和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

日本文明の現在の構成者が

2025-01-31 | 産経新聞
4ページの地元地方紙を購読しています。
その最後のページ下に通夜本葬広告が載り、
記事は読まなくても、そこに目が行きます。

そういえば、今手元にある『サンケイ抄25年』上下(文藝春秋・平成8年)
の下巻の巻末に「主要人名索引」が26ページありました。
人名は、追悼のコラムがほとんどじゃないかと思います。

石井英夫氏の『産経抄』には、司馬遼太郎氏の追悼コラムがありました。
1996年(平成8年)2月14日の産経抄のはじまりは

「 小欄を担当してじつは25年になるが、
  司馬遼太郎氏の死を書くことになろうとは夢にも考えなかった。
  いつまでも叱正をいただけるものとばかり甘えていた。
  いまは丸太ん棒で張り倒された思いがする。・・・・    」

次の日の2月15日産経抄は、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの
『台湾紀行』をとりあげてはじまっておりました。
ここには、そのコラムの最後しめくくりから引用。

「 しかし司馬さんが未来に気がかりを感じていたのは、
  実は日本に対してだった。平成7年元日付の本誌で梅棹忠夫氏と対談し、

 『  残念ですが、日本は衰退期に向かっている。
    その証拠に日本文明の現在の構成者が
    少しものを考えなさすぎるように思います   』

  と語っていた。
  12日付の本誌『 風塵抄 』が文字どおりの絶筆となったが、
  産経からスタートした大作家が産経でしめくくられたことに
  因縁めいた何かを感じる。 『・・でなければ日本に明日はない』は、
  そのまま司馬さんの遺言とはなった。              」
       ( 石井英夫著「産経抄この五年」文芸春秋・平成13年 )
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1995年1月19日の産経抄。

2025-01-30 | 地震
石井英夫著「クロニクル産経抄25年・上」(文藝春秋・1996年)がある。
帯を見ると、「第40回菊池寛賞受賞」とあり、また黄色い帯の背には
「 『天声人語』を卒業した人に 」とある。

本文は、一面コラム「産経抄」から年度ごとに、ピックアップされた
コラムが掲載され、3年分ごとに簡単な著者回想コメントがあります。
ここには、1995年(平成7年)1月19日の産経抄を引用しますが、
その前にまず、著者コメントから引用させてください。

「 ・・・阪神大震災では、新聞が読者に励まされることがあった。
  被災者によって勇気と≪ やりがい ≫を与えられることが起きた。

 一つは、同僚の論説委員のところへ西宮の友人から電話がかかってきた。
 家は全壊、周囲は大混乱、命一つだけ助かって1月19日付の産経新聞を
 手にし、産経抄を読んだ。そして谷崎潤一郎の、証言を知って
 元気がでたという。

 大谷崎は関東大震災に遭って東京を逃げだし、神戸に移り住むが、
 被災者列車が大阪や神戸の人びとの温かい援助を受けたと書いていた。

 『 おれたち関西人の父祖は、人情に厚く、心優しかったのを知った。
   いまはつらいが、しかしがんばって立ち直る 』
 電話はそういって切れたというのである。・・・・・・   」


それでは、指摘されている1月19日の産経抄を、この際全文引用。

「 チャキチャキの東京っ子・谷崎潤一郎は、  
  大正12年9月の関東大震災のあと東京を逃げだし、
  関西に住みついた。はじめしばらく京都にいて、
  それから神戸へ移ったという。『関西亡命』といえるかもしれない。
  東京を去ったのは地震の恐怖ばかりでなく、古い風俗や習慣の
  『 定式 』が東京から失われてしまったからだった。

  谷崎は箱根で大震災に遭い、さいわい無事だった家族と再会し、
  沼津から汽車で神戸へ向かう。そのあと神戸⇔横浜を船で往き来した。

  関東大震災では、地震にこりごりした関東の被災者たちが大挙して
  関西へ引っ越したそうだ。阪神地方には地震がないという
  『 信仰 』のような口伝があったからだろう。
  そんな被災者を迎える関西の人びとの模様を、
  谷崎はエッセーでこう書いている。

  『 梅田、三宮、神戸の駅頭には関西罹災民を迎へる
   市民が黒山のやうに雲集し、出口に列を作ってゐて 
   われわれの姿を見ると慰問品を配り、停車場には
   接待所などが設けられており、分けても
   梅田駅頭の活況は眼ざましいものがあった・・・・ 』。

  それに続いて谷崎は、大阪と京都の違いについて次のように書く。

 『驚いたことに、七条ステーション前の広場は森閑として、平日と
 何んの異る所もない。私はそれを見て実に異様な気がしたものだった。
 この時ぐらゐ京都の土地柄をまざまざと見せつけられたことはなかった』。

