史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白河 Ⅳ

2020年04月11日 | 福島県

(妙徳寺)

 妙徳寺には、市川方静の墓がある。

 市川方静(ほうせい)は、白河藩士の子として天保五年(1834)に生まれた。通称は運八郎。不求庵と号した。天文学や数理学を学び、測量術を習得した。明治には、師範学校の算術教授となったが、研究のため辞し、明治十九年(1886)には自らの測量器「方静儀」が工部省に採用された。私塾では多くの弟子を教え、外務大臣を務めた後藤新平もその一人であった。諸芸にも通じ、特に和歌は毎週歌会を催したという。明治二十年(1887)には、国家事業として行われた白河での皆既日食観測に地元学者として協力した。明治三十六年(1903)七十歳にて没。

 

妙徳寺

 

徳潤院釋意裕居士 潤法院釋妙誠大姉

(市川方静の墓)

 

(妙関寺)

 

妙関寺

 

内儀家之墓(内儀茂助の墓)

 

 妙関寺には棚倉藩士内儀(ないぎ)茂助の墓がある。

 内儀茂助は、弾薬方。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。墓石側面には、「義則院勇猛日立信士」という法名とともに「内儀茂助明鄰」という名前が刻まれている。

 

(白河第三小学校)

 白河第三小学校の道路を挟んで東側に戊辰役戦死之碑が建てられている。この日は、大正元年(1911)に白河町の四名が発起人となり、有志の賛助を得て建立した碑で、蛇石・文殊山、桜町付近に仮埋葬されていた東軍側(奥羽越列藩同盟軍)の戦死者十二名を合葬したものである。

 

戊辰役戦死之碑

 

(米山越)

 

仙臺 斎藤善次衛門戦死供養

 

 激戦地となった稲荷山に近い米山越の八雲神社の近くに古い墓石のみがある墓地があり、その中に戦死した仙台藩士の供養塔がある。中央には「斉藤善次右衛門」の名前が刻まれている。

 斎藤善次右衛門は、陸前桃生郡前谷地村の富豪。しばしば仙台藩に軍費を献上。戊辰役仙台藩軍に加わり、慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十二歳。

下段に三名の名前が刻まれているが、摩耗が激しく読み取れない。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、三名は桜井伊勢松、本田三十郎、山口七三郎。いずれも斉藤善次右衛門の家来で、五月二日に白河で戦死したとなっている。

 

(大村温泉)

 

戦死数名埋葬塔

 

 大村温泉の大村旅館の片隅に、戊辰戦争における同盟軍の戦死者供養塔がある。これも摩耗が激しくほぼ一文字も読めない。

 

(搦目)

搦目のバス停のそばに「廿三夜碑」があり、その背後に「戊辰戦死之碑」と「戦死数名埋葬塔」という二つの東軍戦死者を慰霊する碑がある。

 

戊辰戦死之碑

 

戦死数名埋葬塔

 

(双石)

 

戦死霊魂供養

 

 双石(くらべいし)の県道11号線沿いにある戦死者供養塔である。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 白河 Ⅲ | トップ | 白河 東 Ⅱ »

コメントを投稿

福島県」カテゴリの最新記事