和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一滴の光り。

2009-11-01 | 幸田文
本を読んでいると、枝葉をたどるように、文中の関連本に興味をもちます。というのも、それらが簡単にネットで古本注文できる(しかも安いと、拍車がかかる)。もっとも、私の場合たいてい枝葉への興味で、幹へはもどらない。そうこうしていると、手をのばせばのばすほど短時間に興味がかすれて拡散霧散。ようするに摘み食いの弊害であります。さて、この性格的弊害をどう矯正してゆくかが、このブログの主調低音でもありまして、書きながらの自己診断。ちょっと最近は主食をおろそかにして、お菓子類ばかり食べてるのじゃないかとか。ご飯をよく噛んで食べずに、やたら早く飲み込みすぎているとか。書きながらだと、浮かび上がってくるのでした。

なんで、こんな風にかいているのだろう。
まったく、わかりにくいなあ(笑)。
それで、昨日おもったこと。


山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り 開高健」(KKロングセラーズ)のはじまりは、「マスコミ雑感」という5ページほどの文からでした。
そのはじまりは、

「創作するかたわら、私は《洋酒天国》という、いわゆる《PR雑誌》を編集している。・・この種の日本における趣味雑誌・PR雑誌は、とくにそのうち味覚に関係のあるものは、たいてい鶴屋八幡の《あまカラ》のエピゴーネンである。私はデザイナーの友人といっしょに仕事をはじめるについて、断じてこの《あまカラ臭》を排除する方針をたてた。《あまカラ》の独創性をみとめるのに私はけっしてやぶさかではないが、人のやったあとをまねするほどバカげたことはない。そこで私たちはチャチなエキゾティシズムを動員し、バター臭さとキザを、レイアウトと紙質と印刷を凝ることでカバーすることに方針を定めた。・・・・」

これが、1ページ目にあったわけです。
それ以降を読むのもほどほどにして、ここに繰返されている言葉《あまカラ》へと興味は移るわけです。さいわい高田宏編「『あまカラ』抄」というのが冨山房百科文庫から3巻本として出ております。解題として高田宏氏がその文庫に書いております。

「『あまカラ』という小さな雑誌があった。昭和26年(1951年)八月に創刊されて17年間、毎月20篇前後の食べものエッセーを掲載し、昭和43年(1968年)4月の200号と翌月の続200号で終刊となった。」こう高田宏氏ははじめております。

冨山房百科文庫の3巻は、どう編まれているかも高田氏の編者の自由裁量を語っております。まずは一人一文でとりあげたこと。第一巻は作家篇・二巻目は学者・評論家篇。三巻目は2冊目でとりあげなかった緒家篇。という仕分けでした。

その「あまカラ」の一巻目の最初の文を、高田宏氏は幸田文「火」からはじめ、一巻目の最後は司馬遼太郎「粗食」で終わっておりました。途中には開高健の文もあります。私は最初と最後の文を読んで満腹。もうそれ以外は読む気がおこりませんでした。じつは、この冨山房百科文庫の三冊は、だいぶ以前に買ってもっておりました。そのときも、第一巻の解題と幸田文・司馬遼太郎の文を読んでお終いにしていた経緯があります。今度も同じパターン。

(そういえば、今年はなんとか幸田文を読もうとおもっていたことを思い出しました。)

こういうのを、辞書読みというのかなあ。とにかくも開いてパッパと読みたいところを読む。辞書は全文を読まないように、最初から全文読破を目ざさない。ということならと、自分の本とのつきあいかたの舵もとりやすい。
う~ん、辞書をひらいたら、また本文へともどる。この約束を守っていけば、一冊読めるかもしれないなあ。なんせ私は一冊読みとおせない(笑)。それが最近やっと、それでもいいんだと思うようになってきました。新書など、最初から読むと疲れる。後ろから読んだり、途中から読んだりするほうが面白い。もっとも、最初からワクワクしながら読む本もある。けれども私は、言葉につまずいて、それ以降を読みとおせなくなることがおうおうにしてある。そうならば、最初から順番に読む必要など、はなから気にしなくてもよいのだろうと、まずは自分に納得させる自己流読書術だったりします。
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太郎坊。

2009-10-05 | 幸田文
徳岡孝夫著「舌づくし」を、あちこち摘み食いみたいに拾い読みして、さて、あとは、未読の箇所を、パラパラと探し読み。すると、「夏の夕べの『太郎坊』」と題する一文を、まだ読んでなかった。読み始めると、ああ、そうそうと思いあたるのでした。

雑誌「諸君!」2007年10月号の特集に
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」という特集がありました。脇にちいさく「読み巧者108人の『オールタイム・ベスト3』」とあります。そこに徳岡孝夫氏が並べていた3冊というのが、
  鴨長明『方丈記』 
  森鴎外『渋江抽斎』
  幸田露伴『太郎坊』
その『太郎坊』について、徳岡氏は
「三十分あれば読める短編小説だが、読めば死ぬまで忘れないだろう。主人(あるじ)と細君とあるだけで、登場人物には名すらない。ある夏の夕方、晩酌の間に起きる出来事・・・」

