘉兵衛翁記念館が建てられている。この記念館には、嘉兵衛愛用の望遠鏡を始め、書簡や屋敷図、辰悦丸の模型などの資料が保存・展示されている。昭和五十四年(1979)の竣工。
地元では毎年八月十五日に街を挙げて「高田屋嘉兵衛まつり」が開かれているそうである。

史蹟 高田屋嘉兵衛旧邸跡
嘉兵衛が生まれた頃の屋敷は小さかったが、文化年間(1804~1816)に大規模なものに建て替えられた。母屋だけで九間半に五間、それ以外に七棟もあり、周りに高い塀を巡らせた屋敷の総面積は一八九二平方メートルに及んだ。

高田屋嘉兵衛顕彰碑
屋敷跡に建てられた顕彰碑は、大正四年(1915)、都志の有志が中心となり、全国中等学校からの寄付金等、各方面の協力を得て建立されたもので、高さ六・三メートル、幅三メートル、厚さ〇・四五~〇・七五メートルという堂々たるものである。
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