和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鶴見・梅棹。

2010-10-02 | 他生の縁
鶴見俊輔の著作を何冊か持っているので、そこに梅棹忠夫氏がどのように登場しているのかと、ちょっとめくってみました。

鶴見俊輔書評集成3

ここには、「梅棹忠夫著作集5」の月報に掲載された鶴見俊輔の文が掲載されておりました。

「彼と会う時には、理学部に近い進々堂で会うことにした。いっぱいのコーヒーで、何時間か話すということが、私が京大にいた五年ほどによくあった。そのころ彼は酒をのまなかった。彼のとりあげる話題は、当時の学者知識人のとりあげるものとは一風かわっており、それにむかう角度は当時の新聞雑誌の論調に背をむけるものだった。・・・・
彼に原稿をたのむとしめきりの日に進々堂にそれをもってあらわれた。原稿料は百円くらいだった。・・・『思想の科学』の四十三年間に、創刊号の武谷三男『哲学は如何にして有効性を取り戻し得るか』と梅棹忠夫『アマチュア思想家宣言』の二つが、そのさし示すコースからしばしばはずれるこの雑誌について今も未来を指さしており、それは梅棹の退会以後もかわらない。『思想の科学』は草野球とおなじく草学問の一つの場であり、それをテーゼとして書きのこしたのが梅棹忠夫である。・・・」


さて、そうすると、『アマチュア思想家宣言』というのを読みたくなる。
梅棹忠夫著作集第12巻に、それは載っており、1954年に、まず雑誌に掲載されたのでした。著作集で10ページほどの文で、簡単に読めるのがいいですね。
気になった箇所を、ちょいと引用。

「思想はけっしてすべてではない。そのなかで、すべてが処理されてしまうのではない。現実の社会における現実の人間の生活と、いろいろの点でかかわりがある。体系ということをいうならば、思想は、生活というおおきな体系のなかの一要素でした。それは、それぞれの土地のうえに成立した具体的な『文明』のひとつなのであって、どこへでも持ちはこびのできるような宙にういたものではなかったはずでした。思想の研究家で思想史を専攻するひとはあまるほどあるが、思想地理学というものをかんがえたひとはないのだろうか。思想とは、すぐれて地理学的な存在であると、わたしはかんがえているのですが。」


「思想地理学」というのは、いったいどういうものか?
そういえば、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に
こんな語りがありました。

梅棹】 それまでに中国体験があって、インドを通って帰ってきた。それを通して、インドを理解し、アジアを理解した。それで、『日本がアジアやなんて、アホなことがあるか』って書いた。実際、日本に帰ったときに、 「これがアジアか?」と思った。ほんとにちがう。カルカッタの雑踏と東京の空港の清潔さ、簡素さ。それはすごいちがいです。
カルカッタの鉄道の駅の猥雑さといったら、もうびっくりする。その汚い鉄道の駅のプラットホームに、家畜のかごを持った人がいっぱい座っていて、家畜を連れて汽車に乗ってくるんです。自動車道路のわきにも人が寝ている。自動車道路ですよ。わたしには中国での体験があるから、それほど驚きはしなかったけれど。信じられないような話やけど、中国で二年間生活していたとき、朝、研究所への通勤途中、道端でウンチしてる人がいっぱいいた。ほんとうにすさまじい社会やった。道端に男がザーッと並んで、ウンチしてるわけです。
小山】その前に見た牧畜民は非常に簡素で清潔で、さっぱりしてものと。
梅棹】北アジア、西アジアはそうね。その前に、張家口でイスラームを見ているのが伏線になっている。張家口に大きなイスラーム寺院があって、アホンというイスラームの聖職者がいた。何もないが、さっぱりしていた。
小山】アラビアのロレンスもそう言ってましたね。中国ともとがうんですか。
梅棹】ぜんぜんちがう。わたしは二年いたから、中国のことはよく知っている。それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけれど、わたしは全部自分の足で歩いている。向こうで生活していてわかったんやけど、中国というところは日本とはぜんぜんちがう。「なんというウソの社会だ」ということや。いまでもその考えは変わらない。最近の経済事情でもそうでしょう。食品も見事にウソ。ウソと言うと聞こえが悪いけれど、要するに「表面の繕い」です。まことしやかに話をこしらえるけれども、それは本当ではない。
小山】梅棹さんは「中国を信用したらアカン」と言ってましたね。
梅棹】いまでもそう思う。しかし、ある意味で人間の深い心の奥にさわってる。人間の心の奥に、おそろしい巨大な悪があるんやな。中国にはそれがある。 (p30~31)


あと、対談・鼎談でも鶴見・梅棹のとりあわせで、語っているので、そちらも、読んでみたいと思っております。
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100円均一詩集。

2010-09-09 | 他生の縁
岡崎武志・山本善行著「古本屋めぐりが楽しくなる新・文学入門」(工作舎)にも、「新・詩集入門」という箇所がありました。

面白いので、そこも取り上げましょう。

「岡崎:そう言えば、京都の古本屋では、どこも詩集を大事に置いてたなあ。けっこうな値が付いてて、ちょっと無理して詩集を買ってジャズ喫茶で開く。これが何よりのぜいたくやった。」(p347)

あとに、100円詩集が語られているのでした。

「岡崎:あと、BOOKOFFでは詩集はたいてい100円やから、ここで、名前を知らない人の詩集を、勘で買うというのも面白い。中森美方(よしのり)『魂の日』(思潮社・1997年)なんて詩集は、ぼくはそうして買った。これはいい詩集やった・・・・」(p361~364)

そして、その詩を引用したあとに

「こういう苦い認識や省察は、若いころより、四十、五十になって身に沁みてくる。詩は青春期の甘い食べものではなくて、むしろ中高年から老年期になって分かってくる、というのがぼくの持論や。」