『舌づくし』には、その「太郎坊」の内容を丁寧に紹介しております。
そこいらをすこし引用。

「いまから百年ほど前の夏の夕方、男は仕事から帰るとまず着替え、尻端折(しりはしょ)りして裸足で庭に出、木に打ち水をした。暮れてゆく空に、コウモリがひらひら舞っていた。・・・台所からはコトコトと音がする。・・やがて打ち水が終わった。主人は足を洗って下駄をはく。ひとわたり生気の甦った庭を眺め」
  こうして手拭いとシャボンと湯銭を持って銭湯へ
「彼はじきに茹で蛸になって帰ってくる。・・掃除の済んだ縁側には、花ござが敷いてある。腰かけて煙草に火をつけ、一服する。・・・縁側のほどよい位置に吊るした岐阜提灯が、やわらかい光を投げている。夏の夕方は、ゆっくり暮れてゆく。庭の桐の木やヒバの葉からは、さっき打った水が滴り落ちている。微風が庭を渡る。
細君は黒塗りの小さいお膳を持って出て、夫の前に置く。出雲焼の燗徳利と猪口が一つ、肴はありふれた鯵の塩焼だが、穂蓼をちょっと添えたのが女房の心意気というところだろう。細君は酌をしながら言う。『さぞお疲労(くたびれ)でしたろう』・・・」


ここで私が思い浮かんだのは、1983年の文藝春秋臨時増刊「向田邦子ふたたび」でした。そこに山口瞳氏が「向田邦子は戦友だった」という文があり、その最後の方に、こうあったのでした。

「しかし、向田邦子にはわかっていないこともたくさんあった。・・・・
『宅次は勤めが終ると真直ぐうちへ帰り、縁側に坐って一服やりながら庭を眺めるのが毎日のきまりになっていた。』(かわうそ)というのもおかしい。会社から家まで一時間半。田舎の町役場に勤めているならいざしらず、ふつう、小心者の文書課長である夫は暗くなってから帰宅するはずである。
『あら、そう・・・』どのときも彼女は笑って聞き流していた。」(p10)

ここにある宅次の「毎日のきまり」というのは、
「太郎坊」の「主人(あるじ)」と同じではないか。


徳岡孝夫氏は「舌づくし」のなかで、幸田露伴の「太郎坊」を「私が深く愛する作品である」(p127)と書いておりました。
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箸にも棒にも。

2009-10-03 | 幸田文
徳岡孝夫著「舌づくし」を読んでいるところ、
なかなか、読みすすめません。

気ままに、いろいろなページを開いたところから、読み始めてます。
新聞記者の職人とも形容したい徳岡孝夫氏です。

「皇居に一番近いラーメン屋」と題した文にはこうあります。

「新聞社は、全国に取材網を張りめぐらす大組織で、組織であれば必ず官僚的な一面がある。同期入社の友人は、どんどん部長その他の管理職へと昇進していく。私はまもなく自分にも取材の現場を離れ、管理職になる番が回ってくる気配を感じ、こりゃ大変だと思った。ここが男の覚悟のしどころだと、見極めをつけた。
新聞記者になったのは、取材して原稿を書いてそれが活字になるのが面白いからだ。記事と縁のない部長課長にされては敵わない。日本語で書けないなら、よし英語で原稿を書いてやろう。そう決心して『英文毎日』の編集部へ行き、雇ってくれと申し出た。・・・『来たけりゃ来てもええけど、校閲からやってもらわなアカンよ』大阪人Fさんは、微笑して言った。」
「敵性語を禁止したはずの戦時日本で、御存知あるまいが一日も休まず英字新聞が二紙、弾圧もされずに発行を続けたのである。それは『ニッポン・タイムズ』と『英文毎日(ザ・マイニチ)』で、前者は戦後『ジャパン・タイムズ』と改称した。私は後者の記者として四、五年間働いたことがある。自分から希望して行った職場だった。」(p267)
「英字新聞の記者の給料は安い。新聞社の中の傍流だからか、超過勤務手当が少ないからか、とにかく週刊誌編集部から移った最初の月末、妻は給料袋を開けて蒼くなった。我が家には、食べ盛りの子が二人いるのである。三十年超の給料生活中、ただの一度も給与明細というものを点検したことのなかった私だが、女房の心配は他人事ではない。勤務の合間に一心不乱に日本語で本を書き、翻訳をした。妻は一度も愚痴をこぼさなかったが、家計逼迫はひしひしと伝わる・・・」(p271)

「紳士と淑女」という匿名コラムの作者であり、新聞記者だった徳岡孝夫氏が、ここでは等身大のご自身が登場しているのですから、そそくさと読み進めるのはもったいない限り。

そう、この「舌づくし」の真骨頂は、さりげない、こんな箇所でしょうか

「グルメは味と店を覚えるが、私を含む一般の人間は覚えない。全く味音痴でない証拠に、旨いものを食えば『ああ、おいしかった』と満足する。だがその店をいちいち覚えないのは、世の中に覚えるべき大切なことが他に山ほどあるからだ。
私は旨い店やその所在地より、一緒の食事した人や食事中の会話のほうを覚える。気分のよかった店では出がけにマッチをもらうが、じきにどこかに置き忘れ、店の名さえ忘れるともなく忘れてしまう。それが普通なんじゃないだろうか。」(p218)

