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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いずれにせよ。

2010-12-28 | 他生の縁
ネットで古本が購入できるようになって、
私に癖になってしまったことがあります。
本を読んでいながら、途中で推薦されていたり、
気になる本の紹介があると、読むのを中断して、
ネットで古本の検索をはじめるのでした。
(もちろん家にいる時なのですが)
それが毎回の習慣になってしまっております。
たとえば、最近では、
加藤秀俊著「常識人の作法」(講談社)に
白石太良著「共同風呂」というのがp13に
ちらりと出てくる。う~ん。風呂というのは
興味があります。途中で検索すると、
1冊みつかります。
うん。ここで注文しなきゃ。
もう、買えないかもしれない。
風呂には興味があるし、と注文することにします。
つぎに、p14に
きだみのる著「気違ひ周游紀行」がでてくる。
これは、買ってあったけれども、未読本なので、
新書のとこをさがしてみる。あった。
この機会に読めればうれしい。
p169には「わたしの愛読書のひとつ」とあり
海賀変哲著「落語の落」という本が何気なくある
うん。ネット検索で、これは東洋文庫に2巻本としてあるのを確認。
とりあえず、一冊目だけ買うことにして注文。
p216には山口翼の「日本語大シソーラス」(大修館書店)への言及、
さっそく、ネット検索すると、こりゃ高い8,000円以上する。
こういうのは買っても読まないことはわかっているので、
すぐに諦めることができる。

ということで、本を読んでいるのか、
検索しているのか。どっちなんだ。というような読み方。
来年はすこしは賢い読書になりますように。
すこしは改善してゆけますように。
まあ、「常識人の作法」を読んだのですから、
一箇所ぐらいは、すこし引用しておきましょう。
それは「『つきあい』のゆくえ」という文に、ありました。


「いずれにせよ、どれだけのひとと、どれだけ深い交際ができているかによって人間や地域、そして組織の力は決定される。」(p116)
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こうした配慮。

2010-12-19 | 他生の縁
加藤秀俊著「常識人の作法」(講談社)を、私は楽しく読みました。
読みながら、さて、これをどうお薦めしたらよいかは、ちょっと解説がいるような気がしておりました。
そこで、思い浮かんだのが、阿部謹也著「『教養』とは何か」(講談社現代新書)の中の言葉なのでした。ということで、その引用から


「私がこの問題にはじめて気づいたのは中学校の校長との関係においてであった。その校長は卒業式の時にどんなに困難があっても自分が正しいと信じた道を進め、と説き、そのためには中学校の教師はいつでも協力すると語ったのである。
数年後に大学卒業を前にして大学院に通いながら働ける非常勤講師の口を探そうとしていた私はその校長を訪ねた。そのとき校長は私の教師の名をあげ、ああいう進歩的な教師の許にいたのでは非常勤講師の口など期待するほうが間違っているといったのである。そのときの校長の話し方は卒業式の時の話と全く異なっていた。彼は一人前の大人として私を遇し、『世間』の中での身の処し方を教えてくれたのである。『世間』の中で身を処して行くためには若いときの信念や期待などはかなぐり捨てて『世間』の常識に従わなければならない、ということを教えてくれたのである。
私は当時彼のこうした配慮に気づかなかった。私は校長に失望して中学校を去った。・・・・」(p99)

まあ、このあとが阿部謹也氏の本の本題となるのですが、それはそれとして、
加藤秀俊氏の著作を、すでにご存知の方には、説明を要しないのですが、加藤秀俊氏がどのような方かもしらずに、この「常識の作法」をはじめての1冊として読んだら、何か失望するのじゃないかなあ、といらぬ心配をしてしまう私なのでした。

まあ、この本は、気楽にご隠居のお話を聞いているような雰囲気があるのです。
別に、理路整然と説明をうけている気構えで読み始めると、その理路につまずくんじゃないかという、いらぬ心配をしてしまうのでした。

たとえば、また山本夏彦の選集が出版されるようでありますが、
山本夏彦の「愚図の大いそがし」にこんな言葉がありました。

「私たちは共通な人物と歌を失った。何よりその背後にある芝居を失った。言葉どころではないようだが、言葉から直していかなければこれは改めようがないのである。」

ここでいう「言葉」から直すということを始めたとします。
すると、つぎに「何よりその背後にある芝居を失った」ということに、はたと気づかされるのじゃないかと、私など思ってみるのでした。

ここはひとつ、ご隠居のところへと長屋の数人でお小言を頂戴にうかがったというお芝居を思い描いてみればよいような気がするのでした。つまり加藤秀俊ご隠居に、新米読者がご意見を頂戴しにうかがっているお芝居が、大切なキーポイントとなるような、そんな気がします。

いきなり、論理明快な筋運びを期待すると、常識と非常識とがぶつかって、読み進めなくなるような雰囲気があります。ここは、ひとつ、落語を最後まで聞いてみるつもりになって、読み進める事が肝要です。読後得るところが多いと思うのでした。つまり、反発する箇所もあるでしょうが、それが、あとあとに考え方の目印として残ってゆくような、踏み台としての役目を担っていると思えるのです。まあ、ご隠居は自然体で語られておりまして、それをとやかくいうのは若造の若造らしさになってくるのですが、あとあと知らないうちに身にしみるのがご隠居のお説教というものです。

ええ、そんなのは聞きたくもないというのですか。うん、そういう方は落語も聞かれないのでしょうねえ。もったいない。

おっと、ここでは、肝心な「常識人の作法」の内容へと踏み込めませんでした。またこんど。
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いざ鎌倉大仏。

2010-11-10 | 他生の縁
朝日の古新聞をもらってきて、ひらいていたら、
芸術新潮の広告が目にはいってきました。
芸術新潮11月号。
永久保存版大特集「いざ鎌倉」。
広告には鎌倉の大仏の写真が掲載されておりました。
町の本屋へ行くと、売り切れている。
ちょっと中身を見てみたかったのですが、残念。

結局、ネットでその雑誌を注文しました。
鎌倉の大仏が、どのように写されているのか、
その興味から。

そういえば、齋藤十一氏は、鎌倉明月谷に住んでおりました。
1965年結婚「鎌倉明月谷に新築した家に転居し、終生この家に住む」とあり、2000年に86歳で亡くなっております。2001年「鎌倉・建長寺龍生殿にて葬儀、建長寺塔頭・回春院墓地に眠る」と略年譜にあります。

さて、齋藤美和編の「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)に、野中昭夫氏の文が掲載されており、今回あらためて読み直しております。その途中から引用してみます。