このあとに山本善行さんが語っておりますので、ついでに引用。


「それはそうやなあ。詩をじっくり読んで味わえる、おたがい、そんな歳になってきたんや。評判などに惑わさずに、『言葉』そのものに反応するようになってきた。新刊書店や古本屋さんでは、よく知られた詩人でないと、棚に並ばないということがある。量も少ない。その点で言うと、BOOKOFFは、分け隔てなく並べてあるので、それも100円の棚にも数多く並ぶので、ぼくも重宝している。全部見ていくのは大変だが、タイトルや名前、カバーの色や紙の質、そんなところで何かピンときたら、取り出して読んでみる。買うかどうかはまたその次の問題になるが、BOOKOFFでのそんな楽しみ方もたしかにあるな。100円で繰り返し繰り返し読める詩集に出会えるかも。こんな話していると、いまからBOOKOFFに行きたくなってきた。」(p164~165)


う~ん。数回BOOKOFFに行ったくらいなのですが、地元では、詩集をまだ見ておりませんでした。今度行ったときは探してみます。
それにしても、100円詩集というのは魅力だなあ。あとはそれを選ばれるのを待っている詩集たち。

ちなみに、山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)に、こんな箇所。


「いい詩集に出会えた日は特別な日になる。もう今日はこの一冊でいい、という気持ちになる。高野喜久雄詩集『存在』(思潮社)に出会った日もそんな一日になった。私はこの詩集を探していたわけではなくて、四天王寺古本まつりの百円均一台で、何となく手に取った一冊が、この詩集だった。

     手はたどれ
     逆の道
     つかんだものを
     ひとつずつ
     はなしてはなして
     その手には
     何ものも残さぬ道を

このような言葉を喫茶店に持ち込み、熱い珈琲を飲みながら、さらにページをめくるときが何とも愉しい。・・・・」(p23)


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洲之内徹の眺望。

2010-09-07 | 他生の縁
山本善行著「古本のことしか頭になかった」を読み始めたら、
つぎに岡崎武志著「雑談王」とか山本善行著「古本泣き笑い日記」を、あらためてひらいておりました。そこから眺める洲之内徹氏への眺めが実にいいなあ。
と思ったので、その書き込み。

では、「古本泣き笑い日記」からはじめます。

「『好きなことがあっていいですね』とよく言われるけれど、たしかにそうなのだけど、一方で、古い本のことでこんなにも心動かされている自分を外から眺めると、何かから逃げているようでもあり、なんだかかわいそうにも思う。でもここまできたらやるしかない(?)。」(p26)

「旺文社の百を手帳で調べているとき、自分はいい歳をしていったい何をしているのだろう、なんという閑人なんだ、ほかにやることないのか、と寂しい気持ちになった。最近、こんなことしていていいのかお前、という声が頻繁に聞える。きまってそのあと寂しくなる。どこか身体が悪いのかもしれない。」(p96~97)


そして、この本で洲之内徹への言及は、p122~128。
「彼がその随筆で描くのは、なにも絵画そのものだけではない。むしろ、絵との出会い、画家との出会い、旅であり、生活であった。」(p123)
とあり、ます。

すこしもどって善行さんは、こうも書いておりました。

「『よくもまあ、毎日毎日古本ばかり、それしかないんかいな』と呆れ返っていると、『古本でお散歩』の岡崎武志の姿。この二人、古本屋まわりの回数、世界一とちゃうか。」(p103)

ここに登場する岡崎武志の「雑談王」にも、洲之内徹への言及があります。
ということで、引用しますが、
なかでも、「洲之内は絵かきに失望していた」(p159~161)の箇所が面白い。
ちょっと丁寧に引用。

「私が洲之内に関して不思議だったのは、年を取ってから、音楽を聴き始めていることだ。・・・・肥後さんの推測では、このころ、洲之内は絵かきに対して失望していたのではないか、という。・・・どうしてもこういう絵が描きたいということがない。・・今じゃどうだ。誰が賞を取った、誰が別荘を買った・・・そんな話ばかりだ。・・洲之内は抵抗のない絵かきが増えていることに我慢がならなかった。・・・・・・・・・
絵のことしか考えられない。絵以外のことは廃人同然になる。初期『気まぐれ』シリーズには、そんな火の玉のような絵かきが大勢登場し、凡人たる私を畏怖させる。

 『私はその絵を私の人生の一瞬と見立てて、
  その絵を持つことによって
  その時間を生きてみようとした。』(「セザンヌの塗り残し」)

人の描いた絵に、自分の人生を重ね合わせ生きる。そんなふうに洲之内は生き、そんなふうには生きられなくなったとき、うまいタイミングでこの世を去った。今回、肥後さんの話を聞いていて、そんなふうに考えた。」

ここで、山本善行さんの古書店「善行堂」のことを思い描きながら、
ひとつ、「雑談王」から引用してみましょ。

「洲之内は個展を開くとき、画家のアトリエを訪ねて出品する作品を選んだ。ところが画家が自信をもって洲之内の前に並べた作品は、彼の気にいらないことが多かった。逆に画家自身は気に入らないため、重ねた絵の後ろのほうに隠してあったものを、洲之内は目ざとく見つけ『これがいいよ。これでいきましょう』と言うのだった。・・・」(p169)


おっと、最後は、善行さんが引用していた洲之内徹の言葉。


「そういう明け暮れの中で、どうしようもなく心が思い屈するようなとき、私はふと思いついて、保井さんの家へ『ポアソニエール』を見せて貰いに行くのであった。その『ポアソニエール』は一枚の、紙に印刷された複製でしかなかったが、それでも、こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。・・・・絵というものの有難さであろう。知的で、平明で、明るく、なんの躊(ためら)いもなく日常的なものへの信仰を歌っている『ポアソニエール』は、いつも私を、もう返ってはこないかもしれない古き良き時代への回想に誘い、私の裡に郷愁をつのらせもしたが、同時に、そのような本然的な日々への確信をとり戻させてもくれた。頭に魚を載せたこの美しい女が、周章てることはない、こんな偽りの時代はいつかは終る、そう囁きかけて、私を安心させてくれるのであった。(「絵のなかの散歩」)」


