(山鹿市立博物館つづき)
やはり博物館の前に江戸時代の民家が移設されている。この民家は、天保十一年(1840)に建築され、昭和五十四年(1979)に現在地に移設されたものである。故松永荘作氏の保有していたもので、後述するように官軍は松永邸に台場を築いて薩軍に応戦したため、この家にも貫通した弾痕が残ることになった。自力で弾痕が確認できなかったので、改めてK氏、E氏に案内していただき、確認することができた。
江戸時代の民家(松永邸)

弾痕

西南之役
薩軍村田三介戦死之地
博物館脇の道をオブサン古墳方面に北上すると、右手に村田三助戦死之地の巨大な石碑がある。
村田三介は、弘化二年(1845)、薩摩藩士枝次彦衛の第三子として鹿児島後迫に生まれた。幼時に村田平右衛門の嗣となりその姓を継ぎ、島津氏に仕えて近習番となった。戊辰戦争では砲兵分隊長として、奥羽の山野を転戦して戦功を挙げたため、若くして砲兵教佐となり、明治五年(1872)には二十七歳の若さで少佐に昇進した。しかし、明治六年(1873)には西郷隆盛の下野に従い職を辞して鹿児島に帰った。明治十年(1877)の西南の役では、五番大隊二番小隊長として熊本に向い、二月二十二日の植木の戦闘において、乃木少佐の率いる官軍を破って、小倉第十四連隊の軍旗を纂奪した。その後、四番大隊長桐野利秋の旗下に入って山鹿口の戦場に向かった。村田三介は鍋田台地における最も重要な拠点を守った。三月十二日の激戦で味方の先頭に立って敵陣を襲うべく、低地を流れる小谷川(花川)を渡ろうとしたところ、敵兵の狙撃にあって戦死を遂げた。その前夜、三介は兵士の禁酒を解いて部下と大いに飲み、宴たけなわに達すると筆をとって、蘇東坡の次の辞言を書き付けた。その時既に三介は死を決していたのかもしれない。
男児貫心肝 忠義徹骨髄
直須可談笑 於死生之間
さらに宮崎八郎の「男子志を立てて」の詩を声高らかに朗詠した。一同はこれを聞いて深く感銘し、ともに死を誓いあったという。
西南戦争の挙兵前夜、私学校では幹部を集めて今後の方針が議論された。村田三介は、西郷、桐野、篠原の三将に少数の兵をつけて上京して、詰問すべきと主張した。直情型の猛将が多い薩軍にあって、戦略・戦術眼に長けた知将でもあった。
村田三介戦死の地からほど近いところにオブサン古墳がある。K氏は、山鹿は歴史好きには堪らない魅力のある街だと説く。古くは古墳時代の遺跡から始まり、源平時代、戦国時代それぞれの歴史が刻まれている。確かに、山鹿には古墳群が点在しており、県立装飾古墳館なども開設されている。
オブサン古墳
閉塞石
西南戦争では、山鹿の高所に位置するオブサン古墳は、官軍の陣地として利用された。この時、石室内の閉塞石をはじめとする多数の石材等が運び出され、前庭部には掩体(身を守るための防御壁)が構築された。そのため石室内の破壊が進んだ。保存されている閉塞石には、当時の弾痕が生々しく残っている。
(岩間間道)
西南の役 岩間間道
村田三介戦死の地の手前を横切る道は、岩間間道といって、城、大原、唐木谷から岩(和水)方面に抜ける道路で、山鹿口の戦いでは山鹿と南関を結ぶ重要な経路であった。ここでも官薩両軍による激しい攻防戦が展開された。特に三月三日から四日にかけて、南関の官軍を襲わんとして総攻撃をしかけた薩軍と、これを迎え撃つ官軍との戦闘は、岩間間道における最大の激戦となった。
史跡西南之役岩間間道
村田三介戦死之地から数百メートル西へ行ったところに、岩間間道の石碑がある。側面には解説が刻まれているが、炭が流れてしまって読みにくい。
(年の神墓地)
年の神墓地(通称坊主山)は、飫肥隊が死力を尽くして戦った戦地である。飫肥隊はこの墓地の墓石を楯にして戦ったと伝えられる。古い墓石には、当時の弾痕が刻まれている。その墓石の数およそ百四十というから、弾痕が飛び交った密度が想像できる。現在、樹木が視界を遮り対峙した官軍の陣地を臨むことはできない。
史跡西南之役薩軍飫肥隊奮戦之地
弾痕の残る墓石
飫肥隊の総裁は伊東直記。出陣の際は三箇小隊編成であったが、山鹿で四箇小隊に編成変えをしている。
(松永邸)
西南の役 官軍台場跡
官軍は、松永邸を陣地として年の神墓地の飫肥隊と対峙した。今もここには、松永荘作氏の末裔の方がお住まいであり、しかも進入した途端に犬が凄まじい勢いで吠え掛かるので、とてもでないが、一般人が単独でここを訪れることは困難である。今回、K氏、E氏のご案内により、行き着くことができた。なお、弾痕の残る旧松永邸は市立博物館前に移設されている。
故松永荘作氏が、祖父から聞き伝えた話によれば「立木はほとんどなぎ倒され、家具・家財には弾丸が打ち込まれ、その恐ろしさに身も震えた」という。
やはり博物館の前に江戸時代の民家が移設されている。この民家は、天保十一年(1840)に建築され、昭和五十四年(1979)に現在地に移設されたものである。故松永荘作氏の保有していたもので、後述するように官軍は松永邸に台場を築いて薩軍に応戦したため、この家にも貫通した弾痕が残ることになった。自力で弾痕が確認できなかったので、改めてK氏、E氏に案内していただき、確認することができた。