その前のページは
「かわいそうに、職人の態度のデカいのと新聞記者の威張るのとは、箸にも棒にもかからないことを知らないのだろう。」
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あじわう前に。

2009-10-02 | 幸田文

徳岡孝夫著「舌づくし」を開きなが思うのでした。
こりゃ、簡単に読んじゃもったいない。

以下は、その経緯説明。
徳岡孝夫氏が「ぼんやりしか原稿用紙が見えなくなって」どう思ったか。

「このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
世間には随筆を書いて知られる人がいる。評論、小説を書いて暮している人もいる。だが私は、随筆を書いて生計を立てるほど文章が上手ではない。そもそも味で読ませる文章など、ジャーナリストにとっては邪道であり、私はそういうものを書くような訓練を受けていない。・・・・文章がない、教養がない、語るべき自己がない。ただし書くことだけは、三十余年ずっと馴れてきた作業だから、・・・」(p46~47・「薄明の淵に落ちて」)


その徳岡氏が味で読ませる「舌づくし」を書いたわけなのです。
その味わいは、ゆっくりと。すぐに感想を述べるのは申しわけない。
さてっと、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」の本の最後には「遺された言葉」という
K氏の亡くなる最晩年の様子が描かれておりました。
こりゃ「舌づくし」の伏線になる文章でもありますから、
どうぞお付き合いください。

「K氏の最後のバンコク旅行・・彼は東京都内の専門病院で放射線治療や化学療法や、あらゆる手を打ったあと見放された患者だった。あとは体力維持のため自宅に近いF市の病院で点滴を受けるだけで、それもまもなく自宅からの通院になり、『好きなものは何でも食べさせてあげなさい』という段階だった。・・・バンコクに旅行中から、料理はすでにK氏の喉を通らなくなっていた。それでも、行く先々のタイ料理でテーブルに載り切らないほどの料理を注文し、夫人や息子にさあ食べろ、もっと食べろと強請したという。・・・K氏が盗んで帰ったメニュは、タイ語の知識なしには読めないものだった。そして、それを読解する能力は、彼が生涯を賭けて得たものである。さあ思う存分に駆使して働こうと期していた矢先の発病だった。・・・・」

ここで徳岡氏はイエスの最後の晩餐を語っております。

「過越の食事をするために、イエスは十二人の弟子を連れてエルサレムに行き、一軒の家に入った。そして食卓について、言った。
『私は苦しみを受ける前に、お前たちと一緒にこの食事をすることを切に望んでいた』
それに続く言葉は、全世界のカトリック教徒が今日もなお毎日のミサの中で唱えている。イエスはパンを取り、賛美を捧げてからこれを手で分け、弟子たちに与えて言った。
『取って食べなさい。これは私の体である』
また杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて言った。
『この杯から飲みなさい。これは私の血である』
これが最後の晩餐である。このあと、彼はゲッセマネに行き、ひとり地に伏して祈り『神の思し召しのままに』と死を受けいれた。・・・・」

さらに、徳岡氏は2頁ほどあとには、日本の例をひいておりました。

「日航ジャンボ機が操縦不能に陥ってからダッチロールして御巣鷹山に墜落するまでの間、乗客の何人かは激しく揺れる機内で遺書をしたためた。その中で最も深い感銘を与えたのは神奈川県藤沢市に住む船舶会社の支店長の走り書きだった。手帳七ページに一男二女の名を列記し『どうか仲良くがんばってママをたすけてくれ』、また妻には『子供達のことをよろしくたのむ』と書いたメッセージには『きのうみんなと食事したのは(が)最后とは』という一節があった。」
もう一つは東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取り、メキシコでの活躍をきたいされていた円谷幸吉選手の書置きを引用しております。



さて、徳岡孝夫氏の「舌づくし」を、ゆっくりと味わいたいと思います。
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味をうんぬん。

2009-10-01 | 幸田文
徳岡孝夫氏の文「深い淵に落ちて」が雑誌掲載されたのが昭和61年。
その文章のはじまりは「いまでは五年もの昔になった」と手術のことを回想しております。
ということは昭和56年(1981年)に、もう徳岡氏は薄明の世界に生きておられたことになります。
最近の著作である
「舌づくし」(2001年)
「ニュース一人旅」(2008年)
に出版されておりますから、もう、ほとんど見えない世界で、この本はかかれたことになります。
きょう「舌づくし」が古本屋から届きました。
季刊誌「四季の味」に連載されたものをまとめた一冊とあります。
あとがきから、すこし引用。

「寄稿者は吊ってある梵鐘で、放っておけば物音ひとつ立てないが、編集者に撞かれることにより鐘それなりの音を出す。食べ物に無趣味無風流だし、もともと鋳造が悪いからロクな音色は出せないが、吉村さんに撞かれて私は年に四度、聞き苦しい音を出すことになった。」

あれっと思ったのは、幸田露伴の名前が出てくるのでした。そこも引用。

「幸田露伴は、料理の味を云々するのは『空に向かって花の香りを説明するようなもの』だと書いている。八年間の春夏秋冬、私はその不可能事を試みた。」


うん。この「舌づくし」を読んだら、また幸田文を読み始めよう。
では。この「舌づくし」を、たのしみに味わいたいと思います。
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勝っつぁん