山本善行と岡崎武志と、お二人の本をパラパラとめくっていると、
どうも洲之内徹が、まだ読んでいない洲之内徹が読みたくなってくるのでした。
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古本目録本。

2010-09-06 | 他生の縁
山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)をめくっていると、古本を買いたくなってくるのでした(笑)。
ということで、とりあえず買えそうな本。
   岡崎武志著「気まぐれ古書店紀行」(工作舎)
   そして、「ジェイン・オースティンの読書会」

ついでにと、パラパラひらいてみた山本善行著「古本泣き笑い日記」(青弓社)に、そういえば、こんな箇所がありました。
「実際、本を読む楽しみというのは、たとえば和田芳恵の『筑摩書房の三十年』(筑摩書房、1970年)を読むこと・・・」(p107~108)
とあります。そういえば、以前読んだ時に興味をもって、ネット検索して見あたらなかった。今回もう一度検索すると、ありました。「筑摩書房の三十年」を3150円で古本注文。

最近届いた古本に、加藤秀俊著「わが師わが友」という新書サイズの本があります。これは、加藤秀俊著作集の月報(自身が書いた交際自伝のようなもの)をまとめたものです。これは、加藤秀俊氏のブログをひらけば全文よめるようになっております。ですが、持っていたくて1000円。

それにしても、山本善行氏の本、
 「古本のことしか頭になかった」では、均一台の安い本を全面にして紹介しているのでしたが、「古本泣き笑い日記」では、けっこうネット注文で、高額な古本を買ている箇所に出くわし、素人には面食らいってしまうのでした。一方の「古本のことしか頭になかった」は、けっこう初心者向けになっているのだなあと、安心して楽しめます。

ちなみに、「古本泣き笑い日記」には最後に、岡崎武志氏との対談「古本で探そう絶版文庫」が載っており、そこに、こんな箇所。

「山本:たしかに一般の読者は、書店で並んでいるのがすべてと思ってる人が多いやろな。ひじょうに狭い範囲で読書をしてる。古本屋へ足を運ぶ人はごく一部やしな。」


こうして、ネットで古本を買える時代にはいったことは、一地方にいる「一般の読者」としては、うれしいことだと、ただただ感謝しております。


蛇足になりますが、
最近、地元の本屋さんで季刊秋号「文藝春秋SPECIAL」を、
買いました。1000円。
パラパラ読んでガッカリ。買わなきゃよかった(笑)。

ということで、せっかくですから、すこし思いついたこと。
加藤秀俊著「わが師わが友」の最初に

「当時の商大は一学年たしか100人ほど、・・・・
とにかく入学式というものがあり、ひきつづき新入生歓迎の懇親会というものが催された。懇親会といっても、いたって少人数の、しかし、ガヤガヤとしたものであったのだが、突如、新入生を代表して、とみずから演壇にとび上がった人物がいる。かれは開口一番、『かつてバイロンはいった!』と絶叫し、そのことばで一堂はシュンとしずまりかえった。バイロンのどのことばをかれがどう引用したものやら、わたしは記憶していないが、突如、バイロンなどという人名が出てきたので、さすが勉強家がいるものだ、とわたしは感心し、尊敬した。この人物がいま『朝日新聞』の『天声人語』を書いている辰濃和男である。」(p12~13)

加藤秀俊氏は1930年(昭和5年)生まれ。ちなみに、この新書は1982年に出ております。

最近買った2010年季刊秋号「文藝春秋spesial」の目次に、辰濃和男氏の名前が、ありました。さっそくその「ぼんやりしようか」と題された文を見ると、こうはじまっておりました。

「『人生とはいえないような人生を生きたくはない』19世紀のアメリカの哲人、H・D・ソローの言葉です。ちょっぴりアオクサイけれども、悪くはないですね。」

う~ん。「ちょっぴりアオクサイ」というのでした。
ここで、私が思い浮かべるのは『社内名文家』という言葉でした。
坪内祐三著「考える人」の深代惇郎をとりあげた箇所に、
深代惇郎とそれ以後とを比較していたのでした。


「・・・その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。元『天声人語』子というキャリアをバックに、それらの人たちは、カルチュアースクールの文章教室の講師をしたり、『上手な文章の書き方』といったたぐいの本を出版したりしますが、皆、しょせん『社内名文家』にすぎません。」

う~ん。「ろくなものじゃない」という一刀両断。
こういう指摘は、ありがたく拝聴させてもらいます。


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古本ソムリエ。

2010-09-04 | 他生の縁
本を読まない癖して、なんとも、本を読みたいと思っている(笑)。
そんな横着者の私なので、山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)をひらくと、楽しくなってくるのでした。
そこでは、「好き」という言葉が、自然で、採り立ての味わいがあります。
身構えた文章とは違った、さりげない有難みがあって、うれしくなります。
たとえば、

「今出ている『ユリイカ』10月号が吉田健一特集になっている。松浦寿輝さんが、清水徹さんと対談したり、吉田健一の名文選をしている。興味深い選ではあるが、私の好きな文章が入っていない。それは『わがシェイクスピア』。シェイクスピアの作品を散文にしたもので、これはもう絶品、珠玉とでも言うしかないものである。」(p76)


さてっと、それでは、
ちっとも読まない吉田健一を、これがきっかけで読めるかもしれないと、まずは古本屋へと、この本を注文(笑)。
その間に、さしあたって、手元にある新潮社の「吉田健一集成 別巻」(1994年最終回配本)を、取り出して、パラパラとめくってみます。この別巻にはシェイクスピア詩集や禿山頑太集。それにいろいろな方の吉田健一について語った文が掲載されている楽しみの一冊なのでした(笑)。

