(旭三丁目共同墓地)
播磨(兵庫県加古川市)で開かれる野球大会を一週間後に控え、「さすがに一度も練習せずに大会にのぞむのは如何なものか」ということになり、市川のグラウンドで練習することになった。八王子は小雨で、都内も強い雨であったが、どういうわけだか市川周辺は雨の気配がなく、私がグラウンドに着いたときには、既に練習が始まっていた。準備運動もそこそこにからだを動かしたのがいけなかった。ファーストに送球を投じた瞬間、腰に違和感を覚えた。三年振りのぎっくり腰である。すぐさま練習を中止したが、翌週の野球大会でプレーできるのか、黄信号が点った。
このまま自宅に帰ったのでは、腰を痛めるために市川まで往復したことになってしまう。自動車を運転するのも苦痛であったが、船橋まで足を伸ばし、前回(確かもう五~六年前になるだろう)訪ねて発見できなかった旭三丁目墓地の撤兵隊士の墓に再挑戦することにした。
妙法青蓮院法進日明信士(撤兵隊士の墓)
墓には法名と慶応四年四月六日という没年月日が刻まれているが、本名は伝わっていない。墓の主は、高橋家で自刃したため、今も高橋定右エ門家の墓所に置かれている。
撤兵隊(さんぺいたい)とは、フランス式の伝習による幕府洋式銃隊砲隊で、慶応三年(1867)の夏、小栗上野介忠順(当時、歩兵奉行)の献策によって創設されたという。隊員は天領内の農家壮丁からなり、歩兵組に編成された。江戸開城直後、部隊の一部が脱走し、房総方面で反薩長の気勢をあげた。市川に集結した舞台は、やがて大鳥圭介の指揮下に入り、他の旧幕諸隊といっしょに北関東から会津、北海道まで転戦した。林忠崇の日記によると、その質は遊撃隊や伝習隊に比べ、著しく見劣りしたという。実際、脱走者も多かった。
播磨(兵庫県加古川市)で開かれる野球大会を一週間後に控え、「さすがに一度も練習せずに大会にのぞむのは如何なものか」ということになり、市川のグラウンドで練習することになった。八王子は小雨で、都内も強い雨であったが、どういうわけだか市川周辺は雨の気配がなく、私がグラウンドに着いたときには、既に練習が始まっていた。準備運動もそこそこにからだを動かしたのがいけなかった。ファーストに送球を投じた瞬間、腰に違和感を覚えた。三年振りのぎっくり腰である。すぐさま練習を中止したが、翌週の野球大会でプレーできるのか、黄信号が点った。
このまま自宅に帰ったのでは、腰を痛めるために市川まで往復したことになってしまう。自動車を運転するのも苦痛であったが、船橋まで足を伸ばし、前回(確かもう五~六年前になるだろう)訪ねて発見できなかった旭三丁目墓地の撤兵隊士の墓に再挑戦することにした。

妙法青蓮院法進日明信士(撤兵隊士の墓)
墓には法名と慶応四年四月六日という没年月日が刻まれているが、本名は伝わっていない。墓の主は、高橋家で自刃したため、今も高橋定右エ門家の墓所に置かれている。
撤兵隊(さんぺいたい)とは、フランス式の伝習による幕府洋式銃隊砲隊で、慶応三年(1867)の夏、小栗上野介忠順(当時、歩兵奉行)の献策によって創設されたという。隊員は天領内の農家壮丁からなり、歩兵組に編成された。江戸開城直後、部隊の一部が脱走し、房総方面で反薩長の気勢をあげた。市川に集結した舞台は、やがて大鳥圭介の指揮下に入り、他の旧幕諸隊といっしょに北関東から会津、北海道まで転戦した。林忠崇の日記によると、その質は遊撃隊や伝習隊に比べ、著しく見劣りしたという。実際、脱走者も多かった。
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