2009-09-14 | 幸田文
季刊秋号文藝春秋special「賢者は歴史から学ぶ」。
この雑誌、近所の本屋に寄った時、つい買ってしまいました。
こういう雑誌は、何かひとつ印象に残る文が見つかればよいと、
そう私は思っております。
というか、隅から隅まで読むことが覚束ない。
ところで、ここに中島誠之助氏の「勝海舟から受け継いだ江戸弁」という文が読めました(p40~42)。
平成5年に統廃合して、今はない港区立氷川小学校を卒業した中島氏は、その小学校校歌の引用からはじめておりました。

「  英傑海舟住みにしところ
   我等が学舎ぞ厳(いか)しく立てる  」

こうしてはじまる文の最後は、こうでした。

「私の江戸弁は勝っつぁんの氷川清話の語り口から受け継いでいる。勝っつぁんはなんてったって小気味いいんだ。私の父方の祖母は土井半兵衛という御家人の娘で、浅草の善照寺には嘉永四年建立の先祖の墓がある。お袋は浅草のパン屋の娘で小町といわれた美人だ。だからきっと、私(あたし)の体にゃあ勝っつぁんと同じ血が流れているに違げぇねぇんだ。」


ちなみに、中島誠之助は昭和13年(1938年)、東京市赤坂区青山高樹町生まれ。
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明治37年東京府。

2009-09-06 | 幸田文
幸田文・・明治37年(1904年)南葛飾生まれ。現・墨田区東向島
辰巳浜子・・明治37年(1904年)東京・神田生まれ。
清水幾太郎・明治40年(1907年)日本橋生まれ。
安藤鶴夫・・明治41年(1908年)浅草生まれ。
山本夏彦・・大正4年(1915年)下谷根岸生まれ。
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キュウリ。

2009-09-05 | 幸田文
司馬遼太郎著「風塵抄」に、28「表現法と胡瓜」という文あり。

昨日、なめこ味噌汁をとりあげたので、きょうは胡瓜(笑)。

司馬さんの文の最後の方に黄色い胡瓜について、
「戦国末期ぐらいまでの日本は、胡瓜は黄に熟れてから食べたらしいのである。
当時、滞日したイエズス会士ルイス・フロイス(1532~97)というポルトガル人の宣教師が、その文章のなかで、【胡瓜はヨーロッパでは未熟の青いのを食べるのだが、どういうわけか、この国では黄に塾してから食べる】とくびをひねっている。」
とあります。そしてそのあとに、

「・・・・江戸時代になると、青いままで食べるようになった。その証拠がある。胡瓜は、夏の季題である。いまとはちがい、胡瓜のシュンはみじかく、これが出はじめると八百屋の店先が黄でなくみどり色であふれた。以下は、辞典で知った当時の俳諧だが、

    胡瓜いでて市(いち)四五日のみどりかな

という句があるそうである。胡瓜の青さの寿命はみじかい。・・・」


司馬さんの文の中頃には、こうもあります。

「中国の現代史で、プロレタリア文化大革命というのは、毛沢東が演じた病的な政治現象だった。このため中国の発達は五十年遅れた、といわれている。
その時期の最後のころ、私は中国に行った。場所は中国領シルク・ロードのあたりである。そばに、タクラマカン大沙漠がひろがっていて、うっかりこの沙漠に水なしでまぎれこむと、人間がスルメのように乾いてしまうのである。なにしろタクラマカンとは【入ると出られない】(ウィグル語)という意味がある。ところで、そのむこうに、中ソ国境がある。
『この間も、ソ連からきたスパイをつかまえました』
と土地の共産党幹部がいった。スパイというのは、ウィグル人の老人とその孫の少年で、この二人は沙漠をこえてきた、とその幹部がいう。どこかとぼけた話なのだが、スパイである証拠は、胡瓜だという。袋に食べのこしの胡瓜が入っていたというのである。右はプロ文革当時の思い出の一つである。それはさておき、沙漠の旅の必携品は、胡瓜であることをこのとき知った。胡瓜が水筒がわりになる。
胡というのは、中国人が古来、周辺の異民族全体に対してそうよんだ。胡という語感に、デタラメとかトリトメナイというひびきが古来あり、いまでも中国語で、フーホワ(胡話)といえばたわごと、フーイヤン(胡言)といえばでたらめ話という意味になる。」


河童に胡瓜という連想が、おもわずはたらきました。

さて、司馬さんの文のはじめが、魅力がありました。
こんな箇所があります。

「・・この欄に書くべきことを思いつかぬままテレビをつけると、
『酢の物は、歯ぎれがかんじんです』
と、まことに本質を射ぬいたことばが、とびこんできた。
土井勝さんの料理の時間だった。
私は料理がわからないものの、
この人の表現力には、毎度感心する。
たれにとっても、表現は本質的であるほうがいい。
それに、短ければ短いほど、ことばというものは光を増すのである。
さらには、論理に密着しつつ、感覚的であるほうがいい。
右の場合、歯ごたえまで感じられそうである。」