  大阪や神戸というと、がめつく計算高い土地柄のように考えがちだ。
  しかしどうして、人情に厚く、心温かい救いの手を関東大震災の
  被災者に差しのべたと谷崎潤一郎は証言している。
  未曾有の苦難に直面した関西に、今度は関東がお返しをする番である。 」
   
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幸福なことでした。

2025-01-28 | 産経新聞
廃品回収に出さずに、そのままになっている新聞紙の束があって、
その恩恵にあずかる場合が今回でした。

ふだん、産経新聞を購読しておりますが、
パラパラと見出しをくってゆくだけで、ちっとも読まない。
さてっと、石井英夫の追悼文が産経新聞2024年12月30日に
あったのに気付かない。産経抄と評伝が載っておりました。

まずは社会面の評伝から、はじまりを引用。

「 新聞の名コラムニストといえば、『天声人語』の深代惇郎さんの
  名前がよく挙がる。ただ執筆の期間は2年9カ月と短かった。
  石井英夫さんは昭和44年から平成16年まで実に35年間、
  産経抄を書き続けた。・・・・
  石井さんがコラムニスト卒業後に作った名刺には、
  『 家事手伝い 』と書かれていた。・・       」


ある程度の年齢を重ねた人には、深代惇郎(ふかしろ・じゅんろう)の
天声人語といえば、ああ、と思い浮かぶはずですが、
それを年少の方に説明するのは、案外難しいかもしれないですね。
それを説明されている方に、1958年生まれの坪内祐三さんがおりました。
坪内祐三著「考える人」(新潮社・2006年)から引用。


「 ジャーナリストやコラムニストは、その現役の時に出会えなければ、
  過去の人として、復活されにくい。つまり、言説が、同時代の中で、
  消費されてしまう。・・・・

  今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針はどうなっているのか
  知りませんが、当時、私(坪内祐三)の中学、高校生時代には、
  国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。

  例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の
  要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。

  それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのですから
  (・・当時の私は、もちろん、無自覚でした――
     つまりあくまで匿名コラムとして愛読していたのです )
  それはとても幸福なことでした。         」


はい。このあと、起承転結でいえば、「転結」の指摘がつづきます。


「  しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの
   文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。
   それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。・・・   」(p125)


2024年12月30日産経新聞一面にもどると、写真入りで、
「石井英夫さん死去 」という見出しが、一面コラム脇にある。

最後にその日の産経抄から、前半の箇所を引用させてください。


「 『産経抄』を35年にわたり執筆した石井英夫さんは、
  読者からの問い合わせがあると、必ず自分で対応した。
  執筆中のある日、『 今日の産経抄について聞きたい 』
  と読者から卓上に電話がかかってきた

  ▼『 今日、私何を書きましたっけ? 』と返す石井さんに、
  読者は『 今日書いたことをもう忘れるのか 』。
  石井さんは苦笑まじりに言ったという。
  『 明日のことを書きながら電話を受けているので、
    今日までの分をいったん忘れないと前へ進めないんです 』

  ▼世の中の全てのニュースは哀歓苦楽を伴う。
  『 忘れる 』は、それらの感情を引き受け、
  筆を執るコラムニストの重責の暗喩ではなかったか。

  週6日の執筆を重ねること35年、その数は1万本に上る。
  産経抄を小紙の顔へと育てた石井さんの訃報が届いた。
  91歳だった                      」



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『 え、本当かい。 』

2025-01-26 | 先達たち
2025年月刊Hanada3月号の目次をみたら『追悼石井英夫』がある。
身近に接しておられた2人の方の文が印象深い。

単行本とちがい、雑誌掲載の文は、ある程度時間が過ぎると、
もうどこにあったのか分からなくなり、あきらめたりします。
ここに、記して備忘録としたいと思います。

例えば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読んでから、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)を読むと、
『知的生産』の現場の新たな水先案内人に出会えた気がするのでした。

もどって、Hanada3月号の追悼文を紹介します。
その宮城晴昭氏の文から紹介。

「石井(英夫)さんが産経新聞に入社し・・
 朝刊一面のコラム『 サンケイ抄 』(現産経抄)を担当したのが
 1969年で、入社14年目の36歳です。・・・
 そこから35年間、ひとりで月曜から土曜まで毎日書き続けた・・・

 私が産経新聞に入ったのは1973年で、石井さんは編集、
 私は広告業務なので、本来なら知り合う機会は少ない。
 ただ、産経抄は毎朝、いの一番に読んでいたので、
 ぜひ一度石井さんとお話ししてみたいと思い、
 入社して6~7年経った時でした。
 思い切って論説室へ行ったんです。

