史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

竹原 Ⅱ

2019年06月15日 | 広島県
(忠海八幡神社)


忠海八幡神社

 竹原市忠海(ただのうみ)町の八幡神社に池田徳太郎の顕彰碑がある。
 池田徳太郎(号は快堂)は、天保二年(1831)に忠海町の医者池田元琳の長子として生まれた。幼くして神童と呼ばれ、八歳にして入野村の清田黄裳の塾に学んだ。十一歳から豊前中津の常藤頼母に師事。さらに十五歳から豊後の広瀬淡窓の門に入り、筑前の亀井革卿の塾を訪れ、試しに「論語」を講じて認められ、塾長となった。十九歳で帰郷し、病死した黄裳にかわって清田塾を主宰し、さらに須波の曹洞宗能満寺に山籠もりして読書修養に励むかたわら、学生を教えていた。その頃、浦賀にペリー、長崎にプチャーチンが来航し、徳太郎は江戸遊学の志を立て、安政四年(1858)、麹町に塾を開き、お玉が池の清河八郎の道場に通った。安政の大獄で吉田松陰、頼三樹三郎らが処刑されたことを聞き、大いに憤慨している。文久元年(1861)、清河八郎、伊牟田尚平、樋渡清明、山岡鉄太郎(鉄舟)、北有馬太郎、笠井伊蔵等と会して、尊王攘夷の挙に出ることを決した。しかし、幕府の偵察が厳しく、清河八郎が無頼漢を斬ったことを口実に逮捕投獄されてしまう。獄中での厳しい吟味に耐え、死を覚悟して同志を救うことに苦心した。獄中不衛生により多くの同志が病死し、徳太郎も瀕死の大病を患ったが、九死に一生を得た。文久二年(1862)、坂下門外の変が起こり、これを契機に幕府の方針が変わり、国事犯の赦免がなされ、徳太郎も放免された。徳太郎は、国事のため囚われた志士の大赦と、浪士募集の運動を画策した。幕府も将軍家上洛を理由に浪士を集めてその懐柔策とした。この浪士の組織が分裂して、一部が新選組となったが、徳太郎は、幕府の力で変革は無理と判断して、同志と袂を分かち帰省した。元治元年(1864)には芸藩に属し、藩の重要事件に関し、密使として活躍。慶応三年(1867)十一月には御手洗において薩長芸の会盟が開かれ、徳太郎は芸藩を代表してこれに当たった。戊辰戦争が起こると、倒幕軍の参謀として芸州兵を率いて出兵した。戦後は地方官として、下総常陸の管轄を命じられ、さらに若森県権知事、新治県権令、島根県権令、岩手県参事、青森県権令を歴任した。明治七年(1874)、四十四歳で病没。


維新志士 池田快堂顕彰碑

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