ついつい、おもしろくて後ろから前へと引用してしまいました。
料理と表現。
というのは、なにやら面白そうだなあ。
幸田文からはじまって、台所・料理と結んでゆくと
なにやらアンソロジーができそうな気がするのでした。
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なめこ味噌汁。

2009-09-04 | 幸田文
幸田文は、1904年(明治37年)生まれ。
辰巳浜子は、1904年の東京・神田生まれ。

ところで、
8月の最終週に、なめこ味噌汁を食べました。
なめこ1パック100円。う~ん。最近食べたことがなかった。
また、家族で食べる、なめこ味噌汁は格別。

え~と、
辰巳浜子著「みその本 みその料理」(文化出版局)が
最近(2009年5月)、再構成されて出版されておりました。
昭和47年に出た本です。

そこに、こんな箇所がありました。

「日本に長く生活しておられる外人の中には、みそ汁が大好きで、しじみの赤出しや、なめこと豆腐汁をすばらしいすばらしいと言われる人が大勢います。天然醸造品ならばこそです。」(p23)


ちなみに、辰巳浜子氏は1904~1977(昭和52)年。73歳で亡くなっております。
「まだ初期のNHKテレビ【きょうの料理】などに登場し、料理研究家のさきがけとされる」とあります。

う~ん。なめこの味噌汁。



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なアに自分は自分。

2009-09-01 | 幸田文
KAWADE道の手帖シリーズの「安藤鶴夫」(河出書房新社)。
そこに「安藤鶴夫単行本未収録コレクション」と銘打って、その最初に「落語三題」という文が載っておりました。そこにこんな文がある。

「・・・【鰍沢】といえば、ぼくなどでさえ聞いたこともない亡き三遊亭円喬をすぐ思い出すほど、たいした鰍沢だったらしいが、円生は三越の舞台で、子供時代に円喬の鰍沢を聞いて、時分もこんな落語家になりたいなと思ったという話をマクラに振って、しかし円喬は円喬、自分は自分、なアに円喬なんか糞オ食えという気がなくては、とてもこんなうるさ方の客ばかりの三越名人会なんかで鰍沢などやれるものではないと、そんなことをいって笑わせたり、また自分の気を楽にして芸にかかるといった一種の構えからばかりではなしに、多少の真剣味を持って、そんなマクラを振っていた。
なる程、御尤もである。
結局、ぼく自身のことにしても、あれだけ立派な仕事を他人(ひと)様がしているのだから、なにを今更ら自分なんかがと思ったひには、一言半句、ものなど書いてはいられないことになる。
他人のいいことを十分に認めて、その上でまたなアに自分は自分という気構がなくては、一日だって生きてはいけないことになる。」(p24)


うんうん。安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」を読んでいると、落語を文字に書きかえているわけなのですが、たしかに「なアに自分は自分」といっている安藤鶴夫が、この本にはいるのがわかるのでした。

ついでに、
この冊子には大佛次郎氏の文が載っているので、それも引用。
安藤鶴夫作品集1の月報に載った文だとあります。
題は「安鶴さんと『苦楽』」。
「苦楽」とは昭和21年11月創刊~24年7月終刊の雑誌。

「・・・戦後文学史に『苦楽』の名が出たのを見たことがない。三号で消えた新しい同人雑誌のことは書いてあっても、新しい運動でないから『苦楽』を見なかったのだろう。古い日本の残照だった老大家の落着きはらった仕事が、どれだけ戦後の日本人の感情の渇を癒したことか、私は現在も自慢に思っているくらいである。・・・少し雑誌の調子が硬くなったから、柔くしようと云うので、私は落語を連載することを思立った。これも、実際に滅亡しようとしていたのだし、江戸から明治にかけての口話文、特に下町の言葉として、早く正確に保存の道を考えたいとの頭もあった。現在のような落語の繁昌を考えられず、また今日のようにまだ落語が悪く崩れない時代だったので、東京の言葉をとらえることが、まだ出来た。昔の速記の形式でなく、音や語調を文字に出せるものならと、須貝君に誰がよかろうと相談したら、東京新聞にいる安藤さんですねと云う返事、私もあのひとかと思っていたところで、早速安藤さんに頼んで桂文楽の話したままを筆に写して貰って連載・・・
安藤さんの落語鑑賞は、古い速記の上に出るもので、現在でも貴重だが、後世になるほど国文学者も注意しなければなるまい。書いた文章と違って、話言葉は、口うつしより外、残らない。途中で消えたり訛って便利一辺に変化して毀れて仕舞うのである。安藤さんは実に身を空しくして、慎重に注意深く聞き、それを文章にどう書くかに苦労した。・・・・安藤さんは他の人間では真似出来ぬ好い仕事をいろいろと遺して行ってくれたので、有難い。」(p59~60)


ということで、古本屋からは今だ返事がこないけれど、
安藤鶴夫作品集全6巻を注文しておいたのでした。

ちなみに、
幸田文は、明治37年・1904年の南葛飾生まれ。
安藤鶴夫は、明治41年・1908年の浅草生まれ。
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落語の入口。