 『 僕、石井さんのファンです! 』と言うと、
 『 え、本当かい。俺のファンなんて誰もいないと思っていたよ 』
 と笑っていたのを覚えています。それが最初の出会いでした。 」(p284)



「 息子さんが小学生の時、
 『 お父さんは新聞のどこを書いているの 』と訊いてきたから、
 産経抄を指して『 ここだよ 』と教えたら、
 『 こんな小さなとこで給料をもらってるのずるいね 』
 といわれてまいった、と笑いながら話していました。・・・・

 また、息子さんは『私のやりたい仕事』という作文課題では・・・
 『 私は新聞記者だけにはなりたくありません 』と書いたそうです。

 『ぼくが朝起きたら寝てる。ぼくが学校から帰ってきて寝るまで
  の間にも帰ってこないから会えない。こういう親子にはなりたくない 』
 なんて書いたそうです。
 (学校の)先生がどんな家庭なのかと驚いたんじゃない(笑)。

 奥様は台湾からの引き揚げで、戦前は良い暮らしをされていたけど、
 女学校の時に終戦を迎え、日本で裸一貫になった。
 『 だから俺がどんな貧乏しても驚かないんだよ 』
 と石井さんは言っていました。・・・       」(p286)


「 石井さんは給料全額、奥様に渡していて、
  本人の飲み代なんかは印税、原稿料、講演料から出していました。
  自慢ではないですが、私は石井さんと飲みに行って一回も
  自分で払ったことがありません。・・・・
  安い店だからこそ払えたのかもしれませんが(笑)。 」(p286)



もう一人は、吉田信行氏。
ここには、一ヶ所だけ引用。

「 産経出身の作家、司馬遼太郎さんが『 産経抄 』の
  愛読者であったことは広く知られている。司馬さんの石井評は
    『 人の手の温もりが感じられる文章が書けるのは
      戦後では井伏鱒二と石井英夫さんの二人です  』
  とするとてつもなく高いもので、よく周囲に語ってもいた。 」(p280)


私に思い浮かぶのは、曽野綾子さんが産経新聞の紙面で
連載をもっていて、紙面をにぎわせていた頃のことでした。
ある時に、別々に書いているのに、産経抄と同じ指摘で同じ意見の方
同士がいて、それを曽野さんが指摘されていることがありました。
それがなんだか、とても印象に残っております。


最後に、2005年に出版された
石井英夫著「 コラムばか一代 産経抄の35年 」(産経新聞社)から、
「あとがき」の最後の箇所を引用しておきます。


「・・・私事で恐縮だが、家人が体調を崩し、
 コラムばかの私はたちまち生活不適応者に転落。
 何の介護の役にも立たなかったが、家人の入院先の
 国立がんセンターのベッドのかたわらで原稿用紙をひろげ、 本書
 『 コラムばか一代 』の執筆をつづけるというていたらくになった。・・
 35年を支えて下さったみなさまに心からの感謝をささげる次第です。
 
        平成17年4月10日           石井英夫   」
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『本の世界』を面白がる夢。

2025-01-25 | 前書・後書。
本を読まない癖して、古本は買います。
そうすると、『 まえがき 』だけですます本もある。
上手な文は、『 まえがき 』だけで十分魅了される。

朝日選書683・酒井紀美著「夢語り・夢解きの中世」(2001年)が
古本で、本文が新品同様で200円。題名に惹かれて買いました。

この本の『 はじめに――夢と未来と 』から引用。

「 ・・中世の史料を見ていて、まず驚いたのが、夢の記事の多さである。
  夢の出てこない中世の物語をあげる方がむずかしい。また、
  いろいろな人が書き残した日記にも、夢に関する記述が数多く見られる。
  それも、自分が見た夢だけでなく、他の人が見た夢についても、
  じつにくわしくその内容が書かれている。・・・

  ・・・そこで・・・歩きはじめることにした。・・・   」(p3)

ちなみに、この文の、はじまりは、
「もう、ずいぶん前のことだが、西郷信綱氏の著された
 『 古代人の夢 』を手にして、引きこまれるように読んだ。」
とあります。
いけません。読む前に気になって古本を注文してしまいました。
『 古代人の夢 』には、「はじめに」がありませんでしたので、
第一章のはじまりのページから引用。

「・・古事記から今昔物語まで、あるいはもっと降って
 中世の諸作品に至るまで、夢の記事は、それをふくまないのが
 むしろ例外と思えるくらい豊富である。それもたんに
 数が多いだけでなしに、夢を見たということが
 話全体の動機づけを決定している場合さえ少なしとしない。
 夢は、昔の文学にはなくてかなわぬ
 大事な構成要素の一つであったらしいのである。・・   」(p9)