「・・・昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と大判化し、写真も多く掲載することになって、松崎国俊さんと二人で写真を担当することになった。週刊誌大になった『芸術新潮』の巻頭十五ページは[芸術のある風景]という写真特集シリーズでスタートした。・・・
三・四日撮影して、二、三十本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。四階の編集室では、齋藤さんと山崎さんが写真について検討中。・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度取り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の撮り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。
さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当たり障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。
このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって、お二人の魅力ある写真に近づきたいと思っていた。いや、追い越してやるなんて力んだ時もあった。だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何とか繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。
先生方の作品を意識しても、決して同じ写真は撮れない。
この[芸術のある風景]のシリーズは十二月号で終わったが、この一年間で、京の寺社、洛中、洛外、西、東、上ルに下ル、大和国原、飛鳥に三輪山等々、多くを学ぶことが出来た。
齋藤さんは、私の写真になんの批評も指示もされず、ただ『もう一度行ってきな』とおっしゃるだけだった。・・・・私が現在も写真を撮り続けていられる原点は、この貴重な一年間の試練があったからだと確信している。齋藤さんはもう七回忌を迎えられる。・・・
『もう、何度でも行ってきな』って十一さんが今も呟いて下さっているように思える。」(p105~108)


ところで、今日「芸術新潮」11月号が届いたのでした。
ひらいて、鎌倉の大仏は、どこだとぱらぱらとめくっていると、
おいおい、p8とp9の見開き二ページに、大仏の左目のアップ。
あとは、p32とp33の見開き二ページに、「東側の真横から見た高徳院の大仏さま」が写されておりました。あとは古い写真が少々。
期待していたのに、え~。これだけ。と最初は思ったのです。
なんせ、雑誌が1500円です。でもp32の大仏だけで満足と、
しばらくしてから、猫背の大仏が身を乗り出して、参拝者の声を聞いてでもくれているような一枚の写真を、もう一度見ております。
ちなみに。新聞広告に掲載された大仏の写真は、雑誌では使われておりませんでした。
うん。よしとします。
p32~33だけで1500円。

さてっと、あなたならどうでしょう。
本屋でパラパラと開いてみたらいかがでしょう。

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文章速達法。

2010-11-07 | 他生の縁
たとえば、斎藤美奈子著「文章読本さん江」(筑摩書房・2002年)の最後に、
「引用文献/参考文献」として「文章読本・文章指南書関係」と「文章史・作文教育史関係」とにわけて列挙しておりました。
そこには、堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・昭和57年)は、取り上げられておりませんでした。ちなみに、谷沢永一著「大人の国語」(PHP研究所・2003年)の最後にある「附録『文章読本』類書瞥見」にも堺利彦著「文章速達法」は掲載されておらない。

別な角度から、みていきましょう。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)は、先の斎藤美奈子氏の本に登場しておりません。「大人の国語」の方には、中公文庫へ入るまえの清水幾太郎著「日本語の技術」という題で、入っておりました。


清水幾太郎著「私の文章作法」を、文庫へと入れるように薦めたのは、山本夏彦(どこかに自分が文庫へ入れるように薦めたと書いてあったのだけれど、それが見あたらない)。
関連する文は、山本夏彦著「愚図の大いそがし」・「完本 文語文」(どちらも文芸春秋)の両方に書かれております。たとえば、

「噺家は芸人である。芸人を芸術家より低いと思ってはならない。芸人のまねはしても芸術家のまねはするな。実は私だって文を売る芸人だと清水は言っている。」(「完本 文語文」p172)と夏彦氏は書いておりました。

さてっと、中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」には、最後の解説を「狐」さんが書いておりました。8ページほどの文の2ページ目に堺利彦氏が登場している。

「・・・大逆事件のとき偶然にも入獄していて連座を免れ、出獄後は『売文社』を設立して文章代作の商売を始めていた社会主義者、堺利彦の『文章速達法』である。堺は作文の要諦を『そのまま、ありのままにさらけだす』ことにあるとした。・・・ただし『文章速達法』の痛快さは、著者の強調する『そのまま、ありのまま』の文章法を、ほかならぬ著者自身がほぼ全篇にわたって裏切り、否定し、出し抜き、結局は堺利彦という書き手がすぐれて技巧的な文章家であることを平気で露呈しているところにある。・・・」(p198)


ちょいと脇道にそれますが、狐さんの解説では
「清水幾太郎が文章について霧が晴れるように平明に開かれた言葉を語る『私の文章作法』が文庫になった。私は拍手する。」

というのが最後のしめくくりでした。

斎藤美奈子著「文章読本さん江」で、参考にもされなかった『私の文章作法』であります。
まあ、読んでなかったのでしょう。しかたないのかなあ。

書誌学者たる谷沢永一氏の類書瞥見ではきちんと昭和52年清水幾太郎著「日本語の技術」と紹介されているのですが、普通の読者には、それが中公文庫の「私の文章作法」だと気づく方は、よっぽどの方しか、まあ、わからないでありましょう。いわく不親切。ちなみに文庫の「私の文章作法」には、「『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊」と明記しておりますので、これだけだと、清水幾太郎の「日本語の技術」と「私の文章作法」とが同じものだとは(内容は書きかえがあるのですが)どなたもわからないでしょう。

ここで、堺利彦の文章の系譜というので、
うれしい記述が読めたのでした。
それが黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)。
ちょっと長くなりますが、おつきあいください。


「福沢諭吉がこの『文字之教 附録手紙之文』を書いたのは、まだ人々が丁髷(ちょんまげ)を切ってまもない時期で、もちろん、文例の手紙文は言文一致ではない。それでも、福沢は『難き字を用る人は文章の上手なるに非ず。内実は下手なるゆへ、ことさらに難き字を用ひ、人の目をくらまして其下手を飾らんとするか、又は文章を飾るのみならず、事柄の馬鹿らしくして見苦しき様を飾らんとする者なり』と述べている。
要するに、福沢は飾らずに平易な文章を書け、と主張したのだが、堺が『言文一致普通文』で指摘したのもまさに同じことだった。この『文字之教 附録手紙之文』を堺は読んでいたのではないか。というのも、堺は『予の半生』で『予は福沢先生より多大の感化を受けた事を明言して置く』とわざわざ断っているのである。
堺は小学校で福沢諭吉の『世界国尽(づくし)』を暗記して育った世代で、幼くして福沢の名前は頭に刻みこまれていた。しかも、福沢は豊前国の中津出身で、堺の父が十五石四人扶持だったように、中津藩士だった福沢の父は十三石二人扶持で、武士としての身分は低かった。偶然とはいえ、福沢諭吉も一時は養子になって、堺と同じ中村姓を名乗っていたことがある(『福翁自伝』)。同じ豊前人で、いまや日本を代表する偉人である福沢諭吉を、堺が意識していなかったはずはない。売文社の一員だった白柳秀湖もそれを裏づけている。秀湖は、自分が文筆人として啓発されたのは島崎藤村や堺利彦や山路愛山だったが、なお遡っては福沢諭吉の思想と文章だったと述べ、『福沢の文章と思想とを著者にすすめて呉れたのは堺利彦氏であつた。このことはあまり知られて居ぬが、堺氏は福沢の最も熱心な敬仰者の一人であつた』と回想している(『歴史と人間』)。・・・・」(p83~84)