2009-08-31 | 幸田文
落語を読みたいと思っておりました。
ところが、どれを読んでよいのやら、素人にはわからない。
ヘタに手に取ったりすると、落語の解説書だったりします。
いけない。いけない。
ということで、落語の入口がどこにあるのか。
横着にも、探しもせず、読みもせずにおりました。

するッテェと、ある書評が目にはいりました。
ありがたいですね。書評というのは、入口はここですョ、
と手を振ってくれている。
あとは、ハ~イと云って、その手を振る方へと出かければよいわけです。

その呼び込みの口上が、これまたいい。
ひとつ引用したくなります。

「安藤鶴夫は、劇評家である、直木賞も受賞した作家であるが、数多い仕事のなかでも、この『落語鑑賞』が小説などよりずっといい。いや一流の文学だと思っていた私はいま文庫化された『わが落語鑑賞』を手にとって昔の感動がよみがえってくるのを覚えた。それは事実。しかし私がホロリとしたのは、そんな感傷でも懐古趣味でもなかった。そこにはレッキとした理由がある。
まず第一にここに描かれた市井の人たちが、いかにもひたむきに生きていたからであり、第二にそれを語る名人たちの芸道一筋にかけた姿があざやかだったからであり、そして第三は、この仕事にうち込む安藤鶴夫の文章家としての覚悟が人の胸をうったからであった。」

「そう、これは単なる高座『見たまま、聞いたまま』ではない。むろんモトがなければ不可能だが、そのことを前提にして、これはほとんど創作。なまじの小説とは違う、文学としての質の高い仕事であった。それに安藤鶴夫は片言隻句、言葉のこまかいニュアンスに実に厳格だった。目の前の噺を書き取る困難さの上にこの厳格さ。この苦労が一人の人間を文章家にした。」

これが、毎日新聞2009年8月23日の書評欄に載っていたのです。
評者は渡辺保。
河出文庫・安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(1260円)の書評なのです。

ということで、私は古本を、購入。
古本は、ちくま文庫「わが落語鑑賞」で680円。
さっそく読みました。内容は。天下一品。
私は、こういう本を読みたかった。と読みながら思っておりました。
あとには、福原麟太郎氏の「『わが落語鑑賞』に寄せて」が載っておりました。
そういえば、ネット検索で安藤鶴夫作品集の監修者のひとりに福原麟太郎氏の名前がある。

ちなみに、KAWADE道の手帖。「誕生100年記念特集」とある「安藤鶴夫」(河出書房新社)には、幸田文との対談があったりします。

うん。福原麟太郎氏の文のはじまりも、チラッと引用して終わります。

「安藤さんから電話がかかって来て、(手紙であったかも知れないが、どっちでもよろしい、)『落語鑑賞』の新版を出すから序文を書けという。馬鹿なことを言っちゃいけない。・・・・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。それは家内も覚えているし、私も覚えている。それほど感動した本に何か書きつけろという・・・」
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りん読。

2009-08-22 | 幸田文
え~と。「りん」というのは、石垣りん。
石垣りんの詩に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」があります。
そこに、こんな箇所

「 それらなつかしい器物の前で
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためでなく
・・・・・・
全部が愛情の対象あって励むように。 」


りん読の「読」は、読書の読。

松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマ―新書)を、読むともなく、
パラパラとめくっていたら(この新書、インタビューに答える座談のかたちなのでお気軽に、ページを飛ばして)、こんなエピソードが語られておりました。


「あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、『いつ、これだけの本を読まれるんですか』とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、『君はいつ食事をしているかね』と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。・・・」(p141)

こうして、すこし後に松岡さんは、こんな話をしております。

「昨今はグルメの時代で、誰もが、日々の会話でもテレビでも、食べものの話ばかりをしますね。お店へ行っても、食べながらまた料理の話をする人も多くいる。『このタコは南フランスの味だ』とか、『ここの店のはちょっとビネガーが強いけれど、タマネギが入るとまたちがうんだよ』という会話が、食事をそれなりに愉快にしたり、促進している。
それにくらべて本の話は日常会話になりにくいようですが、これはもったいない。『あの店、おいしいよ』というふうに、『あの本、いいスパイスが入っていた』という会話があっていい。・・・・
食べものと同じでいいんです。本のレシピや味付けや材料の新鮮さでかまわない。『この著者のこの本はこういう料理の仕方がいい』『この著者は焼き加減がうまい』『あれはソースでごまかしているなあ』というようなことでいい。あるいは、店のインテリアや『もてなし』がよかったということもある。店のインテリアというのは、たとえば本のブックデザインとか中見出しがうまかったというようなことです。それを『知のかたまり』のように思ってしまうのは、いけません。これは書評や文芸批評が『本についての会話のありかた』を難しくしすぎているということもあるかもしれませんが、本はリスクはあるものの、知的コンプレックスを押し付けるためのものじゃないんです。もっとおもしろいものであるはずです。これはね、日本にリベラルアーツ(教養文化)の背景が薄くなってきているということも関係があるようにも思います。大学からも教養課程がなくなっているし、どうもリベラルアーツを軽視する傾向があるね。そのくせ漢字クイズや歴史クイズや、観光地の検定が流行する。これは『○愴#12398;知』にはいいかもしれないけれど、人間にとって一番たいせつな『語り』にはなりません。」(~p148)