ところで、酒井紀美さんとはどのような本を出されているのだろう、
と次に思ったので、検索すると、
『 中世のうわさ 情報伝達のしくみ 』(吉川弘文館・新装版2020年)
というのがある。この題名も興味を惹くので古本で注文しました。

かくして、肝心の本を読みはじめる前に、
噂がひろまるように、本が本を呼びます。

これだけじゃ、夢のようで、締まりがないでしょうか。
もう一冊引用。丸谷才一著「思考のレッスン」(文藝春秋・1999年)に

「 石川淳さんが・・『一冊の本』という題のコラムに
  原稿を依頼されたことがある。その書き出しがたしか、

  『 本来なら一冊の本といふことはあり得ない 』
  という文章でした。たくさんの本の中にあって初めて、
  一冊の本は意味があるのだ、というようなことを書いていらした。

  僕は、その通りだと思うんですね。
  孤立した一冊の本ではなく、 『 本の世界 』というものと向い合う、
  その中に入る。本との付き合いは、これが大切なんです。   」
                ( p115~116・単行本・レッスン3 )

せっかく、『思考のレッスン』をひらいたので、最後にこちらも引用。

「 僕は、おもしろがって読むことだと思うんですね。
  おもしろがるというエネルギーがなければ、本は読めないし、
  読んでも身につかない。無理やり読んだって何の益にもならない。 」
           ( p103 単行本・レッスン3の最初のページ )

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本の居候(いそうろう)。

2025-01-24 | 書評欄拝見
今年がどうなるのか、分からないといえば、分らないのですが、
やっぱり、古本を購入しているだろうなあ。と思っております。
あっちこっち齧り読みをするのだろうなあ。と思っております。

河盛好蔵氏の文に

「しかし本というものは、僅か数行でも役に立てば、
 それだけで充分値打ちがあるのだ。といったのは
 確か津田左右吉博士だったと覚えている・・・

 隅から隅まで役に立つというような本は、たまにはあるだろう。
 しかしそんな本の使いかたを教えてくれるのは
 あまり役に立たないたくさんの本ではないだろうか。

 初めから、役に立つ本とばかりつき合おうとするのは、
 カロリーの高さだけで食べものを選ぶ浅はかさと同じである。

 本と楽しくつき合うためには、一生役に立ちそうに思えない居候でも、
 イヤな顔をしないでいくらでも養ってやる寛大さが必要である。
 本の居候ぐらいなんでもない。
 のみならずそれに目をかけて手もとに置いているうちに、
 どんな役に立つときがくるかわからないからである。   」
              ( 河盛好蔵 本とつき合う法 )

こうして、河盛氏の言葉は、断捨離を忘れさせ、
今年も古本を購入する気持ちに、拍車がかかる。

それにしても書評本というのは、ある種の毒気がありますね。
たとえば、肥料を大量に入れれば、根腐れしてしまうような、
かえって、読もうという気持ちが萎えてしまいます。
適切な本の配分が必要なのだと、この頃は思います。

  『 どんな役に立つときがくるかわからない 』

役立つ出会いが来るのだとそんな夢をみることに。
ということで、今年の初夢にかえたいと思います。
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二つ無し、三つ無し。

2025-01-23 | 正法眼蔵
昨日は、主なき家での七回忌でした。
午前中、二階の窓も雨戸をあけ
(一ヶ所、戸袋に鳥の巣跡があり、雨戸が開かなかった)。
11時前に、お坊さん到着。曹洞宗なので、修證義のお経本。
般若心経と、修證義と、妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈と、
皆で読経する。ちなみに、修證義は第一章總序のみ読経。
私は、修證義は法事の時だけ、声を出して読むのでした。
今回は、第一章のみだったので、あれ『 愛語 』が出てこない。
帰ってから、寝る前に、お経本の修證義の全文を読んでみました。

修證義は、長い正法眼蔵を、我々にも身近にと、
もっとも簡略にして示した短文ということは知っておりました。
うん。そこで修證義くらいは、全文を読んでみたかった。

それはそれとして、声を出して読んだ修證義の第一章でした。
その第一章の終りには、こうあります。

    まさに知るべし今生の我身
    二つ無し、三つ無し、
    いたづらに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、
    惜からざらめや、悪を作りながら悪に非ずと思い、
    悪の報あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、
    悪の報を感得せざるには非(あら)ず。


うん。私は分かったようでいて、よくわからない。
とりあえず、解説書をひらいて、この箇所の現代語訳を読む。

「 今生の我が身は二つも三つも無いと、本当に自覚すべきである。
  因果が無いなどという邪見に堕ちて、
  悪業の報いを受けてしまうことは惜しくはないだろうか。
  それこそ惜しいことである。
  間違った考えを起こし、悪を行いながら悪だと思わない上に、
  悪の報いなんかあるはずがないなどと思ったとしても、
  悪の報いを受けないということではない。    」
   ( p38~39 丸山劫外著「『修證義』解説」佼成出版社・2016年 )


12時には、読経も終って、お坊さんが帰ったあとは、
家の戸締りをして、塔婆をお墓にもっていき、
古い塔婆を処分して、1時半頃にお昼をいっしょに食べました。
満腹になったせいか、帰宅してから、早めに寝につきました。
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『 すべてをまことに漫然と 』

2025-01-21 | 書評欄拝見
山本七平著「精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本」(さくら舎)
のページ最後にはこうありました。
「 本書は文藝春秋『諸君!』に連載の
     『 山本七平の私の本棚から 』(1982年6月~1985年8月)
      を再構成し、まとめたものです。・・・                      」

雑誌掲載ののち、さくら舎がはじめて単行本(2016年)化したことになる。
山本七平と本の間柄も、本の紹介(書評)の枕として、挿入されております。
たとえば、

「 趣味が読書だとすべてをまことに漫然と読みはじめる。
  小林秀雄も確か武者小路実篤氏の『論語』を評したとき、
  『 いつものやうに漫然と読みはじめ・・・ 』
  といった言葉があったように記憶する。

  私の記憶違いで、他の本の批評だったかもしれないが、
  この『 いつものやうに漫然と・・ 』という言葉を
  30年以上記憶しているところを見ると、
  何か共感を感じたのであろう。漫然と読んでいると、
  時々ふと読書をやめて他のことを考えている自分に気づく。 」(p33)

これは、京極純一著「日本の政治」をとりあげた文の導入部でした。
そのあとに、こうありました。

「 そしてまた我に返って読みはじめる。
  私はこういう読み方が楽しいのだが、
  『 日本の政治 』を読みはじめてすぐ感じたことは、
  『 まてよ、京極先生、『 老子 』の愛読者じゃないのかなあ 』
  ということであった。

  もっともこれは私の勝手な連想で、そうでないのかもしれない。
  だがそのような連想をしたのは、
  『 其の鋭を挫き、其の紛を解く 』(「老子」四章)という言葉を
  思い出したからである。この言葉はさまざまに解釈できるであろうが、
  『 一刀両断、ずばりとものごとを割り切るような鋭さを挫き、
    もつれた糸を根気よく解くほうがよい 』の意味、
  諸橋轍次(もろはしてつじ)氏はこれを
  『 世の中の文化や文明は、条理の整った一つの複雑さ 』を持つから、
  根気よくこれを解いていくのがよいとした、と解説されている。
  そして本書はまさに、西洋文明と中国文明と日本文化が
  『 糸のもつれのような紛雑 』(諸橋氏の言葉)さでからみあっている
  日本の政治に『 其の紛を解く 』という形で迫っているからである。」
                               (p34)

あとすこし、引用してみます。

「 ・・・『あとがき』には次のようにある。
  この書物の目的は『日本の政治』のいくつかの側面について
  記述し説明することであって、
  日本の政治の現在について評論し、
  日本の政治の将来について唱道(しょうどう:先に立って唱える)
  することではない。

  教室で授業を聞き、試験を受け、単位を取り、
  卒業しなければならない立場にある学生・・に対して、
  教師が一方的に評論と唱道を提供することは、
  マックス・ウェーバーを俟(ま)つまでもなく、フェアでない。

  しかし、人間交際のなかで、言葉が認知・評価・指令の三側面を
  多少とも共存させ、表現が報道・解説・評論・唱道の四側面に
  多少ともわたることは、避けがたい事実である。
  この点を考え、この書物のなかでは評論、とくに唱道
  にわたることを、気のつく限り、避けたつもりである。 」(p35)

この本の目次をひらくと、目次の見出数から判断して、
すくなくとも22冊の本が紹介されているようです。
これから、辻善之助著『日本文化史』を読みはじめようとする私には
この推薦本の並びは目の毒というもの。私は京極氏の本は読まない
だろうけれども、『 すべてはまことに漫然と 』読みはじめる
ということが、私にもけっしてないとは言えないので引用しました。
 


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彼が「フン」と軽蔑した

2025-01-19 | 古典
山本七平著「精神と世間と虚偽」(さくら舎)を本棚から取りだす。
本の帯に、『 山本七平の血肉となる本の読み方! 』とある。

以前パラパラこの本をひらき、読みたい本があり。
そこに紹介されてる、辻善之助を読もうと思った。
しかも、思うだけで、終っていたことを思いだす。
もう一度、スタートラインに立つような気分です。

