本を読んでいると、枝葉をたどるように、文中の関連本に興味をもちます。というのも、それらが簡単にネットで古本注文できる(しかも安いと、拍車がかかる)。もっとも、私の場合たいてい枝葉への興味で、幹へはもどらない。そうこうしていると、手をのばせばのばすほど短時間に興味がかすれて拡散霧散。ようするに摘み食いの弊害であります。さて、この性格的弊害をどう矯正してゆくかが、このブログの主調低音でもありまして、書きながらの自己診断。ちょっと最近は主食をおろそかにして、お菓子類ばかり食べてるのじゃないかとか。ご飯をよく噛んで食べずに、やたら早く飲み込みすぎているとか。書きながらだと、浮かび上がってくるのでした。
なんで、こんな風にかいているのだろう。
まったく、わかりにくいなあ(笑)。
それで、昨日おもったこと。
山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り 開高健」(KKロングセラーズ)のはじまりは、「マスコミ雑感」という5ページほどの文からでした。
そのはじまりは、
「創作するかたわら、私は《洋酒天国》という、いわゆる《PR雑誌》を編集している。・・この種の日本における趣味雑誌・PR雑誌は、とくにそのうち味覚に関係のあるものは、たいてい鶴屋八幡の《あまカラ》のエピゴーネンである。私はデザイナーの友人といっしょに仕事をはじめるについて、断じてこの《あまカラ臭》を排除する方針をたてた。《あまカラ》の独創性をみとめるのに私はけっしてやぶさかではないが、人のやったあとをまねするほどバカげたことはない。そこで私たちはチャチなエキゾティシズムを動員し、バター臭さとキザを、レイアウトと紙質と印刷を凝ることでカバーすることに方針を定めた。・・・・」
これが、1ページ目にあったわけです。
それ以降を読むのもほどほどにして、ここに繰返されている言葉《あまカラ》へと興味は移るわけです。さいわい高田宏編「『あまカラ』抄」というのが冨山房百科文庫から3巻本として出ております。解題として高田宏氏がその文庫に書いております。
「『あまカラ』という小さな雑誌があった。昭和26年(1951年)八月に創刊されて17年間、毎月20篇前後の食べものエッセーを掲載し、昭和43年(1968年)4月の200号と翌月の続200号で終刊となった。」こう高田宏氏ははじめております。
冨山房百科文庫の3巻は、どう編まれているかも高田氏の編者の自由裁量を語っております。まずは一人一文でとりあげたこと。第一巻は作家篇・二巻目は学者・評論家篇。三巻目は2冊目でとりあげなかった緒家篇。という仕分けでした。
その「あまカラ」の一巻目の最初の文を、高田宏氏は幸田文「火」からはじめ、一巻目の最後は司馬遼太郎「粗食」で終わっておりました。途中には開高健の文もあります。私は最初と最後の文を読んで満腹。もうそれ以外は読む気がおこりませんでした。じつは、この冨山房百科文庫の三冊は、だいぶ以前に買ってもっておりました。そのときも、第一巻の解題と幸田文・司馬遼太郎の文を読んでお終いにしていた経緯があります。今度も同じパターン。
(そういえば、今年はなんとか幸田文を読もうとおもっていたことを思い出しました。)
こういうのを、辞書読みというのかなあ。とにかくも開いてパッパと読みたいところを読む。辞書は全文を読まないように、最初から全文読破を目ざさない。ということならと、自分の本とのつきあいかたの舵もとりやすい。
う~ん、辞書をひらいたら、また本文へともどる。この約束を守っていけば、一冊読めるかもしれないなあ。なんせ私は一冊読みとおせない(笑)。それが最近やっと、それでもいいんだと思うようになってきました。新書など、最初から読むと疲れる。後ろから読んだり、途中から読んだりするほうが面白い。もっとも、最初からワクワクしながら読む本もある。けれども私は、言葉につまずいて、それ以降を読みとおせなくなることがおうおうにしてある。そうならば、最初から順番に読む必要など、はなから気にしなくてもよいのだろうと、まずは自分に納得させる自己流読書術だったりします。
なんで、こんな風にかいているのだろう。
まったく、わかりにくいなあ(笑)。
それで、昨日おもったこと。
山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り 開高健」(KKロングセラーズ)のはじまりは、「マスコミ雑感」という5ページほどの文からでした。
そのはじまりは、
「創作するかたわら、私は《洋酒天国》という、いわゆる《PR雑誌》を編集している。・・この種の日本における趣味雑誌・PR雑誌は、とくにそのうち味覚に関係のあるものは、たいてい鶴屋八幡の《あまカラ》のエピゴーネンである。私はデザイナーの友人といっしょに仕事をはじめるについて、断じてこの《あまカラ臭》を排除する方針をたてた。《あまカラ》の独創性をみとめるのに私はけっしてやぶさかではないが、人のやったあとをまねするほどバカげたことはない。そこで私たちはチャチなエキゾティシズムを動員し、バター臭さとキザを、レイアウトと紙質と印刷を凝ることでカバーすることに方針を定めた。・・・・」
これが、1ページ目にあったわけです。
それ以降を読むのもほどほどにして、ここに繰返されている言葉《あまカラ》へと興味は移るわけです。さいわい高田宏編「『あまカラ』抄」というのが冨山房百科文庫から3巻本として出ております。解題として高田宏氏がその文庫に書いております。
「『あまカラ』という小さな雑誌があった。昭和26年(1951年)八月に創刊されて17年間、毎月20篇前後の食べものエッセーを掲載し、昭和43年(1968年)4月の200号と翌月の続200号で終刊となった。」こう高田宏氏ははじめております。
冨山房百科文庫の3巻は、どう編まれているかも高田氏の編者の自由裁量を語っております。まずは一人一文でとりあげたこと。第一巻は作家篇・二巻目は学者・評論家篇。三巻目は2冊目でとりあげなかった緒家篇。という仕分けでした。
その「あまカラ」の一巻目の最初の文を、高田宏氏は幸田文「火」からはじめ、一巻目の最後は司馬遼太郎「粗食」で終わっておりました。途中には開高健の文もあります。私は最初と最後の文を読んで満腹。もうそれ以外は読む気がおこりませんでした。じつは、この冨山房百科文庫の三冊は、だいぶ以前に買ってもっておりました。そのときも、第一巻の解題と幸田文・司馬遼太郎の文を読んでお終いにしていた経緯があります。今度も同じパターン。
(そういえば、今年はなんとか幸田文を読もうとおもっていたことを思い出しました。)
こういうのを、辞書読みというのかなあ。とにかくも開いてパッパと読みたいところを読む。辞書は全文を読まないように、最初から全文読破を目ざさない。ということならと、自分の本とのつきあいかたの舵もとりやすい。
う~ん、辞書をひらいたら、また本文へともどる。この約束を守っていけば、一冊読めるかもしれないなあ。なんせ私は一冊読みとおせない(笑)。それが最近やっと、それでもいいんだと思うようになってきました。新書など、最初から読むと疲れる。後ろから読んだり、途中から読んだりするほうが面白い。もっとも、最初からワクワクしながら読む本もある。けれども私は、言葉につまずいて、それ以降を読みとおせなくなることがおうおうにしてある。そうならば、最初から順番に読む必要など、はなから気にしなくてもよいのだろうと、まずは自分に納得させる自己流読書術だったりします。