「文章」という系譜をたどるときに、福沢諭吉から堺利彦へと続く流れを見逃しては、これからはいけない。ということに私はいたします(笑)。


おっと、「狐」さんこと山村修氏の著書「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)にも、言及しておかなければ。

そこでの第一章「言葉の居ずまい」の最後に「切れば血とユーモアの噴き出る文章術   堺利彦『文章速読法』」と題して紹介文が掲載されております。そのさわりをすこし引用。


「読んでいておぼえるのは、大正四年に出た文章入門書が、いまなお実用書として十分に通用する(!)というおどろきです。けっして古びていません。むしろ、みずみずしいくらい。それは清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)のような文章指南のロングセラーと読みくらべてもわかります。」(p46)


最後にもう一度。
谷沢永一著「大人の国語」にも
斎藤美奈子著「文章読本さん江」にも
そのどちらにも、
堺利彦著「文章速達法」は紹介されておりませんでした。
ちなみに、清水幾太郎著「論文の書き方」は、どちらも
しっかりとはいっているのでした。



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殊勝にも。

2010-11-05 | 他生の縁
本の整理をしていると、ついブログへの書き込みがおっくうになります(笑)。
段ボール箱の本を、入れ換えてみたり。本棚に見えるようにして並べてみたり。
まるで、私にとっては、文章を書きかえているような感じ。
とりあえず、
ミカン箱くらいの段ボール箱で、150箱ぐらいです。
いやになるのは、そのほとんどが未読。
あとは、本棚の本ということになります。
未読本のことを思えば、本を購入する場合じゃないのに・・・。

最近詩人の田村隆一氏の全集が刊行されるようなので、
とりあえず、田村隆一詩集やエッセイを本棚に並べてみました。
あんまり、面白いので、これじゃ田村隆一の泥沼からぬけられないと、
処分してしまったエッセイのことが思い出されたりします。
となりに、W・H・オーデンを並べてみたり。

ほかには、追悼文をテーマに本棚に前後して並べてみたりします。
雑誌の追悼文があるなあ。と思ったり。
いや、とりあえず、未読本を本棚に並べるようにしないと、
いつまでたっても、読めないなあ、と思ったり。
そんなふうにして、時間は過ぎていきます。
本を購入したのも多少の縁。
本の表紙の顔ばかりじゃなくて、
本の内容ぐらいは触れたいと、こういう整理のときだけは
殊勝にも思うわけです。
けれども、本をひらいてしまうと、整理はそこで止まります(笑)。

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鶴見流の比喩。

2010-10-26 | 他生の縁
鶴見俊輔氏は、ときに出会いの様子を語られるときがあります。
たとえば、梅棹忠夫氏との出会い。

「初めて会ったころ、知識人のあいだでマルクス主義者でなければ人でないっていう空気がつよかったなかで、梅棹さんのところに行ってみると庭には大工道具が置いてあるし、『暮しの手帖』が揃ってたりしてたんで驚かされた。なにしろ椅子から何から全部自分でつくる。とにかく暮らしっていうものを中心に考えてましたね。それから日本全体の交通をどうするかって考えあぐねていると言われた。びっくりした。これが昭和25年(1950)なんだからね。とにかく梅棹さんのところへ行くと別の風景が見えてくる気がした。」

上は、鶴見俊輔座談第八回配本「民主主義とは何だろうか」(晶文社)のなかの「五十年の幅で・梅棹忠夫」という対談の、はじまりの箇所。

これが、加藤秀俊氏に言わせれば、こうなります。

「ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。鶴見(俊輔)さんによると梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、というのであった。まことに失礼なようだが、鶴見さんは、およそ生活技術についてはいっこうに無頓着、かつ不器用な人だから、鶴見さんからみると、大工道具を使うことができる、ということだけで梅棹さんを評価なさっているのではないか、ずいぶん珍奇な評価だ、とわたしはおもった。金槌やカンナくらい、誰だって使える。大工道具を使えない鶴見さんのほうが、率直にいって例外的だったのである。」

もっとも加藤秀俊氏の文では、これからが本題へとかわってゆきます。そこを引用しないと片手落ちとなりますので、引用。


「だが、それと前後して、わたしは・・梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」


鶴見さんについては、
「鶴見俊輔集2」(筑摩書房)の月報7にある
ロナルド・ドーア氏の「『かわりもの』の刺激効果」という文が、
今度読み直して、たのしかったなあ。
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哲学という芸能。

2010-10-24 | 他生の縁
さてっと、
歎異抄を読みたい。そう思ったわけです。
ですが、私には歯がたたない(笑)。
ということで、私が選んだ水先案内人は梅原猛氏。

講談社学術文庫にあった梅原猛全訳注「歎異抄」を
まずは、ひらいたと思ってください。
その「学術文庫版まえがき」というのに、
こんな箇所がありました。

「親鸞の著書及び唯円の著書『歎異抄』は絶えず私に親鸞思想の新しい深さを教えてくれる。私の親鸞に対する解釈の変化を知りたい人は、旧著『誤解された歎異抄』(光文社)及び、この本とほぼ同時に発売されるはずの新著『法然の哀しみ』(小学館)を読んでいただきたい。」


う~ん。ここで、私は数ページこの文庫と付き合ったあとに、「誤解された歎異抄」を読み始めたというわけです。これ読めてよかった。と学術文庫は、そっちのけで思っております。山折哲雄氏の岩波新書よりも、梅原氏のほうが体当たりしているような味わいがあります。まずは、読めてよかった。

そういえば梅原猛著「百人一語」(朝日新聞社)で、梅原氏は百人の一番最初を親鸞からはじめておりました。その一語は「親鸞は弟子一人(ゐちにん)ももたずさふらふ」を、掲げております。ちょいと、その一語につけた梅原氏の言葉の出だしを引用。