う~ん。「語り」が出てきたので、
ここで最後に、長田弘詩集「食卓一語一会」から詩「イワシについて」を引用。


「 ・・・・
  けれども、イワシのことをかんがえると
  いつもおもいだすのは一つの言葉。
  おかしなことに、思想という言葉。
  思想というとおおげさなようだけれども、

  ぼくは思想は暮らしのわざだとおもう。
  イワシはおおげさな魚じゃないけれども、
  日々にイワシの食べかたをつくってきたのは
  どうしてどうしてたいした思想だ。

  への字の煮干にしらす干し。
  つみれ塩焼き、タタミイワシ無名の傑作。
  それから、丸干し目刺し頬どおし。
  食えない頭だって信心の足しになるんだ。

   おいしいもの、すぐれたものとは何だろう。
   思想とはわれらの平凡さをすぐれて活用すること。
   きみはきみのイワシを、きみの
   思想をきちんと食べて暮しているか?   」



ということで、
 石垣りんの詩「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」と
 松岡正剛著「多読術」と
 長田弘の詩「イワシについて」。

以上の炊事・食事と読書とを、
私は、「りん読」と命名したいと思います。
いかがでしょう。

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読書展望。

2009-08-22 | 幸田文
幸田露伴は夏目漱石と同じ年に生れておりました。
慶応3年(1867年)。その10年後。
角田柳作は明治10年(1877)生れ。
ちなみに、この人は、ドナルド・キーン氏の大学の先生。
でも、いまいち、どんな方なのか分かりずらい。
窪田空穂が明治10年(1877)なので、
何やら、角田柳作氏との年代的な共通点があるのじゃないかと、
こちらは、窪田空穂全集があるので、読もうと思えば読める。
でも、読もうと思うだけ。
翌年が、与謝野晶子で明治11年(1878)。
堀口大學は明治25年(1892)で、
そういえば、「月下の一群」を丁寧に読みたいと思ったのに、
いまだに、忘れております。
田中冬二は明治27年(1894)、田中冬二の全集は3巻なので
いつでも、読めそうなのですが、今年は、齧りはじめ。
その十年後、幸田文が1904年。
何とか、幸田露伴・幸田文とのつながりで読み齧れれば。
というところ。
徳岡孝夫氏は1930年生まれ。
その徳岡氏の「妻の肖像」に

「1970年に40歳にして思いがけないことが起った。56・9倍の競争率にもかかわらず、横浜・港南台の宅地債券に当選したのだ。」
「会社の信用組合から限度まで借りた。住宅金融公庫から借りた。銀行からも借りた。それでも二百万円がどうしても足りず、最後の頼み中央公論社の嶋中鵬二社長に借金を申し込んだ。私の話を聞いた嶋中氏は、一瞬考えてから『よござんす』と、二つ返事で二百万円貸して下さった。ドナルド・キーン氏の日本文学史の翻訳料から返す約束(私の方から申し出た)であった。そもそも借りられたのは、キーン氏の口添えがあったからである。真っ先に中央公論の借金を、二年も経たぬうちに完済した。・・・」(p84・単行本)

というドナルド・キーン著「日本文学史」も、いまだ未読。
とにかくも、読むというよりも「袖振れあうも・・・」でゆきましょう。
そうしましょう。
ということで、未読本の列挙。


9月1日追記。
安藤鶴夫は、1908年の東京浅草生まれ。


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みそっかす。

2009-08-20 | 幸田文
え~と。
どこから書き始めましょう。
田中冬二詩集「サングラスの蕪村」は、昭和51年(1976年)。著者82歳の時に出版されておりました。そのはじまりに「『サングラスの蕪村』に関して」という1ページほどの文があります(「田中冬二全集」第二巻・筑摩書房)。
まずは、そこから

「私は詩を書いて来て五十余年、顧みればそれは詩を書いて来たというよりも、ロマンを追つたことのようだ。そしてそのロマンが詩をもたらしたのだ。私はこれまで詩作上のプロジェクトとして、日常見聞したこと、感銘したこと、ふと思い浮かんだことなどを、一冊のノートにいちいち誌して来た。・・・・これは私の詩作上の単に参考資料であつて、クリエーションに反しない事はもとよりである。・・・・きわめて軽いものなのである。といつてこれを無下に捨ててしまうのも惜しく、敢えてまとめてみた。
私は老年であるが、エスプリは燃え上がる青春の日のままである。そうした一面にはまた独楽(こま)が澄みきつて廻つているような、しずかな心境を欲している。」

こうしてノートを「敢えてまとめてみた」というのが、題して「サングラスの蕪村」なのでした。そこから一箇所。

「 火吹竹 味噌漉し 擂(す)り粉木 擂り鉢 片口 漏斗(じょうご) 目笊(めざる) 蒸籠(せいろう) 散蓮華(ちりれんげ) 卸金(おろしがね) 土瓶 土鍋 七輪 枡(ます) 焙烙(ほうろく) みんな忘れられてゆくものばかりだ 」