まずは、その本を紹介している9頁ほどの文から引用。

『 ・・・・それは辻善之助博士の「 日本文化史 」(全七巻)と
  「 日本文化史 別録 」(全四巻)である。
 
  もう十数年前のことと思うが、仲のよい、しかし相当に
  《 進歩的傾向 》があった友人に
  「 あの本は、おもしろくて便利な本だ 」と言ったところ、
  「 フン 」と少々軽蔑した面持ちで次のように言われた。

  「 あの人は歴史学者じゃないよ、一昔前の、カビの生えた学者、
   しかも史料学者にすぎない。史料学者なんで単なる
   ≪ 史料的もの知り ≫で、彼には学問としての歴史学がない 」

  とのことであった。だが、私にとって興味深かったのはむしろその点で、 
  すなわち彼が「 フン 」と軽蔑したその点であった。  』(p144)


このあとの、山本七平の論の運び方は面白いのでした。

『 「一昔前」とか「カビが生えた」とかいえばまさにその通りである。 』
という地点から、辻善之助の著作の魅力を紐解いております。

『 ・・・大正10年から今日までの変転、それはまことに
  誰も予測できないものであった。そして辻博士は、
  予測できないことは予測できないとしている。
  それが真に歴史を知る者の言葉であろう。
  「 資本主義は必然的に・・・ 」とか、
  「 西欧はすでに・・・ 」とか、
  「 必ずや日本は・・・ 」といった言葉は一切ない。 』(p146)


先を急いで、気になった箇所を引用しておくことに。

『 結局、歴史上の何かを記すということは、  
  現代人に理解しうるような形で
  『 史料選 』を提供することであり、
  それ以上のことはできないし、また、
  なすべきではないと思わざるを得なくなったという点で、
  この本は私に最も大きな影響を与えたといえる。

  その結果『 日本的革命の哲学 』であれ、
  『 勤勉の哲学 』であれ、また・・・
  『 現人神の創作者たち 』や『 洪中将の処刑 』であれ、
  今の読者に理解しやすいような形で
  『 史料 』を提供しただけなのである。

  辻博士の『 日本文化史 』はそのように
  人に考えさせる力を持つだけでなく、
  すべての人に、何かを触発させるものを持っている。

  これを通読して自分が興味を感じたところから史料に入っていき、
  その史料を基にしてまた別の史料に入っていくという方法もとれるし、
  またこれを通読して、大正時代には日本の歴史がこのように
  講じられたという点で、その時代を探求することもできる。
  また、漫然と通読しても、史料に裏づけられた
  日本文化史を知ることもできるのである。・・・・    』(p151)


はい。私といえば、この辻善之助博士の本を
腰を据えて読んでみたいと思ったことを思い出しました。
ただ、自分が腰を据えて読むことが出来ないタイプなのを忘れておりました。
すぐに興味はうすれ、腰も定まらず、ほかの本へと興味がうつっていました。

周回遅れでもいいから、もう一度このスタートラインへと立つように、
この9頁の文『 著者は語らず、史料をして語らしめよ 』をひらいています。
山本七平の本も読んでいない癖に、辻善之助の本を読めるのか心許ないけど、
まあいいや、周回遅れでもいいや、ここからはじめよう。そう思う一月です。
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宝の持腐れ。

2025-01-18 | 古典
読むのも何なので、本棚を整理していたら、こんなのが出てきました。
金子武雄著『 日本のことわざ 評釈(一) 』(大修館書店・昭和33年)。
はい。古本で安くて、それで触手が動き買ってあって、
そのままになっておりました。いつかは読もうと買った本です。

こういう時は、とりあえずパラリとひらいてみる。
パラリとひらくのも『 他生の縁 』。ということでひらく。

『 苦しい時の神だのみ 』が目に入りました。
ああいいなあ。そう思えたので、はじめから引用。

「 大体似た意で、次のようなさまざまな言い方もある。

     叶(かな)はぬ時の神だのみ
     術(じゅつ)ない時の神だのみ
     困った時の神だのみ
     せつない時の神だのみ (北条氏直時分諺留)
     悲しい時の神祈り (本朝二十四孝)
     叶はぬ時の神たたき (松の落葉)
     悲しい時の神たたき (金屋金五郎浮名額)
     せつない時の神たたき (根無草)   」


このように、いろいろな箇所からピックアップされた言葉が並びます。
(全部のことわざが、これほど同類をならべてあるわけではなかった)
さらに次をつづけてゆきます。

「  総括すれば、苦しい時、思うようにならない時、
   途方に暮れた時、困った時、せつない時、悲しい時、
   こんな時に神に救いを求める、というのである。

   『神たたき』は神の注意を呼び起してしきりに祈ることの意らしい。
   ・・・・・・
   ・・よほどの神の信仰者でない限り、ふつうの人は神を忘れている。
   あるいは神に祈りはしない。そう思う通りにならなくとも、
   どうというほどのことはないからである。

   ところがせっぱ詰って途方に暮れ、せつなく、悲しく、苦しい時、
   やっぱり神にとりすがろうとする。
   自分の力ではどうにもならないとさとるからである。
    ・・・・
   ・・ふだんほとんど神を忘れ、あるいは思わない者が、
   そんな時になって急に神だのみするのは、当人には
   なんだか照れくさく、はたからみるとおかしい。
   それでもやはり神にとりすがるのが人情の真実である。
   そこに人間の身勝手と弱点とが見られる。
   この諺はそうした事象を指摘しているのである。

     Some are atheists only ㏌ fair weather.
                 The river past, and God forgotten.