「この言葉は、唯円の書いた『歎異抄』の第六にある。唯円は長年親鸞と寝食をともにした高弟であり、『歎異抄』は親鸞の死後三十年を経て唯円が書いた書であるので、親鸞が語った言葉とみて差し支えないであろう。この言葉は専修念仏の輩(ともがら)が『我弟子、人の弟子』と相争っているのを戒めた言葉である。もともと念仏というものは阿弥陀仏から賜ったものであるので、『我弟子、人の弟子』と言い争うのは、阿弥陀仏から賜った信心をあたかも自分のものであるかのように自分の許へ取り返そうとするものである、と親鸞は批判するのである。私は若き日、この言葉を読んでひどく感激した。親鸞のこの言葉には偉大な思想家の孤独が滲み出ているのである。・・・」


ちょっとここから、余談になります。
聞き手小山修三氏による「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に梅原猛氏が話題としてちらりと登場している場面がありました。そちらを引用。それは最後の方のp199に出てきます。


小山】  ぼくは、梅棹さんより梅原猛さんのほうが宗教家としては向いていると思います
梅棹】  梅原は哲学という芸能の一ジャンルを確立したんや。哲学者という芸能人の一種のスタイルをつくった。
小山】  最近、哲学ばやりですね。
梅棹】  そやね。それは芸能や。梅原がそうで、あれは完全に芸能人です。話がうまい。身振り手振りがおかしくて。ほんまにもう、聞かせるよ。迫力があってね。
小山】 (笑)。だけど、厳しい言葉だな、こそこそしながら『あいつは芸能やで』とか、やっかみでいやみなこと言うやつはいるんですけれどね。
梅棹】  哲学という芸能としてのジャンルを確立した。たいしたもんや。
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なんのための。

2010-10-23 | 他生の縁
加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)で、取り上げられている本たち。
そのなかで、ちょっと興味を惹き、しかも手軽に買えそうな本リスト。


 杉山正明著「遊牧民から見た世界史」
 高島俊男著「漢字と日本人」
 「海遊(しんにゅうがサンズイ)録」
「地球語としての英語」
「分類語彙表」
「象は鼻が長い  日本文法入門」
谷崎潤一郎著「文章読本」
関山和夫著「説教と話芸」
「節談説教」
「杉浦重剛座談録」
「忘れられた日本人」
柳田國男「世間話の研究」
「聴耳草紙」
「もうひとつの遠野物語」
「氷川清話」
「安吾捕物帖」
大牟羅良著「ものいわぬ農民」
エンプソン「あいまい性の7つの型」
ウォルター・オング著「声の文化と文字の文化」
「國字問題の理論」 この名著は
周作人著「日本談義集」
中谷宇吉郎著「科学の方法」


と、簡単に手には入りそうなリスト。
こういうリストを読もうとすると、めげるのですが、
あるとき、別の本とのかかわりで、読みたいと思うことがあるかもしれないと、とりあえず備忘録としてのリストアップ。他にも取り上げておられる本はあるのですが、まあ、私はこれでも充分。


ああ、そうそう。「あとがき」のこの箇所も引用しておかなければ。

「率直にいって、わたしの日本語論に刺激をあたえてくださったのは専門の国語学者もさることながら、じつはすぐれた日本語の『ユーザー』たちであった。同時代人のなかではたとえば司馬遼太郎、ドナルド・キーン、梅棹忠夫、山本夏彦、小沢昭一、井上ひさし、筒井康隆、高島俊男、江国滋、永井愛、といったかたがたの日本語についての著作や発言がわたしにはたのしく、またおしえられることがおおきかった。」
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靴の空箱。

2010-10-22 | 他生の縁
2004年に出た本で鼎談「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)がありました。
鼎談は瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、鶴見俊輔の3名。はじまりに、こうあります。

「大正11年(1922年)生まれが三人揃うというのは珍しいでしょう。それもほとんど一月しか離れていないですからね。・・・」

その本の最後に、「それぞれの『あとがき』」とあり、3人が別々に書いてあり、瀬戸内さんの文に

「いつものことだが、鶴見さんは10センチもの高さに及ぶメモを用意され、信じられない正確な記憶力を駆使して縦横無尽に話される。・・・」とあります。


この箇所を思い出したのは、加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいた時でした。そこに、加藤秀俊氏がはじめて、鶴見研究室のドアをあけたときのことが書かれていたのでした。こうあります。


「あけたとき、わたしはびっくりした。というのは、鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつもならべられており、その空箱にカードが乱雑につめこまれていたからである。本もいくらかはあったが、本の占めるスペースより、はるかに多いスペースを靴の箱が占領していたのだ。鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべながら、どうです、いいでしょう、B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり入ります、値段はタダです、カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。なるほど・・・・・。それらのカードには、青鉛筆と赤鉛筆でなにかが書きこまれていた。鶴見さんの字は、じぶんだけがわかればよい、という、一種の略記号のようなもので、わたしには部分的にしか判読できなかったが、これらのカードが素材になって、鶴見さんの思索が展開してゆくらしいことはよくわかった。ついでにいっておくと、鶴見さんは、いつも紺のジャンパーを着ていて、胸のポケットには赤と青の色鉛筆が何本か無造作に突ききまれていた。どうやら、この人は、ふつうの万年筆や黒鉛筆は使わない人らしい、とわたしはおもった。ときどき本を借りると、そこにも赤と青でいろんな書きこみがあった。この書きこみにいたっては、いよいよ判読不明で、すべてがわたしにとっては謎であった。・・・・」

このあとに、鶴見さんのデスクのひき出しが紹介されているのでした。

つぎに紹介するのは、鶴見俊輔・多田道太郎対談「カードシステム事始」の最後の鶴見さんの言葉です。


「私たちが京大でやったのは、いまの共同研究のイメージとはぜんぜん違うわけ。つまりね、あのときのカードは機械のない時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、もちろんコンピュータやEメールもない。いわば、穴居時代の技術です。コンピュータのいまのレベル、インターネットのいまのレベルという、現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。穴居時代の技術は何かということを、いつでも視野に置いていかなきゃいけない。
それとね、私たちの共同研究には、コーヒー一杯で何時間も雑談できるような自由な感覚がありました。桑原さんも若い人たちと一緒にいて、一日中でも話している。アイデアが飛び交っていって、その場でアイデアが伸びてくるんだよ。ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。私は『おもしろい、おもしろい』って聞いているから、それだけが彼の報酬なんだよ。何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)雑談の中でアイデアが飛び交い、互いにやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。・・・・・」(「季刊 本とコンピュータ7 1999冬」)