さてっと、今回、その別巻のドナルド・キーン氏が書いている文が印象に残りました。題は「吉田健一の思い出」。では引用


「長い間、私は吉田さんが毎晩のように飲んでいたと思い、どうして原稿を書けるのだろうかと思って不思議がっていたが、だんだんそうではないことに気がついた。つまり、飲む時は徹底的に飲んだが、勉強の時はほとんど飲まなかったわけである。しかも、吉田さんは実によく勉強していた。吉田さんの英文学の研究等を読んだことのある人なら、彼の学問を疑うことができないが、余りにも流暢な英語をこなしていたためか、一時英文学者の一部が吉田さんの本を見くびっていたようである。吉田さんはそういう態度を気にしなかったと思う。或いは未来の学者や一般の教養のある読者が自分の仕事を正しく評価するだろうという自信があったかも知れないが、認められるまでかなり待ったことは事実である。著作集が出ても、売れ行きは悪かったためか、神田の古本屋で特価品として一冊百五十円で捌いていることもあった。それにもかかわらず、吉田さんは読者に媚びるようなことをせず、彼独得の難解な文章で立派な本を書きつづけた。」(p3619


こんな箇所を読めば、その(著作集)一冊百五十円の頃に、古本のソムリエさんたちが、嬉々として、買いあさっていたのじゃないかと、愚考する私がおります。

もうひとつこれも引用しておきたい箇所。
篠田一士著「吉田健一論」(筑摩書房)に

「吉田健一氏はもともと英文学者ではないし、いまだって、そういう呼称で氏を指すことはほとんど意味がない。吉田氏は頭の天辺から足の先まで文学者なのであって、その文学者がフランス・サンボリスム文学の洗礼を浴びて文学に目ざめ、そのあとでイギリス文学を読んで、そのなかに感得したものを、それこそ氏自身の感受性のすべてを賭けて、たまたま日本語で書き記したまでのことである。傍目には、あるいはそう見えないかもしれないが、吉田氏はいわゆる研究書なるものをほとんど読まない。作品集一巻あれば、シェイクスピアだって、キーツだって、エリオットだって、なんでも書けるのである。当り前のことだというよりも、これが文学経験というものの唯一無二の正統的筋道であるはずだ・・・・ぼくなんかが、たまに研究書の類で、これはといったものを薦めても、吉田氏は一向に読もうとしない。学者の書く文章は読めないからというのが氏が常套とする遁辞だが、それはそうだとしても、やはり文学をあるがままの素面で受け容れようとする氏の不断の自己鍛錬のなせるわざだろうと思う。」(p119)

古本屋の均一台に作品集が一巻あれば、という心で、本のソムリエ氏は、この秋も古本祭りに出かけているのだろうなあと、「古本のことしか頭になかった」を読みながら思うのでした(笑)。


ちなみに、「古本のことしか頭になかった」に、
「『古本ソムリエ』の命名者は、ガケ書房の山下賢二くん。」(p40)とあります。

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是等を手本とし。

2010-08-27 | 他生の縁
黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)。
まず、印象に残ったのは、「通俗平易に」という言葉でした。

「弦斎は自分の部下だった福良竹亭や篠田鉱造には、新聞記者としての取材のやり方や文章の書き方について、基本から徹底的に叩き込んだらしい。」

ここで、福良氏の回想を引用しております。以下福良氏の言葉から

「故村井弦斎先生は報知新聞の編集長として僕に初めて新聞の取材の方法、書方等を教へられた恩師である。先生の言はれるには新聞記者は路傍の一石一草と雖も取って以て材料となる注意力と観察力を養はねばならぬ、それに少くも百回以上の続物を休みなしに書く程の根気がなくてはならぬと。」

「村井氏は常に、新聞記者と云ふものはどんな難しい事柄でも、之を最も通俗平易に書き直す文才がなければならぬ、それが出来ないと云うのは、己に力が無いからである、新井白石の書いた書物は、難しい物でも実に平易に書いてある、是等を手本として、常に難しいものを平易に書くやうにしなければならぬ、殊に新聞記事と云うものは、事実を主とするのであるから、なるべく技巧を避けて、どんな人にも読まれるようにしなければならぬ、それ故雑報記事には形容詞なぞは無益であると常に主張して居られた、其為め形容詞を沢山入れた記事を書くと殆ど全部抹殺された。私が今日多少通俗的に平易な文章を書くことが出来るのは、全く村井氏の指導感化に負ふところが多い。」(p365)

「是等を手本として」として、新井白石の名前が登場しておりました。
ちなみに、p25では白楽天の名前が登場しておりました。
そこも引用しておきます。


「弦斎はどんなに難しい内容であっても、きわめて平易でわかりやすい言葉で書いた。長女の村井米子によれば、『文学というものは、お経のように、どんな無智なお婆さんの心にもしみるもの、誰にもよく解るものでなければならない』と彼は口癖のように語っていたという。
矢野龍渓もほとんど同じことを言っている。すなわち文章には二通りあって、一つは、内容はたいしたことがないのにわざとわかりにくく書く。もう一つは、内容の良さを大事にして字句はごく平易にと心がけて書く。白楽天などは後者で、自分の詩文を近隣の老媼(ろうおう)にまで理解できるようにつくったという。龍渓は『私などは平易主義で、白楽天流儀です』とはっきり述べている。このように、弦斎は様々な点で龍渓を受け継いでいる。」

うん。新井白石と白楽天がお手本なのですね。
よく、わかりました。

ところで、黒岩比佐子さんは、
今度の新刊で、堺利彦を取り上げると聞きます。
私が思い浮かぶのは、堺利彦著「文章速達法」ぐらい。
どんな、本になるのか楽しみ。
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評伝の醍醐味。

2010-08-24 | 他生の縁
黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)を、とりあえず、読了。

黒岩比佐子氏の丁寧な掘り下げに、文学史・文壇史の書きかえを迫る、ひたひたと寄せくる波を受け止めているような気がしてまいりました。まあ、村井弦斎を読んでいない癖して、何もいえないわけですけれど。

読了してから、あとがきの

「そのうちに、弦斎の偏屈でへそ曲がりで、一度こうと決めたら最後まで何事も徹底してやらずにはいられない性格というのは、どうやら私と似ているのではないか、と思えてきた。私もかなり頑固で、やりかけたことは途中で投げ出せないところがある。そう思ってからは、何が何でもこの評伝を書き上げなければならない、という気持ちで取り組んできた。」(p424)

この言葉が、すんなりうなずける、そんな評伝を読ませていただけて感謝。
黒岩氏による「余人を持って代え難い」、評伝の醍醐味を堪能させていただいた充実感。


ということで、具体的な箇所は、また明日。
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新書4冊並べ。

2010-08-23 | 他生の縁
新書はそんなに読んでいないので、
イザ、読み返そうとすると、すぐに揃います。
ということで、4冊を棚に並べてみました。

  北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)
  竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)
  松岡正剛著「多読術」(ちくまプライマリー新書)
  柴田光滋著「編集者の仕事」(新潮新書)

松岡正剛に「知の編集工房」(朝日新聞社)という本があり、
そのはじまりは、こうでした。

「映画監督の黒澤明はつねづね『映画の本質は編集である』と言っている。国立民族学博物館の梅棹忠夫館長はずいぶん前から『編集という行為は現代の情報産業社会の夜明けを象徴する』と主張してきた。神戸製鋼のラグビーを七連覇に導いた平尾誠二は『ラグビーは編集だ』と表明した。いったい、ここにのべられている『編集』とは何なのか。・・」

また「あとがき」のはじまりというと、

「この本は『編集工学』という方法に関する入門書となることをめざしつつ、『編集は人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である』という広いテーマを展開した試みになっている。・・」

さてっと、柴田光滋氏の新書は、その編集者の体験談となっておりました。そこに「タイトルには毎回苦心惨憺」(p37)という箇所がありました。では引用。

「単行本にする原稿を読みながら編集者はまず何を考えるのか。・・・タイトルと判型をどうするかが頭のなかを駆け巡ります。なぜなら、この両者が本作りの方向性を決定するからで、いずれもが最初に固まれば、作業の一つひとつは大変でも、ブレは生じにくい。・・・小説のタイトルはそれを含めて作品であって、著者の聖域に近い。・・・しかし、文学者以外の著者の場合、通常、タイトルは編集者が考える、いや捻り出すものです。これが実にむずかしい。・・下手をすると考えるほどに負のスパイラルに陥りかねません。」

ここで、あらためて、4冊の新書の題名を見直したりします。

北村薫著「自分だけの一冊」は副題が「北村薫のアンソロジー教室」となっております。帯には「読むだけなんてもったいない編む愉しさもある」。そして「まえがき」には「【マイ・アンソロジー】を作るのは、難しいことではありません。そして、【アンソロジー】は、作った「自分」の「今」を語ります。」

うん。ブログの書き込みをしていると、まして、私は本の引用の書き込みに偏してしるわけなので、アンソロジーという言葉には惹きつけられるものがあります。
この北村薫氏の新書で興味深いのは、句集や歌集に言及している箇所でした。
実感がこもります。

「『古今』や『新古今』みたいな勅撰集だと配列に工夫する。つまり、歌集なんかだと、名作ばかり並べてもいけないんです。超傑作ばかりだと、読者が疲れてしまう。駄作ではないんだけれど、『これはいいな』程度のものが入っていないと傑作がきらめかない。・・句集や歌集を読み、自分の眼を通した時には見落としていたのに、その中から誰かが一句、あるいは一首を抜き出して見せてくれると、輝きにうたれることがあります。良いアンソロジーには、そういう力もある。」(p48)


「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。前にもいったと思いますが、アンソロジーは選者の個性を読むものです。」(p164)


引用といえば、竹内政明著「名文どろぼう」。その帯には著者の写真とともに、「名文を引用して、名文を書く技術」とあります。はじめにこうありました。「引用とは他人のフンドシで相撲を取るようなものだから、題名は『フンドシ博物館』でもよかったが、それではあんまりなので『名文どろぼう』とした。」

そこの「はじめに」での最後の言葉が

「書いていて楽しかった。日本語にまさる娯楽はないと思っている。」とありました。

今日も暑いですね。毎日汗ばかり。
それではと、
「書いていて楽しかった」というブログを書いていけますように。
新書4冊をならべて、そんなことを思います。
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言祝ぐ。

2010-08-21 | 他生の縁
黒岩比佐子著「食育のススメ」を読んだところで、
注文してあった「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)が届きました。
うん。読み甲斐がありそうです。
こういうときは、ゆっくりと読みたいので、
さしあたり、読む前に、感想を書き込んでおく方が、気が楽です(笑)。
ということで、
あとがきの、この箇所を引用しておきたいと思います。

「最後に、本書の生みの親ともいえるのは岩波書店の星野紘一郎氏である。星野氏の助言がなければ、本書がこういう形で日の目を見ることはなかっただろう。星野氏と相談しながら、最初に書き上げた原稿を一章ずつ書き直していったのだが、再出発にあたり星野氏は『弦斎を言祝ぐ夏の暑さかな』とはなむけの発句を寄せられた。おかげで最後まで書き続けることができた。星野氏のときどきの意見はかけがえのない道しるべとなった。」

うん。こうして書き直された本を読める幸せ。
では、読みおえるのがもったいないような一冊を手にとって。
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食育の着眼点。

2010-08-20 | 他生の縁
黒岩比佐子著「食育のススメ」(文春新書)を読む。
読了後に、その教訓箇所が印象に残るのでした。
ということで、その箇所を引用しておきます。

ちなみに、ここで登場している小説「食道楽」は、1903(明治36)年に新聞連載されたもので、時代背景はその頃として読むと、現代でも新鮮です。


「日本人は西洋人と違って少年の時から箸の使用法に熟練している。西洋人には真似の出来ない一種の技術を持っている。西洋料理を食べる時にもフークで物を挿すより箸で挟んだ方がよほど楽だ。しかるに日本人が西洋料理を食べる時にはわざわざ独得の技術を捨てて調法な箸を使わずに不便なフークを使うのはその意を得ない。(中略)僕は食法を日本化して以来は西洋料理に箸を用いさせる事にしたい。何ほど便利だか知れないぜ。(p144~145)」(p73~74)

「この夏の巻の最後の部分で、中川は玉江に次のように語っていますが、これもこの小説のなかで、非常に印象的なフレーズです。

  もし主人に食物上の趣味があって妻君は海老の皮を剥く、良人は肉挽器械で肉を砕くという風にともに手伝いともに料理して楽む有様でしたら夫婦間あの興味は尽きる事がありません。よく今の男子は家にいて女房の顔ばかり見ていても倦きるから遊びに出ると間違った事を言いますが日本人の過程には夫婦共同の仕事がないから退屈するのです。三度の食事をともに相談してともに拵えたら毎日相対(あいたい)していても決して倦きません。私は家庭料理の研究を夫婦和合の一妙薬に数えます。(p503)
                        
                        」(p143~144)

ちなみに、「夫婦和合の一妙薬」には、注釈が必要かもしれません(笑)。
こんな箇所がありました。

「弦斎は愛妻家でした。主張先などから多嘉子に出した手紙が四百三十三通も残っているほどです。結婚前ではなく、結婚後に自分の妻へこれほど手紙を書いた人は珍しいのではないでしょうか。弦斎は、夫婦が離れているときは、互いに手紙でその日の出来事を連絡しあうべきだと主張し、自ら実践していたのです。」(p28)



「その先で、中川がまたもや奇抜な説を唱えます。子供には何歳まで家庭教育の必要があるか、と大原が質問したのに対して、女子は嫁に行くまで、男子は四十歳までだろう、と答えたのでしす。四十歳と聞いて大原は驚きますが、中川は平然と、人の生涯には子供時代が二度あり、一つは家庭の子供であり、一つは社会の子供だというのでした。学校を卒業したときは、社会に対して産声を上げたばかりの赤ん坊にすぎず、はうことも立つこともできない。だから、そうした赤ん坊はきちんと教育しなければならない、というのが中川の理屈です。しかも、三十歳前後で不養生をして病気になったり、事業の上でも無理をして、生涯の大失敗を招く人が多いという事実を指摘して、『四十歳までは誰でも小児時代勉強時代と心得なければならん。四十歳を越してから初(はじめ)て社会の大人になれる』と中川は主張するのです。・・・・ここで弦斎が中川を通じて言おうとしたのは、学校を卒業しても社会人としては未熟であり、一人前の大人になるには、その後も学び続けなければならない、ということです。」(p247~248)

脚気論争についての言及は、本文と「おわりに」でも触れられております。
さらりとでしたが、板倉聖宣著「模倣の時代」を読んだ者にとっては、あらためて、考えさせられることを弦斎の行動を通じて浮かび上がらせておりました。

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昭和85年「産経抄」

2010-08-17 | 他生の縁
いままで、石井英夫氏がひとりで書かれていた産経抄を楽しみに読んでいた者にとって、そのあとのコラムは、数人で手分けして書いておられるとのこと、なんだか、読者にとっては読むリズムがかみ合わなくて、私など丁寧に読まずにおりました。
ところで、この二日間のコラム産経抄は楽しめました。

今日の産経抄(2010年8月17日)は、こうはじまります。

「倉本聰さん作の『帰国』を先週末、舞台とテレビドラマの両方で観た。戦後65年たった『昭和85年8月15日』の未明、東京駅に軍用列車が到着する。乗っていたのは、大東亜戦争の最中に南の海で玉砕した英霊たちだ。彼らの目的は、故国の平和を目に焼き付け、南の海に漂う数多(あまた)の魂に伝えることだった。早速靖国神社に向かった英霊たちは、仰天する。参拝する閣僚を、大勢のマスコミが追いかけていた。『国の為に死んだオレたちを、どうして国の要人が夜中にこそこそ詣(まい)らなきゃならないンだ』。脚本が書かれたのは昨年の夏だった。全閣僚が参拝しない政権が生れるとは、倉本さんも予想しなかったようだ。・・・」

これが前半でした。
『帰国』というのは、舞台でも上演されていたのですね。
とりあえず、テレビドラマ『帰国』を録画してあったので、あらためて後半を見てみました。テレビドラマでは、東京駅に軍用列車が到着する場面からはじまっておりました。
思い浮かんだのは、井上靖の詩『友』でした。

    友 
  
  どうしてこんな解りきったことが
  いままで思いつかなかったろう。
  敗戦の祖国へ
  君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。
  ―――海峡の底を歩いて帰る以外。


産経抄の最後の箇所も引用しておきたいと思います。

「政府のばらまき政策にもかかわらず、景気回復の実感はない。心理学者の岸田秀さんによれば、『日本の経済繁栄の理由は、砲火を浴びて死んだ兵隊たちに対して日本国民が感じた罪悪感』だった(『「哀しみ」という感情』)。それを忘れた日本が沈滞するのは当然かもしれない。英霊たちを絶望させたまま南の海に帰らせた報いを、いまわれわれは受けている。」


とりあえず。岸田秀著「『哀しみ』という感情」を古本屋へと注文。
あとは、山折哲雄著「涙と日本人」・「悲しみの精神史」。
そして齋藤孝・山折哲雄対談「『哀しみ』を語りつぐ日本人」を開いてみたいと思いました。


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無言館。

2010-08-15 | 他生の縁
昨日TBSの午後9時から、『帰国 愛する妻よ恋人よ妹よ!!君達は幸せだったか――現代によみがえった英霊達が見たものとは・・・』という終戦ドラマをソファに横になって見ておりました。
 棟田博の小説をもとに、倉本聡が書き下ろしたスペシャルドラマ。倉本聡脚本・鴨下信一演出。靖国神社を写し出し。無言館を写し。どちらも私はいったことがなかったので、ちょっとでも見れたので、それがよかった、と思っております。

出演は、ビートたけし・小栗旬・向井理・堀北真希・長渕剛・八千草薫・石坂浩二・アラタ・塚本高史・生瀬勝久。

さて、無言館の館内の様子を、ドラマでちらりと見れたところで、
今日、8月15日の毎日新聞の歌壇・俳壇に金子兜太による『無言館』と題した5句が掲載されておりました。以下引用。