   西洋のこういう諺も、同じような事象を指摘している。
   『 ある人々は日和のよい時だけ無神論者である 』、
   『 川を渡り終わると神は忘れられる 』という意であろう。 」
                       ( p146~147 )


このように、同類の英語の格言がある場合には、
それを各諺の説明の中へ入れておられます。
はい。買っておいてよかった(笑)。
ちなみに、この本は、何回か文庫にもなっているようです。
はい。本棚の整理はしてみるものですね。
そのまま宝の持ち腐れとなるところでした。

はい。ここまで来たら『 宝の持腐(もちぐさ)れ 』も
知りたくなります。こちらは
『 日本のことわざ 続評釈(二) 』の方にでてきます。
こちらも、面白かったので最後に引用してみたくなりました。
うん。全文引用したいけれど、最後の箇所だけにします。

「 『宝の持腐れ』という事象が起きるのは、宝を持っている者が、
  それが宝であることを知らない場合もあり、
  宝を用いる能力を持たない場合もあり、
  宝を用いる機会を得ない場合もあり、
  宝を用いようとする意欲のない場合もあり、
  宝は用いなければ宝ではないことを知らない場合もあろう。
  これらの場合、これをわらって、この諺が用いられるのである。 」
                      ( p171 「続評釈」 )


この最初の本の方にある『 はしがき 』にある言葉も忘れがたい。
はい。そこも引用しておきます。

「 諺は、批評の文芸であり、そうして、
  日本文芸の起源から今日に至るまで、
  一つのジャンルとして、日本文芸の中に、
  かなり重要な位置を占めているものと思っている。
  本書においても、主としてそういう見地から扱ったつもりである。 」

なるほど、重要な位置の在りかを『 評釈 』として
丁寧に、ツボを押さえるようにして説明されています。
それで、読み甲斐の、手ごたえが感じられるのですね。
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山本七平

2025-01-17 | 道しるべ
石破茂首相・岩屋毅外相とお二人のことを思うと、
たとえば、日独伊三国同盟が思い浮かびました。
現在なら、日中韓三国同盟として浮かびあがる。
なぜ、こんなことを想起しかねないのか自問してみる。

そんな時には、山本七平が答えてくれるかもしれない。
まずは、さくら舎から出版された山本七平の本の題名。
ここには、それを検索列挙しておくことに。

山本七平著『 日本はなぜ外交で負けるのか 』
山本七平著『 新聞の運命 』
山本七平著『 なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造 』
山本七平著『 戦争責任と靖国問題 誰が何をいつ決断したのか 』
山本七平著『 日本人には何が欠けているのか 』
山本七平著『 日本教は日本を救えるか』(イザヤ・ベンダサン 七平訳 )
山本七平著『 精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本 』
山本七平著『 「知恵」の発見 』
山本七平著『 戦争責任は何処に誰にあるのか 』

これら題名を見てまずどの本から読み始めましょう。
安倍晋三氏亡き後、時代をどう読んでゆけばよいか。
はい。救いを求めて私は山本七平から読んでみます。
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この感じは悪くない。

2025-01-16 | 好き嫌い
小沼丹に『庄野のこと』という4頁ほどの文があり、
そのなかに、

『 ・・・・・如何にも庄野らしいと思ふ。庄野も書いてゐるが、
  庄野の家では客から土産を貰つたりするとピアノの上に載せる。
  供へると云った方がいいかもしれない。それを見ると、矢張り
  如何にも庄野の家らしいと思ふ。この感じは悪くない。  』
    ( p60 みすず書房『 小沼丹 小さな手袋 / 珈琲挽き 』 )

『 供へると云った方がいいかもしれない 』とありました。
『 如何にも庄野の家らしい 』ともありました。

庄野潤三著「ザボンの花」第15章に帰省してお墓参りをする箇所があります。

『 矢牧の父の墓は、市の南にある広大な墓地の中にあった。
  そこには、父より2年早く死んだ長兄も眠っているのであった。  
  矢牧は夕方、ひとりでお墓まいりに出かけた。
  時間は遅かったが、それでも小さなバケツをさげて
  墓地の中の道を歩いている家族の姿が見られた。