ここに、「その場で、アイデアが伸びてくるんだよ」という言葉がある。
この「伸びてくる」というのは、どんな手ごたえなんでしょうね。


ちょうど、加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)をひらいていたら、
そこに、こんな箇所。

「『遠野物語』から一世紀。テープ・レコーダーはもとより、電子録音機まで自由につかえるのに、まだ『口話』の世界をそのまま学問のなかで市民権をもたせることはすすんでいないようなのである。『はなしことば』をそのまま『文字』に、というのは口でいうのはやさしいが、これは近代日本語の根本問題でありつづけているのだ。」(p152)

「柳田先生がなんべんも警告されたように、われわれの生きている社会は『文字本位』であって『はなしことば』をおろそかにしてきたのである。」(p158)
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播州門徒の末裔。

2010-10-20 | 他生の縁
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文芸春秋)に
司馬さんと浄土真宗との関連が、読めるのでした。

とくに、
「浄土 ―― 日本的思想の鍵」と「日本仏教小論 ―― 伝来から親鸞まで」を読みかえしていて、はじめて読んだような魅かれかたがありました。
まあ、とりあえずは、司馬さんと浄土真宗との関連の箇所。

「なぜ中世の浄土真宗が、そのように布教に熱心だったかと言いますと、領地がなかったのです。おなじ浄土教でも浄土宗と浄土真宗が際立って違っていたのは、浄土宗には領地があり、どんな寺でも小さな田圃か山林を持っていることでした。つまり浄土宗は農地地主として寺を維持していました。・・・ところが、一方の浄土真宗というものは、そんなものはなかったわけですから、信徒をもって田圃にする。そのことを古くからある仏教用語で福田(フクデン)と言いました。私(司馬さんのこと)のところも信徒でしたから、私の戸籍名福田(フクダ)は、フクデンからきているわけです。播州の亀山の本徳寺というところの門徒であったことを喜びにして、福田という姓にしたそうです。はじめの戦国時代は三木という姓だったんですが、江戸期には福田ということにして、明治以後、お上に届け出たそうです。要するに門徒だということを喜んでいるという変な姓です。」(「浄土 ― 日本的思想の鍵」)

なお、この「浄土 ― 日本的思想の鍵」を読んでいると、私は加藤秀俊著「メディアの発生」に出てくる宗派の関連が、より理解できたような気がしてきます。


さて、司馬遼太郎の「日本仏教小論 ― 伝来から親鸞まで」のはじめの方にも、こんな箇所がありました。

「私の家系は、いわゆる【播州門徒】でした。いまの兵庫県です。十七世紀以来、数百年、熱心な浄土真宗(十三世紀の親鸞を教祖とする派)の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、ただし蚊遣りはかまわない、蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、私がここに立っている資格の一つかもしれません。」


山折哲雄氏の親鸞が著作を学問的にたどるのに対して、司馬遼太郎氏のこの2つの文のほうが、私に自然な空気のように吸い込むことができるような読後感がありました。とにかくよく整理されてわかりやすく、しかも身近な地続きな言葉で、語られている。
素敵な2つの文なのでした。とあらためて思ったのでした。
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見せたらいかん。

2010-10-18 | 他生の縁

山折哲雄氏は、
「私の場合は岩手県の浄土真宗本願寺派の末寺に生まれたので、自然に親鸞と出会うことになった。子どもの頃から親鸞、親鸞で、それはもう耳にたこができるというぐらいの環境で育ちました。」と語っております。

そういえば、司馬遼太郎は、どうだったのか。
たしか司馬さんの家の宗派は、浄土真宗だったと思います。
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」に、「学生時代の私の読書」という文が掲載されております。そこに、こんな箇所

「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がします。」

さて、最近司馬遼太郎・林屋辰三郎対談「歴史の夜話(左が口、右が出)」に、こんな箇所があるのでした。

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、いまでも持っているというのは、われわれの一つの幸福ですね。非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で語られたということは坂東人の偉業だったと思いますね。
『歎異抄』というのは、いかにもまた東国のフロンティアのにおいがありますね。親鸞が東国へ流されますが、どれだけ布教熱心だったのかよくわかりませんが、とにかく周りの人を教化しました。京都へ帰りましたら、また坂東に異安心(いあんじん)の雑想が芽生えてくるわけです。南無阿弥陀仏は呪文なのかとか、あるいは南無阿弥陀仏を唱えたら、ほんとうに極楽へ行けるのかとか、疑問になってくる。それで東国から代表者たちが押しかけてきて、京都で親鸞と一問一答するわけでしょう。これは当時の農民の民度からいえば非常に高級なことです。それを親鸞がまともに受けて答えているからいいんですね。
それをまとめたのが『歎異抄』で、唯円坊というのが質問の筆頭人で、後に文章にした人だと思うのですが、これが京都の人なら、同時代の京都の人が疑問を持っても、『ああ、わかりました、わかりました』で、帰っていくと思うのです。いいかげんにする文化が西にはあるんです。あんまり本質をほじくり出すのはえげつないという、それは差しさわりがあるなどと。
これは人口の多い所には必ずある現象ですが、坂東は人口の少ない所ですから、人と人とがほんとうに向き合って接触するときには、対決の形をとる。問答というか対話というか、ギリシャみたいな話になりますけれど、対話という形をとらなければならない。それは武家の親類どうしで土地争いをする場合には訴訟ということになりますが、その訴訟は平安末期から鎌倉幕府成立前後の風土です。だから自分の主張を言葉で表現する。そしてあくまで通すというのが、坂東の精神だったわけです。フロンティアの精神ということでかさねあわせると、そういうことになる。
そういう土のにおいのする中から日蓮が出たり唯円坊が出て、たとえば『歎異抄』という文章日本語の名作を起こしたりしたわけで、かんじんの関西の本願寺さんは、『歎異抄』を明治まで隠していたんですね。『これを見せたらいかん。こんなに明快なものを見せると、門徒衆はありがたらんようになる』と。そのぐらい、『歎異抄』は大げさに言えば人文科学的なものです。そういう精神は、鎌倉幕府の成立前後は坂東にみなぎっていたんだろうと思います。




つい、引用が長くなりました。
一読、印象が鮮明で、忘れられない言葉と出合った気がしました。
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猛烈な伝統。

2010-10-15 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に

「私のつきあった人のおおかたはなくなった。」とはじまる
「対話をかわす場所」(p206~208)という題の文があります。
そこに「河合隼雄は亡くなったが、私はこれからもくりかえし会って、その話をききたい。・・・・日本の文化を・・他の文化とつきあい、まじりあう場所として保つ工夫が、彼には残っていた。」とあります。

