史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

広島 Ⅱ

2019年06月29日 | 広島県

(聖光寺)

 東広島での史跡三昧の一日を過ごした夜、広島へ移動してそこで車中泊することになった。広島は大都市であるが、どういうわけだか車中泊の定番「道の駅」が周辺に少なく、ネットで検索すると「マリーン公園」くらいしかヒットしないのである。マリーン公園は、広島市と廿日市市の境の海岸沿いにある。広い駐車スペースを備えているが、前日のRVパーク西条駅前が閑散としていたのと打って変わって、大混雑であった。

 聖光寺

 平成が終わり、令和を迎えた。私の令和も史跡の旅で始まった。

外が明るくなると早々にマリーン公園を出発し、真っ先に向かったのが東区山根町の聖光寺である。浅野家繋がりだろうか、境内には赤穂浪士大石内蔵助父子の供養塔がある。

 

 

高間壮士之碑と高間省三正忠之墓

 

 高間省三の墓と顕彰碑である。高間省三は、広島藩の武具奉行高間多須衛の長子。藩校助教を務めた。若くして神機隊の砲隊長兼武器方として出征。慶応四年(1868)八月一日、浪江口において顔面に砲撃を受け戦死。双葉町自性院にも墓所がある。二十一歳。顕彰碑は、阪谷朗蘆の撰文。

 

  

介菴梅園翁之碑

 

 梅園介庵は広島藩儒。慶應元年(1865)、江戸詰藩邸学館(講学所)を監督。明治三年(1870)、三原学校監督。廃藩後は修道学校教授。明治十八年(1885)には市内中島本町に漢学学校麗澤学校を開いた。明治二十一年(1888)没。

 (本照寺)

 聖光寺の後、安佐南区の緑井霊園に行って、咸臨丸航海長小野友五郎の墓を探したが、緑井霊園では小野家の墓すら見つけることができなかった。

 次いで常林寺で戊辰殉難者亀田喜代三の墓を探したが、周囲は広大な霊園となっており、まずその中から常林寺の墓域を探す作業から始めなくてはならなかった。残念ながら、ここでも亀田喜代三の墓に出会うことはできなかった。

 空振りが続いたが、次に訪れた本照寺では、墓地に入った途端、目の前に目当ての阪井虎山の墓が立っていた。

 

 

本照寺

 

 

虎山阪井先生之墓

 

 阪井虎山は幕末の広島藩儒。頼春水に学び、漢詩に長じた。妙円寺の海防僧月性も二十歳のとき虎山に入門し、交流が深かった。嘉永三年(1850)、五十三歳にて没。

 

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