江戸時代の民家(松永邸)

弾痕

西南之役
薩軍村田三介戦死之地
博物館脇の道をオブサン古墳方面に北上すると、右手に村田三助戦死之地の巨大な石碑がある。
村田三介は、弘化二年(1845)、薩摩藩士枝次彦衛の第三子として鹿児島後迫に生まれた。幼時に村田平右衛門の嗣となりその姓を継ぎ、島津氏に仕えて近習番となった。戊辰戦争では砲兵分隊長として、奥羽の山野を転戦して戦功を挙げたため、若くして砲兵教佐となり、明治五年(1872)には二十七歳の若さで少佐に昇進した。しかし、明治六年(1873)には西郷隆盛の下野に従い職を辞して鹿児島に帰った。明治十年(1877)の西南の役では、五番大隊二番小隊長として熊本に向い、二月二十二日の植木の戦闘において、乃木少佐の率いる官軍を破って、小倉第十四連隊の軍旗を纂奪した。その後、四番大隊長桐野利秋の旗下に入って山鹿口の戦場に向かった。村田三介は鍋田台地における最も重要な拠点を守った。三月十二日の激戦で味方の先頭に立って敵陣を襲うべく、低地を流れる小谷川(花川)を渡ろうとしたところ、敵兵の狙撃にあって戦死を遂げた。その前夜、三介は兵士の禁酒を解いて部下と大いに飲み、宴たけなわに達すると筆をとって、蘇東坡の次の辞言を書き付けた。その時既に三介は死を決していたのかもしれない。
男児貫心肝 忠義徹骨髄
直須可談笑 於死生之間
さらに宮崎八郎の「男子志を立てて」の詩を声高らかに朗詠した。一同はこれを聞いて深く感銘し、ともに死を誓いあったという。
西南戦争の挙兵前夜、私学校では幹部を集めて今後の方針が議論された。村田三介は、西郷、桐野、篠原の三将に少数の兵をつけて上京して、詰問すべきと主張した。直情型の猛将が多い薩軍にあって、戦略・戦術眼に長けた知将でもあった。
村田三介戦死の地からほど近いところにオブサン古墳がある。K氏は、山鹿は歴史好きには堪らない魅力のある街だと説く。古くは古墳時代の遺跡から始まり、源平時代、戦国時代それぞれの歴史が刻まれている。確かに、山鹿には古墳群が点在しており、県立装飾古墳館なども開設されている。

オブサン古墳

閉塞石
西南戦争では、山鹿の高所に位置するオブサン古墳は、官軍の陣地として利用された。この時、石室内の閉塞石をはじめとする多数の石材等が運び出され、前庭部には掩体(身を守るための防御壁)が構築された。そのため石室内の破壊が進んだ。保存されている閉塞石には、当時の弾痕が生々しく残っている。
(岩間間道)

西南の役 岩間間道
村田三介戦死の地の手前を横切る道は、岩間間道といって、城、大原、唐木谷から岩(和水)方面に抜ける道路で、山鹿口の戦いでは山鹿と南関を結ぶ重要な経路であった。ここでも官薩両軍による激しい攻防戦が展開された。特に三月三日から四日にかけて、南関の官軍を襲わんとして総攻撃をしかけた薩軍と、これを迎え撃つ官軍との戦闘は、岩間間道における最大の激戦となった。

史跡西南之役岩間間道
村田三介戦死之地から数百メートル西へ行ったところに、岩間間道の石碑がある。側面には解説が刻まれているが、炭が流れてしまって読みにくい。
(年の神墓地)
年の神墓地(通称坊主山)は、飫肥隊が死力を尽くして戦った戦地である。飫肥隊はこの墓地の墓石を楯にして戦ったと伝えられる。古い墓石には、当時の弾痕が刻まれている。その墓石の数およそ百四十というから、弾痕が飛び交った密度が想像できる。現在、樹木が視界を遮り対峙した官軍の陣地を臨むことはできない。

史跡西南之役薩軍飫肥隊奮戦之地

弾痕の残る墓石
飫肥隊の総裁は伊東直記。出陣の際は三箇小隊編成であったが、山鹿で四箇小隊に編成変えをしている。
(松永邸)

西南の役 官軍台場跡
官軍は、松永邸を陣地として年の神墓地の飫肥隊と対峙した。今もここには、松永荘作氏の末裔の方がお住まいであり、しかも進入した途端に犬が凄まじい勢いで吠え掛かるので、とてもでないが、一般人が単独でここを訪れることは困難である。今回、K氏、E氏のご案内により、行き着くことができた。なお、弾痕の残る旧松永邸は市立博物館前に移設されている。
故松永荘作氏が、祖父から聞き伝えた話によれば「立木はほとんどなぎ倒され、家具・家財には弾丸が打ち込まれ、その恐ろしさに身も震えた」という。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます