この公演に僕と同い年の男性が2人。
一人は振り付けの河岡先生。
河岡先生は、神戸出身で若い頃に「東京へ行くんだ」と
早稲田大学の法学部へ入学したそうだ。
在学中に劇団四季に加わり、その後は法学部を卒業して
畑違いの舞台の世界で活躍されている。
河岡先生は、同い年とは思えないほど身のこなしが軽く
しなやかな上に、男の僕から見てもセクシーで、
お世辞抜きに、僕の身の回りに居る一番格好良い男性。
なんせ、ちょっとした仕草でも、何だかフェロモンが放たれて
うちの劇団のオバちゃま達が
『あっは~ん』ってなってしまうような、そんな感じがする。
身体のラインはすっきりしていて、体型維持も大変だろうと
聞いてみたら、やっぱり週に3,4回はジムに通っているそうだ。
この先生が、一人で鏡や窓ガラスに向かって、
それこそ『あっは~ん』とかの、悩ましいポーズを考えているんだろうか?
って、先生が振り付けを考える時のことを想像すると何だか楽しい。
考えてみれば、河岡先生の同窓生は法曹界に結構居るんじゃないかな?
そういう意味では、異色の方なのかも知れない。
もう一人は芸名『平野清太郎』
この人は、一昨年まで舞台監督をやっていただいていた人。
日本のクラシックやオペラなどを手がける、有名な舞台関係者。
去年、男性が一人欠員になって、座長が『平野清太郎』さんに相談したところ
良い人が居ます。といって紹介したのがなんと自分・・・・。
『平野清太郎』さんは、北海道出身で上京後、劇団を立ち上げたが
あの時代、その道で食べて行ける俳優なんて数少なくて、
そこで出会ったのが『桑田圭介』。
当時、新人だった青山学院大の『桑田圭介』の舞台監督を募集していて
それに応募したのが、この世界に入ったきっかけとか・・・・。
舞台にずっと関わっていた上に、元々役者志向だった『平野清太郎』さん。
劇団に加わって、何処か演技にも余裕があって、憎たらしいほど落ち着いてる。
去年だけかと思ったら、味を占めちゃって公演の日はオフにして
これからもずっと続けようと、打ち上げの時に二人で
『どちらかが死ぬまで続けるぞ』って、話をしたり・・・・
いまでも、本業では忙しく過ごしているみたい。
僕は、『平野清太郎』さん同様に、若い頃にライブハウス経営に参加し
そこを土台に舞台音響・照明を始めて、その後独立して照明のスタッフをやっていた。
運良く、美空ひばりやデビュー間もない矢沢永吉のツアーに参加したり
それなりに一流の仕事をやってきたのだが、僕には根性が無かった。
その後、30歳過ぎまで職を転々としながら、行き着いたのが今の会社。
ここでもラッキーなことに、世界一の装置作りに携わることが出来た。
河岡先生、『平野清太郎』さんともに同じ時代をそれぞれ生きてきた。
70年代(昭和45年~55年)に青春時代を過ごし、その当時は新しいことを
何でも始められた、幸せな時代。
でも、僕はこのお二人を本当に尊敬している。
凄い人たちだなぁ・・・・って。
そして、立場は先生と劇団員だったり、舞台監督と出演者だったりするけれど
こういった凄い人たちと一緒に一つの舞台を作れる劇団「ステージドア」は
他に類を見ない、素晴らしい素人劇団だなって思う。
悔しいけど、この世界では二人の足元に及ばないけれどね・・・・・
一人は振り付けの河岡先生。
河岡先生は、神戸出身で若い頃に「東京へ行くんだ」と
早稲田大学の法学部へ入学したそうだ。
在学中に劇団四季に加わり、その後は法学部を卒業して
畑違いの舞台の世界で活躍されている。
河岡先生は、同い年とは思えないほど身のこなしが軽く
しなやかな上に、男の僕から見てもセクシーで、
お世辞抜きに、僕の身の回りに居る一番格好良い男性。
なんせ、ちょっとした仕草でも、何だかフェロモンが放たれて
うちの劇団のオバちゃま達が
『あっは~ん』ってなってしまうような、そんな感じがする。
身体のラインはすっきりしていて、体型維持も大変だろうと
聞いてみたら、やっぱり週に3,4回はジムに通っているそうだ。
この先生が、一人で鏡や窓ガラスに向かって、
それこそ『あっは~ん』とかの、悩ましいポーズを考えているんだろうか?
って、先生が振り付けを考える時のことを想像すると何だか楽しい。
考えてみれば、河岡先生の同窓生は法曹界に結構居るんじゃないかな?
そういう意味では、異色の方なのかも知れない。
もう一人は芸名『平野清太郎』
この人は、一昨年まで舞台監督をやっていただいていた人。
日本のクラシックやオペラなどを手がける、有名な舞台関係者。
去年、男性が一人欠員になって、座長が『平野清太郎』さんに相談したところ
良い人が居ます。といって紹介したのがなんと自分・・・・。
『平野清太郎』さんは、北海道出身で上京後、劇団を立ち上げたが
あの時代、その道で食べて行ける俳優なんて数少なくて、
そこで出会ったのが『桑田圭介』。
当時、新人だった青山学院大の『桑田圭介』の舞台監督を募集していて
それに応募したのが、この世界に入ったきっかけとか・・・・。
舞台にずっと関わっていた上に、元々役者志向だった『平野清太郎』さん。
劇団に加わって、何処か演技にも余裕があって、憎たらしいほど落ち着いてる。
去年だけかと思ったら、味を占めちゃって公演の日はオフにして
これからもずっと続けようと、打ち上げの時に二人で
『どちらかが死ぬまで続けるぞ』って、話をしたり・・・・
いまでも、本業では忙しく過ごしているみたい。
僕は、『平野清太郎』さん同様に、若い頃にライブハウス経営に参加し
そこを土台に舞台音響・照明を始めて、その後独立して照明のスタッフをやっていた。
運良く、美空ひばりやデビュー間もない矢沢永吉のツアーに参加したり
それなりに一流の仕事をやってきたのだが、僕には根性が無かった。
その後、30歳過ぎまで職を転々としながら、行き着いたのが今の会社。
ここでもラッキーなことに、世界一の装置作りに携わることが出来た。
河岡先生、『平野清太郎』さんともに同じ時代をそれぞれ生きてきた。
70年代(昭和45年~55年)に青春時代を過ごし、その当時は新しいことを
何でも始められた、幸せな時代。
でも、僕はこのお二人を本当に尊敬している。
凄い人たちだなぁ・・・・って。
そして、立場は先生と劇団員だったり、舞台監督と出演者だったりするけれど
こういった凄い人たちと一緒に一つの舞台を作れる劇団「ステージドア」は
他に類を見ない、素晴らしい素人劇団だなって思う。
悔しいけど、この世界では二人の足元に及ばないけれどね・・・・・