河合隼雄氏は、けっこう新聞・雑誌に連載をなさっておりました。
私は、その連載のひとつを切り抜いてとってあります。
「おはなし おはなし」という朝日新聞での連載でした。
毎回違う絵が描かれていて、それが遠藤彰子さん(安井賞をあとで受賞)の絵でした。
絵と文を、どちらもステキです。
あとで、単行本になった際には、その絵がもう再録されることなく、
残念。というか、切り抜いておいてよかった。と思いました。


さて、その「おはなし おはなし」のひとつに「下宿の溶鉱炉」と題した文があります。そこに「当時の私は、ともかく食物に金を使うのはもったいないと、決めてかかっていた。食べることはできる限り節約し、古本屋めぐりをして、本を買うことに心をくだいていた。欲しい本を見つけてもすぐに買えず、金がたまるまでは、見に行ってはまだあるぞと確かめる。とうとう金がたまって行くと、既に売れていた、などということもあった。
こんなふうに熱心になると、本を買うことに大きな意義を見いだすことになって、買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ。・・・」

こういう「買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ」という箇所に、自分としては、心当たりがあるので、うんうん、と強くうなずいてしまうのでした(今もかわらないなあ)。

さてっと、そのあとに鶴見俊輔氏の名前が登場しております。

「食物よりも書物をという私の態度に、兄は少しあきれているようであったが、ある時、『人文には、お前よりもっと凄いのがいるらしい』と感嘆しつつ教えてくれた。当時の動物学教室の生態学の人たちは人文科学研究所と関係が深く、そこでの噂を聞いてきたらしい。兄によると、『鶴見俊輔というのは、ロクにものも食べずに本ばかり読んでいる。そのうち、やせて死ぬんじやないかと心配』なほどだとのこと。・・・二人とも勉強しない点についてはよく自覚していたので、食物よりも書物で生きている新進気鋭の学者、鶴見俊輔という名前が心にきざみこまれた。人生はわからぬもので、以後三十年ほどもたって、その鶴見俊輔さんにお会いする機会に恵まれることになった。・・・ともかく『やせて死にそう』ではなかった。・・・・」


うん。この箇所を思い出したのは、
加藤秀俊著「わが師わが友」を読んでいるときでした。
こんな箇所がありました。

「わたしが人文科学研究所の助手になったころ、鶴見俊輔さんは西洋部の助教授であった。その鶴見研究所は、助手の大部屋のむかいがわにあった。」

そこで、加藤秀俊氏は、食べ物にまで言及しておりました。
というか、鶴見さんは噂のまとだったのかもしれませんね。

「・・デスクはさらにふしぎだった。ひき出しはほとんどが空っぽで、そこには、チーズや胡瓜がほうりこまれていた。鶴見さんは、こういう簡便食を、必要におうじてかじりながら勉強し、夜が更ければ、そのまま床にころがって寝てしまうのであるらしかった。つまり、鶴見さんにとって研究室は簡易宿泊所をも兼ねていたようなのである。だいたい、人文というところは、研究室で夜明かし、といった猛烈な伝統があり、あかるいうちに帰宅する若い研究者などは、用務員のおじさんたちから、ダメです、もっと勉強しなさい、と叱られたりすることもあったらしい。
鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに東京工大に移られたから、いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。・・・・」(p79~80)


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バカなことを。

2010-10-13 | 他生の縁
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社・C・BOOKS)に
人文の助手に入ってのことが書かれておりました。

「人文では、その職階のいかんを問わず、研究発表の義務があり、わたしも、入所して三カ月ほどたったとき、みずからの研究について、なにかを発表しなければならないことになった。」(p86)

どんな発表をしたのか?

「いまでもはっきりおぼえているけれども、そのさいしょの発表にあたって、わたしはE・フロムの『自由からの逃走』を材料にして、「国民性」研究の動向をのべ、日本人もまた、フロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっているのではないか、うんぬん、といったようなことをのべた。」

そのあとの先生方の質問の終りに今西錦司先生のコメントが印象深いのでした。
いったい、どんな指摘だったのか。

「そのとき、それまでずっと口をへの字にむすんでおられた今西先生が、おまえはものごとの順序を逆転している、とおっしゃった。フロムはフロムでよろしい。サド・マゾヒズムも結構だ。しかし、なにを根拠にそういうことを口走るのか。フロムは、どれだけの実証的事実をもっているのか、ましてや、日本人をそれに対比させるにあたって、おまえは、ひとつもその根拠になる事実をのべていないではないか、というのが今西先生からのコメントだったのである。・・・・・つづけて、おまえには、まず他人の学説にもとづく結論があり、その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論とおぼしきものを模索してゆくのが学問というものである。ばあいによっては、結論なんか、なくてもよろしい、これからは、事実だけを語れ――そういって、今西先生は、タバコに火をつけて、プイと横を向いてしまわれた。・・・・・わたしは、ただ首をうなだれるのみであった。そのわたしを、なかば慰め、なかば追い討ちをかけるように、藤岡喜愛さんが、まあ、そういうことでっしゃろな、ではこれで、と散会を宣してくれた。それでわたしは、その場を救われたのである。」


そのあとに、今西流学問のすさまじさが、語られております。

「この研究会の議論たるや、ものすごいのである。梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、・・・それぞれに頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、としかおもえないほど議論は白熱した。だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材に関しては、絶対的な信頼を置くというのである。一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいたものであることが多い。トインビーがこういっている、マルクスはこう書いている――そんなふうに、高名な学者や思想家の名前をひきあいに出せば、一般の日本人は感心する。しかし、そういう論法はこの研究会ではいっさい通用しなかった。トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんはカンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」


思い浮かべるのは、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)の最初の方に、和辻哲郎さんが登場する箇所でした。

小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。

  こう小山修三氏が話を向けると、梅棹忠夫氏は語ります。

梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ、『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】 そうや。どうして『風土』などと言っておきながら、ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを言うのか。どうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、整然たるものだと思い込んでいる。ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。そんなことが、現地を見ているはずなのに、どうして見えないのか。
小山】 見せかけにだまされているのですか。
梅棹】 見せかけにだまされるのならまだいい。それとはちがうな。あれは思い込みや。わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに行くところであって、調査に行くところとちがう』と。それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところかとうことを説得した。『あんた、ヨーロッパのちょっと田舎のことがどれだけわかってるのか』と問い詰めると、何も知らない。『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』とちがうか、それがわからない。・・・・(p26~27)