  無言館泥濘にジャングルに死せり

  裸身の妻の局部まで画き戦死せり

  無言館幽暗の床に枯松毬(かれまつかさ)

  館の外山蟻黒揚羽無言

  山百合群落はげしく匂いわが軽薄


ちなみに、毎日歌壇の大峯あきら選。その最初の一句は

 夏座敷一直線に風通る   可児市 金子嘉幸


今日8月15日は、木々ゆらす風あり。

毎日歌壇の河野裕子選。その3首目

 一年に十づつ年をとるごとく煤びゆく仏に線香をあぐ  宗像市 巻桔梗


新聞のそのページには「おことわり」とあり、
歌壇選者の河野裕子氏が12日に亡くなったことを知らせておりました。
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迷う読者に。

2010-08-14 | 他生の縁
山村修著「『狐』が選んだ入門書」(ちくま新書)は、机上の本棚に並べてありました。
え~と。その机にすわることがめっきりないので、そのまま忘れておりました(笑)。
ひさしぶりにとりだして、パラパラ。
そうそう、紹介されている入門書で、ネット古本屋で購入できなかった本が、そういえば、以前に2冊あったのでした。さっそくネットで調べてみると、安く売られている。さっそく昨夜注文。それも同じ古本屋でした。

それはそれとして、パラパラとひらくと、こんな箇所。
それは藤井貞和著「古典の読み方」を紹介している箇所でした。

「・・・高校や中学のときに目にしてすこしでも記憶にのこっている名前の作品、とくに感銘を受けたおぼえのある作品をあらためて読むのがいちばんよいと書いています。教科書なら教科書で部分的に読んだ作品を、あらためて、はじめの一行から最後の一行まで全部、読んでみることを奨めると書いています。
それでもなお迷う読者のことを思ってでしょうか、さらにつづけて、つぎにように力強く言い切っています。
『私は何といっても『徒然草』を第一に推す。何だ、『徒然草』か、と軽視してはいけない。二十歳台での『徒然草』の読者、三十歳台での『徒然草』の読者、四十歳台での『徒然草』の読者と、読者の受け止め方が刻々と変わってゆくのだ』
『これは読者の年齢が高いほど読みが深い、ということを必ずしも意味しない。ここがだいじなことだが、いずれの年齢の場合にしても、以前に読んだときより、今回のほうが読みが深くなる、ということだ。こうして古典文学は、二度読む、あるいは二度以上読むこと大切だ、という重要な指針が導きだされる』」

 さて、ここまでは、ここまでとして、このあとの山村修氏の言葉が印象に残ります。

『私はここに、ともかく手当たりしだいに濫読せよとすすめる評論家たち(たくさんいます)の無責任さとは画然とちがう、読者に対する誠実さを感じます。藤井貞和のいうように、手にふれるものを何でも自由に読もうというは『放恣(ほうし)』であって『自由』ではなく、『秩序のない乱読は乱雑な文化人を作りだすだけ』なのです。
また、もし『徒然草』を一度読んだら、いつか再び取りだす日まで書棚にしまっておこうというのも有益なサジェスチョンです。いったんは、しめくくりをつけてやること。書物は生き物であり、生き物は眠りを必要とする。愛読書はいつまでも起していないで眠らせてやり、浮気のようにほかの書物へと関心を移してみるのがよい。なぜなら『ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう』し、『そのときの新鮮さは格別の味わいがある』と著者は記します。古典文学再読のよろこびを語って、これは至妙(しみょう)の一節であるといえるでしょう。」(~p60)


さて、この新書に、新聞書評の切り抜きを挟み込んでありました。
そのひとつ2006年8月6日読売新聞は【鵜】さんでした。そのはじまりを、ここにもう一度引用してみましょう。

「たかが200㌻ちょっとの新書と侮ってはいけない。これを読んだあなたは、膨大な読書時間と書籍代の出費を覚悟した方がいい。・・・」
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どうしましょう。

2010-08-13 | 他生の縁
ドナルド・キーン氏には「日本文学の歴史」というシリーズがあります。
ありますけれども、私は読んでおりません(笑)。
私が読んだのは、「渡辺崋山」とか、あとは他のエッセイぐらいです。
さて、キーン氏のコロンビア大学の先生に、角田柳作(りゅうさく)先生がおりました。
「その後のコロンビア大学でも、日本語で『センセイ』と発音すれば角田先生のことにきまっていた。」(司馬遼太郎著「街道をゆく39・ニューヨーク散歩」)
その角田先生は、明治10(1877)年生まれ。群馬県出身。早稲田大学の前身の東京専門学校に学んだ。司馬遼太郎によるとこうあります「日本人にして【日本学の先覚】だったことを思うと、よほどの巨人のようにおもえるのだが、先生は講義に没頭しすぎ、著作があまりなかった。だから、日本社会では無名にちかい。私などは、キーンさんの諸著作を通してしか、この無名の巨人にふれる機会がない。」
そして「コロンビア大学で日本思想と日本歴史を教え、『まれにみる名講義』(キーン著「日本との出合い」)だったそうである。」

その角田柳作先生への興味は、ここまででしたが、私が次に興味をもったのは同じ明治10年生れの窪田空穂でした。それでもって、早合点で「窪田空穂全集」を購入して、いつものように寝かせてあったというわけです。
その月報では、明治10年生れの窪田空穂が触れていた空気をすくい取っておられます。
う~ん。たとえば、窪田空穂全集月報27での追悼座談会で大岡信氏はこう話しておりました。
「外国文学に対しても、身構えるといったことがなくて、悠然たる態度で対していられたと思います。詩の話もよくされましたが、あるとき、『おいおい、現代詩を書いている人でも、けっこうな年の人も多いんだろう』と言われるんです。『その中のひとりで、なかなか有名な人なんだが、文章を見たら散文がどうもだめだな』って言われました。散文の書けない詩人はだめだということでした。また別のとき、『君の書く詩を読むと、どうも言葉が多すぎる』って言われて、参ったことがありました。そういう批評を雑談の合間にちょこっと言われる。思いあたる節があるから、こちらはその短い批評がこたえる。」