ところで、幸田文に「みそつかす」というのがあります(「幸田文全集第二巻」岩波書店)。
そこに「みそつかすのことば」という7ページほどの文。

「大言海をあけて見た。そこにみそつかすといふことばは載つてゐなかつた。そうか、無いのか・・・」とはじまっております。
「雑誌が出るとたちまちだつた。『あの題はなんと読むの』と親しい人から訊かれた。訊かれると途端に、しかし漸く、ああしまつた、通じないぞと悔やんだ。味噌汁の味噌がもうずつと前からみんな漉し味噌になつてゐて滓のないことは、毎朝あつかつて来た自分自身がもつともよく知つてゐる筈のものを、うつかり勘定に入れ忘れ、我を張つてこんな題にした間のわるさ、ばからしさ。いまさら、みそつかすとは東京だけの方言かなどとも思ひつつ、しやうがないから人に訊かれるたびに、擂粉木・味噌漉の、昔の味噌汁製造法を説明しなくてはならなかつた。」

ちなみに、気になって三省堂国語辞典(第四版)を引いてみました。

「みそっかす・味噌っ滓」みそをこしたあとの、かす。いちばんつまらないもののたとえ。
(子どもの遊びで)一人前になかまに入れてもらえない者。

と、あります。
幸田文の「みそつかすのことば」の最後は、その子どもの遊びで使われる「みそつかす」を語って、納得の1頁が書かれておりました。

さて、もう一箇所。
幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の最後に
出久根達郎氏が「幸田さんの言葉」と題して書いておりました。
そこにも

「ずっとのちに至って、私は幸田さんの言葉が、かなり特殊であるのを知る。方言でなく、いや一種の方言だが、ごくごく狭い地域の、極端に言うなら、幸田家とその周辺で遣われる言葉なのだった。けれども通じないことはない。いなか者の少年にも、十分、意味は通じたのである。正確にはわからなくとも、大体の内容はつかめた。『おっぺされる』などは、茨城人の私も日常、口にのぼせていた。『押しひしがれる』ことである。私が幼年時に遣っていた日常語を、幸田さんが堂々と書物で用いているのだから、感動するはずである。
これは『雀の手帖』には出てこないが、幸田さんの初期の文に『みそっかす』という語が遣われている。子供たちの遊びで、一人前と認めてもらえぬ者のことだが、私のいなかでは、『みそっこ』と入った。『みそっかす』とも言った。」
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おいしい言葉。

2009-08-18 | 幸田文
KAWADE夢ムック・文藝別冊「総特集 幸田文 没後10年」。
そこで、「幸田文の東京っ子ことば」を読めました。
林えり子氏の文。

ちょっと魅力ある手ごたえなので、引用から。

「・・・母は、幸田文の愛読者だったが、なぜ母が文に惹かれたのかが、いま、この文章を書くいまになって、わかってきた。まだ年端もゆかぬ娘に読ませたかった理由も、いまさらに見えてくる。幸田文と母はほぼ同い年である。・・・・なぜ、娘の私に読ませようとしたのかというと、母がわが父母、祖父母から伝授された、根生いの江戸っ子以来の家のしつけなり暮しのありようが、戦後の混乱と無秩序の中で、意味もないものと見做されることへの忿懣が幸田文によってふつふつと涌きあがり、本当は娘に教えたかったことを引っこめていた自分に気づいたということであったろう。ことばや言いまわし、口調にしてもそうである。母は音羽で育ち、私の父となる婚家は本郷、その地での耳なれたもの以外の、東京っ子にとっては、耳障りな口吻が席捲しだしていた。娘は学校でおぼえてきたらしい、どこの土地だかわからないようなことばをつかいだす。それを訂正していいものか。戦後の民主教育は平等を旨としている。ことばにも平等観が求められているのか。そんな疑問が、幸田文によって解かれたのだろう。東京っ子のことばがここにある。こういう表現ならばこそ東京っ子の心情は伝えられるのだ。娘にその良さを、あらためて知らしむベきだ、そう思ったにちがいないのである。・・・」

ところで、この文章は、林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社)にある
「東京っ子ことばの親玉は幸田文」からの再録のようですが、そちらには、こんな箇所がありました。

「未練がましく言わせてもらえるなら、東京ことばの持つ一種のはじらい、感情をむきだしにしないスマートさ、くすりとおかしみのある言いまわし、リズミカルな口調と歯切れのよさ、そうしたものがこの東京から失われていくことに何ともやりきれない思いがする。ことばは文化である。伝達の一手段であり、ことばなくして人の生活は成り立ち得ない。どんなことばを択(えら)み、どんな言いかたをするのかに人柄がしのばれてもくる。東京っ子たちは、そのことを十分にわきまえていて、多弁を弄せず、一言きりりと言うことに誇りさえ感じてきた。東京っ子の集まる座は、まさに『談笑』というにふさわしい、なごやかさをかもしだした。そこでは拙い表現は恥とされた。会話は知性と礼節と諧謔が織りなすゲームであった。悠々と、季節の移ろいを愛でながらの、そうした座が持てなくなったいまの東京人に、喚起をうながしたいと思うのは、もはや夢なのか・・・・。」(p274)
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