もう一度、加藤秀俊氏の本にもどって、先ほどのつづきを引用。

「フィールド経験は最高に信頼された。たとえば、アフリカの某地方に特定の植物が栽培されている、というフィールドからの報告があれば、たとえ他のあらゆる書物にその植物についての記載がなくても、書物よりも体験知のほうが尊重された。どこかに行って、そこで直接に知った事実――それがこの研究会でいちばんだいじなことだったのである。そして、それらの事実を土台にして、さまざまな仮説がつぎつぎにつくられていった。書物を読んでも出てこないような珍説・奇説がとび出した。1960年代におこなわれた宗教の比較人類学的研究などは、わたしにはいまも忘れることのできない教訓をふくんでいる。」(p88~89)

ついでなので、いま読んでいる対談「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(梅棹忠夫編著・NHK出版)から

司馬】 ・・・・それにしても、梅棹さんは何年も前からマルキシズムは崩壊すると言っていたでしょう。あんなこと言ってた人はほかにいません。どうしてああいう予感があったのか、そのへんから話してください。
梅棹】 わたしがそれを言いだしたのは1978年だったと思います。東ヨーロッパを旅行したんですよ。ユーゴ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコと歩いて、これはひょっとしたら、わたしの目の黒いうちに社会主義が全面的に崩壊するのを見ることができるかもしれんと言ったんです。なぜかというと、あのころで、東欧諸国は革命後30年以上たってるわけですね。ソ連は60年ぐらいたっていた。これがその成果かというぐらいひどいんですよ。いったい、社会主義になって何がよくなったんだ。何十年かかって、たったこれだけのことしか達成できなかったのか。これではだめだと・・・。
司馬】 同じころ日本社会党の代表も東独見学に行っていますが、人間というのはふしぎなものですな、おなじものをみて、このほうはすっかり東独びいきになって、日本は東独のようにやらないかんという新聞記事が出たのを覚えていますよ。
梅棹】 バカなことを。何も見えていない。
司馬】 ひとつに、招待されてる人と、それから一人の知識人が素足で歩いているのとの違いでしょう。・・・・・・
梅棹】 こっちは自分の金で行ってますからね(笑)。  (p41~42)
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三木富雄。

2010-10-12 | 他生の縁
南和男著「江戸のことわざ遊び」(平凡社新書)の「寝耳に水」の風刺画からの連想で、
ひさしぶりに、渋谷区松濤美術館の「特別展三木富雄」カタログを開いてみました。
いつもながら、展覧会には行けないので、カタログだけ送ってもらったものです。

さてっと、現物はないのに、写真だけが残っているというのがカタログに掲載されておりました。「翼の生えた耳」。年譜によると1976(昭和51)年38歳。「ニューヨークに滞在中は、粘土原型のままの耳はかなり作っている。そのなかで『翼の生えた耳』が最後に作られたが、これも鋳造されることなく破壊された。」とあります。
 
 両耳がつながっていて、その両耳から翼がもくもくと生えて、まるで蝶の羽化寸前のような感じに見えます。

三木富雄氏の言葉も考察のあいだに、引用されており、
たとえば、こんな箇所があります。


「友人の家で突然何メートルにも耳を拡大させるという、ふってわいたような思いにとりつかれた時、そのあまりにも『ばかばかしい』想像に興奮してしまった。
・・・帰りの国電の中で幾百の耳がぼくに襲いかかってくる錯覚をおぼえ恐怖を感じたことを覚えている。」

そういえば、「江戸のことわざ遊び」には、
「手わけする人」の風刺画がありました。
肘から手までの腕を、一本一本とりわけて、箱に選別しているタスキがけの町人風。いっぱいある腕を箱に取り分けているのでした。解説には「『長い手』は、盗癖を意味する。手わけをするのも大変。自分の器量以上に商いを広げすぎると、身を滅ぼす危険もある。」

うん。三木富雄の作品に、アルミニウムにプレスされたような耳だけが42個も整然と並んでいるのが、カタログをひらいていると、ありました。耳の標本箱のようでもあります。

そうそう。壁に耳あり、障子に目あり。なんてことばが思い浮かびます。
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白紙還元法。

2010-10-06 | 他生の縁
武良布枝著「ゲゲゲの女房」(実業之日本社)に、こんな箇所がありました。

「水木は、自分が子どものとき、眠たくてしょうがなかったという記憶が強かったせいか、子どもたちを『ムリに起こしてはいけない』というルールをつくっていました。眠たいときに、無理やり起こされるのが、子どものころ、本当に辛かったからだそうです。そのおかげで、うちの娘たちはふたりとも、小さいころは、くたくたとよく眠りました。
ただ、尚子が幼稚園に入ると、九時には幼稚園に連れて行かなくてはならなくなりました。ふだんはちゃんと起きる尚子がたまに寝すごしていたりすると、水木に見つからないように、私がそっと起こしました。万が一見つかってしまうと、滅多に怒らない水木が、これだけは譲れないという感じで『なんで、起こすんだ!』と大声を出してしまうからです。でも、そのルールは水木にだけ通用するもので、遅刻して幼稚園に行くというほうが、子どもにとてはかわいそうだと私は思いました。」(p158~159)


思い出してください。あの「鬼太郎の歌」

   ゲッゲッ、ゲゲゲのゲー
   朝は寝床で グーグーグー
   たのしいな たのしいな
   ・・・・・・・・


水木しげるを理解するには、まず、ここをクリアしなければ、水木ワールドへは入り込めないのかもしれませんですね。そのヒントを布枝さんが、語っていてくれたのでした。


なんで、こんな考えが浮かんだか(笑)。それは梅棹忠夫でした。
まずは、それを順をおって、たどってみたいのですが、
おつきあい願いますか?

「丁々発止」という鼎談が本になっておりました。
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の3人(かもがわ出版・1998年)
以前、鶴見俊輔・河合隼雄両氏への興味から読んだことがありました。
今回改めて、梅棹忠夫氏が、どう話しているのかという視点で、会話をたどってみました。興味深い本題は、ここではおいて置くことにして、私に気づいたことは、後半で、鶴見・河合両氏が、教育論に花を咲かせているところで、梅棹氏は黙って聞いているような感じを受けたのでした。その梅棹氏の立ち位置を語っている箇所
それは、鶴見氏が、ある女校長先生の泣きながらの挨拶を聞いて、鶴見氏なりの意見をひとしきり語ったあとでした。

梅棹】 日本の教育に、別のものが出てきていますかね。
鶴見】 うーん。難しい。
梅棹】 私は、日本の教育は動脈硬化になっていると思うんです。動脈硬化と言っていいのでしょうか。だいたい、こんなことを言うと申し訳ないけれど、私は教育には本当に興味がない(笑)。学校教育にはまったく興味がない。・・(p40)


