はい。「大村はま国語教室」を、遅々として読んでないのでした。
こういう時、「本を読んでない時」というテーマに切りかえます。
とりあえず、
苅谷夏子著「優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)と
大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)
の2冊は、サーッとですが読んでおりましたので、
そこに、細部をつけたしていくことならできそう。
「大村はま国語教室」第13巻の月報(1983年6月)に
苅谷夏子さんの文が載っておりました。
文の最後に(かりやなつこ・主婦)とあります。
読まずに、こんな細部が浮かびあがってきます。
苅谷さんの月報、その文の最後の箇所から引用。
「家庭にいることの多い今の私にとって、一番切実に身にしみたのは、
この『こちこちにならず緊張する』という言葉でした。
緊張を強いる外側の力がなくても、自分だけの力で
ひきしまった状態を保つこと。・・・
内面の活動にも緊張という負荷をかけること。
・・・今の私にとって、この課題は、
正直なところ容易には実践できそうもない課題です。・・・
はま先生をとりまいていたあのひきしまった空気が
私を包んでくれるものならば、中学生の頃のあの勢いで、
ぐいぐいと伸びてゆけるでしょうに。
生徒の立場から教師としてみてきた大村はまという人を、
自身を律して勉強を続ける一人の社会人として見直し、
そこから学ぶべき時期が、
私にはもう来ているのだとつくづく思いました。 」
うん。文庫にもどってみます。
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」の
副題は「遺された60のことば」と小さくあります。
この文庫の最後のほうに、
「61番目の小さな話 先生と私」という文がある。
はじまりは
「13歳の誕生日から12日目の日に、
私は、国語教師・大村はまに出会った。
13歳の私は思春期の入り口に立ち、
お世辞にも素直でも従順でもなく、
国語という教科にも偏見を持っていたから、
出会いの条件は決して良くなかった。
それなのに、最初の授業の最初の30分で、
大村はまの力と魅力が私の偏見をぐらりと揺らし、
最初の週が終わる頃には、ここで何かに出会えそうな予感があった。
実際、大村国語教室には、中学生が妙に興奮しながら
勉強してしまう不思議な知の世界があり、胸を
どきどきさせながら自分の成長を眺めた。・・・・ 」
はい。「本を読まない時」まるで雨後の筍のように、
にょきにょきと伸びる活字の箇所があったりします。
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