さて、全集の月報8には、塩田良平氏が「生き証人としての窪田さん」と題して書いておられました。そこに
「私にとつて窪田空穂がかけがへのない存在に思へることは、窪田さんが明治文壇の生き証人であられることであらう。故佐佐木信綱も高齢まで記憶力が確かで、二十年前に聞いたこともその後十年たつてきいたことも、符節を合せる如く一致して狂ふことがなかつた。窪田さんも同様であつて、由来古老の言といふものは時によると曖昧になりがちの処もあるが、窪田さんの追憶談にはそれがない。新詩社時代、独歩社時代などの思出などは、私共にとつて非常に貴重なもので、資料的価値からいつても良質な資料、即ちすぐ使用できる信憑性を持つてゐるのである。・・・」

では全集月報の空穂談話から引用していきます。
月報2から

記者「先生は新体詩をだいぶお作りになっていますが、そのころのお話を。『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね。」
窪田「ああ、そうだ。一番古いのは『新体詩抄』、日本の短歌は短すぎてつまらない、もう少し長いものをというんで、外山正一、矢田部良吉など、大学の先生たちが集まって作った。これは素人だ。・・そこへ、きみのいまいった『抒情詩』、これが「国民之友」から出てきた。・・徳富蘇峰さんが意見が中心になってもの。・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田国男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・・
当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういう時代。
・ ・・・・・・
ついでのことだが、歌というものは、ヘンなもので、新しいか古いか、わからないところがある。・・・・だから、そういうところへいくと、国語の表現などというものの根底は深いもので、好き嫌いぐらいじゃちょっと動かせないと思う。そこに問題があるような気がする。・・・現在ほど歌(短歌のこと)が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われていた。ところが、歌にはいまいった年代を越えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感じる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。」(昭和39年8月)

この月報の中には西脇順三郎氏も書いておりました。
西脇順三郎というと、篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)に、
西脇氏の詩「えてるにたす」が引用してありました。そこから引用

『   過去は現在を越えて
    未来につき出る
    「どうしましよう」

最後の「どうしましよう」なんて所は、思わず噴き出すというくらいの余裕がなければ、この詩の面白さは解らない。これは西脇流諧謔、ウィットというやつです。・・・
「過去は現在を越えて/未来につき出る」という所に、生命の生命たる所以があるというんです。つまりエテルニタス、永遠なんですね。そこで『どうしましよう』となるわけなんです。』


ついでに、「三田の詩人たち」から、もう一箇所引用。


「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ一つの文学的世界の中を出入りしていました。今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の共通性といったものも認めにくい状態です。つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに始まっていました。・・・」

ちなみに、この篠田氏の講義は、1984年に全九回にわたっておこなわれ、1987年(昭和62)に単行本となっておりました。そのあと2006年になって講談社文芸文庫に「三田の詩人たち」という題で入っております。
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愛だよ。愛。

2010-08-12 | 他生の縁
篠田一士著「三田の詩人たち」。
その講談社文芸文庫の解説は、池内紀氏で題は「大読書人の読書術」。
その最後の方にこんな箇所がありました。

「プロフェッショナルな批評家として三十年を過ごした人だが、その反面でたえずアマチュア性を大切にした。中心になって編集した『世界批評大系』(筑摩書房)の解説を、『批評は作品への愛に始まり、作品への愛で終わる』といった意味の言葉で書き出しているが、愛なり感動を批評の根底に置くという姿勢は、誇らかなアマチュア宣言にもひとしいだろう。『三田の詩人たち』の語り手は『僕』である。人前で話したからこうなったわけではなく、篠田一士はつねに『僕』あるいは『ぼく』で書いた。『私』あるいは『わたし』の中性的な主語のほうがふさわしいような場合でも、やはり『僕』で通した。・・・つまりは、終始ゆずらなかったアマチュアリズムとひびき合う。」(p208)


ところで、プロフェッショナルな批評家でなくとも、
作品への愛を語るのを、読めるのは嬉しいものです。
と、こうして暑い8月のさなかに、思ったりします。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)を読んでいるときに、そんなことを感じておりました。ということで、「池波正太郎を読む」から引用していきます。

「私は数年前まである大学で時間講師で新入生に英語を教えていたとき、夏休みには『鬼平犯科帳』を読むことをすすめた。本を読まない学生諸君に『鬼平犯科帳』でもって、読書の楽しみを知ってもらいたかった。夏休みが終って、教室にもどってきた学生の何人かから、『「鬼平」はおもしろいですねえ』といわれたときは、私もうれしかった。読書が楽しいものであることを彼等ははじめて知ったのである。
また、あるとき、『鬼平』や『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』を病気見舞に持参して、たいへんよろこばれたことがある。入院中のその友人は、食欲もなく、前途を悲観していたのだが、先生の小説に出てくる、数々の素朴な、おいしそうな食べもののシーンを読んで、早くなおって、退院したくなった、と私に語ってくれた。『鬼平』は読者に慰めと元気をあたえてくれるのである。
それは、血なまぐさい事件のあいだに、江戸の町をぶらぶらしたり、酒を飲んだり、朝飯を食べたりという平凡な日常生活が描かれているからだ。日常生活がいかに大切であるかを先生はなにげなく説かれているのだ。」(p26~27)

「『鬼平』を愛読する読者に私は親近感をおぼえる。そういう人となら、話をしても、酒を飲んでも、食事をしても、楽しいのではないかと思う。・・」(p28)


「私はたいてい疲れているときに、池波さんを読んでいる。私の躰が求めていて、鬼平や梅安や小兵衛で、私はたぶん疲れを癒しているのだろう。」(p137)


そして、「晴れた昼さがりの先生」(p182)では、
めずらしく、池波先生から「会いたい」という伝言をもらう話なのでした。
それは、常盤氏の四面楚歌を聞き及んだ先生の伝言だったようなのです。
それは、まあ、読んでのお楽しみ。
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