最後の方にも、ちょっと出てきます。


梅棹】 自分の少年時代、学生時代を振り返って、ようつぶされなんだと思います。学校は休むし、遅刻はするし、先生のいうことは聞かないし、ずいぶん勝手な生徒だったと思う。
鶴見】それは関西だからでしょう(笑)。東京ならつぶされる。
梅棹】つぶされてるかもしれんね。ひどいめに遭ってたかもしれないかな。(p113)


「東京」といえば、「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)に
印象的な箇所。


小山】梅棹さんには常識がなかった(笑)。それは、そうですよね。丸山真男さんが京大に公演に来られたとき、途中で席立って出てしまって・・・・
梅棹】ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原(武夫)さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で偉いんやぞ」って(笑)実はあとでわたしは丸山真男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。(p183~184)


ここで、加藤秀俊氏の証言。
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社、C・BOOKS)に加藤氏がはじめて梅棹氏に会ったころのことが出てきます。

「大阪市大のころの梅棹さんについて、わたしはあまり多くのことを知らない。ただ、梅棹さんにとっては、学生相手の授業は、かならずしもたのしいものとはいえなかったようである。そのうえ、梅棹さんは、早起きのたちではない。深夜にいたって頭が冴え、昼間は眠っている、というのがそのリズムであったらしい。大阪まで通勤する京阪電車が、なぜ駅弁を売らないのであるか、といったような、きわめて無茶苦茶な梅棹見解もそのころきいた・・・・とにかく、梅棹さんは、論理構築の名人であった。その論理たるや、とりわけアルコールが入ると我田引水、牽強付会もいいところで、もうヤケクソとしかきこえないのだが、それにもかかわらず、説得力は強烈であって・・・せめてもの抵抗に、梅棹さんのおっしゃることは、自己合理化にすぎないのではないですか、といったら、梅棹さんはふしぎそうな顔をして、そらそうでっしゃろ、あらゆる理論は自己合理化や、マルクスかてそうやろ、理論ちゅうのは、そんなものや、と一蹴された。」(p83~84)


もうすこし加藤秀俊さんの紹介を引用しておきます。
鶴見俊輔氏が「わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。」とあります。
「それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。・・・」(p80~81)


え~とですね。「梅棹忠夫著作集第12巻」には、その「アマチュア思想家宣言」が掲載されております。そして、この第12巻の目次をみると、あれまあ、「遅刻論」というのが、ちゃんと掲載されておりました。5ページほどの文です。
そのはじまりの解説には、これが1968年の小学館「小五教育技術」の巻頭随筆として書かれたとありました。その文のはじまりは

「授業にしばしば遅刻してくる子がある。そういう遅刻常習者を、先生方はどういう風にあつかっておられるであろうか。じつは、わたし自身がそのような遅刻常習者であった。幼稚園から大学まで、わたしは遅刻しつづけてきた。いまでも会合などにはよく遅刻する。時間の関する約束だけは、厳密にまもることは、たいへんにが手なのである。」

さて、その論理の一部だけを引用するのは、ますますわからなくしてしまうおそれがあるのですが、ここはぜひ最後のほうを、ちょいと引用してみましょう。

「・・・・こうかんがえてくると、現代が遅刻ぎらいの時代であるということは、現代がひとつの病的時代であるということを意味する。現代人は一種の時間的潔癖症にかかり、あるいはまた、時間過敏症におちいっているのである。潔癖症といい、過敏症といい、いずれも、人生における、倒錯の一種であって、正常な状態ではない。現代という時代は、全体がそういう病患におかされた時代だということになる。
すると逆に、遅刻常習者は、現代においてその種の病患におかされていない健康な少数者ということになって、評価はまさに逆転することになるのだが、どうであろうか。
・・・・遅刻常習者というのは、じつは、そとからあたえられた時間よりも自分の内的時間のほうに忠実な人間というにすぎないことがおおい。そして、単純肉体労働ならしらず、知的労働あるいは創造的な仕事であるほど、外的時間の規制よりは、内的リズムにしたがうほうが生産性がたかいことがおおいのだ。・・・・」(p352~353)


何とも、勝手なことを語っているものです。ですが、ここで思い浮かぶのは、「梅棹忠夫語る」の「はじめに」の最初の箇所でした。

「梅棹さんは座談の名手だった。実にたくさんの対談や鼎談、共同討議が著されている。どんな話題であっても、するどく、興味深い発言をし、対談者が思わず引き込まれてしまう。とくに座の意見が散らばってしまったとき、最後にすっきりとまとめる力は、小松左京さんが『梅棹式白紙還元法』と驚いたほどだ。」(p3)

この『梅棹式白紙還元法』にも、遅刻が重要な鍵を握っている。
ということを、加藤秀俊氏が、なんとも遅刻の実際を証言しております。
ということで、ようやく最後の引用となります。

「参加者のすべては、まえにみたように一家言をもっており、めったに自説をゆずらなかったが、梅棹さんは、のちに小松左京さんが命名した『白紙還元法』の名人であった。つまり、はてしない議論がつづくなかで、梅棹さんは突如として、それまでの議論がぜんぶまちがいである、と論断し、すべてを白紙に戻して、梅棹見解で押しまくるのである。そのうえ、梅棹さんのこの『白紙還元法』はタイミングがよかった。通常、午後一時かころからはじまる研究会に、梅棹さんは、二時、三時と大幅に遅刻して出席なさる。夜型人間だから、いくら頑張っても、この時間でないと起きられないのだ。そして、研究会に出てきても、しばしば、コックリと居眠りをなさる。居眠りをなさりながらも、議論はきいている。だから始末がわるい。われわれがくたびれ果て、さあ、このへんでおわりにしようか、とおもいはじめる午後六時ごろ、梅棹さんは、にわかに目覚めて『白紙還元法』をなさるのである。通常の人間が眠くなる時間が梅棹さんの起床時間なのだから、研究会の時間帯からいって、勝敗はわかっている。われわれは、口惜しい思いをしながらも、梅棹説を承認せざるをえなくなる仕掛けになっていたらしいのであった。
この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、および京大探検部の出身者であった、ということだ。・・・・・探検部とかかわっていた人たちがしばしば口にする『団結、岩より固く、人情、紙より薄し』というスローガンも、さいしょは唐突に感じたけれど、何年かつきあっているうちに、だんだん理解できるようになってきた。要するに、共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、『人情』というものではいっさいうごかされない、というのがその趣旨なのである。・・・・・そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ――そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。・・・・」(p89~91・加藤秀俊著「わが師わが友」)

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