  こちらへ来ればすぐ次の朝、お墓まいりに行けばいいのに、
  いつでも矢牧はぐずぐずしていて、結局帰る前の日になってしまう。
  そして、時にはとうとうお墓まいりをしないで
  東京へ帰ってしまうこともあったのだ。・・・・・

  矢牧は、お墓まいりはのんきな気持で
  する方がいいという考え方であった。行く方がいいが、
  行かなくても気がとがめる必要はちっとも無い。
  むしろ、気が向いた時に訪問する友人のように思いたいのである。
  
  そこへ来れば、心が休まるし、やはり来てよかった
  という気持ちで帰る、そういう場所だと思っていた。  」

はい。2~3冊しか読んでいない私なのですが、
おそらく庄野潤三がお墓のことを書くのは珍しいのではないか、
そう思えるので、もうすこし長く引用しておくことにします。

『 ・・矢牧は、墓地の入口のいつも寄る店でもらって来たバケツを
  さげて、その中にお盆の花を入れて、道を歩いて行った。

  倒れかかっている墓もあった。
  地面にのめりかかったような墓もあった。
  それらの墓は、もうバケツを持って
  おまいりに来る人もないのだろうと思われた。
  しかし、そんなふうな、崩れた墓をながめても、
  矢牧の心には、不思議に無残な感じもいたましい感じも起らなかった。
   ・・・・・・・・

  矢牧はバケツの中の水を汲んで、まだ新しい、
  なめらかな光沢をもった墓石の上に注ぎかけた。
  すると、墓石の頂きの部分にたまった水が、
  夕べの空の色を映して、かがやいた。
  そこには、雲のかたちも映っているのであった。
  ( わたしが死んだら、お墓の頭の上から酒を注ぎかけてくれ )
  生きている時、父はよく冗談にそんなことをいった。
  念仏など唱えなくともいいというのであった。
  矢牧は、その言葉を思い出した。・・・    』

まったくもって、お墓の手入れをしてる方には失礼なのですが、
私はといえば、つい、小沼丹氏の言葉につられて、
『 この感じは悪くない。 』と、つぶやきたくなります。

       
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小沼は私にとって

2025-01-14 | 重ね読み
だいぶ昔に、購入した小沼丹著「珈琲挽き」(みすず書房)が本棚にある。
はい。新刊の際に買いました。凾入り定価4120円。1994年1月発行とある。
よっぽど書評がよかったのでしょう、私ですから、つられ注文したのかと。
つまりは30年前に手元にあり、興味がわかずに本棚で埃をかぶってました。

最近、古本で小沼丹著「清水町先生 井伏鱒二氏のこと」(筑摩書房)を
古本購入200円。凾入り帯つき。中身はとてもきれいです。ひょっとして、
私みたいな横着者が買い、古本屋へと到着したのかと思ってみたりします。

庄野潤三をひらいていると、
小沼丹という名が登場する。

『明治学院の生徒のころから井伏さんに師事していた小沼丹をとり上げたい。
 小沼とは井伏さんを通して親しくなった。井伏さんのところへ最初に
 小沼が連れて行ってくれた。・・・・・

 井伏さんのお伴をするばかりでない。小沼と二人でよく飲みに行った。
 しばらく会わないと、電話をかけて、新宿西口のデパートの前あたりで
 落ち合う。デパートの地階のビアホールで海老の串焼きなんかとって
 ジョッキを傾ける。
 私の『 秋風と二人の男 』は、ジョッキを前にして
 とりとめのない話をする友人を描いた短篇だが、
 この『 二人の男 』とはすなわち小沼丹と私である。・・ 」
     ( p241 庄野潤三著「野菜讃歌」の中の「私の履歴書」から)

はい。こんな引用はどうでもいいようなことなのですが、
もうすぐ、私は庄野潤三を読むのを忘れて違う本を読み始める
( はい。すくなくとも、私の経験ではいつもそうなる )。
そうすると、すっかり、小沼丹と庄野潤三の関係が、
どのようであったのか、漠然として思い浮かばなくなる。
そういう際の道案内のつもりでここに書いております。

つづけてゆくと、岡崎武志さんの文の中にも、こんなのがある。

「・・・小沼丹がいる。庄野文学のもっともよき理解者の一人で、
 講談社文庫版『 夕べの雲 』の解説は情理兼ね備えた名文である。 
 庄野文学への入口として、私などはこれにもっとも強い影響を受けた。 」
      ( p116 「 庄野潤三の本 山の上の家 」夏葉社より )

ちなみに、講談社文庫の『夕べの雲』の小沼丹の解説は、
のちに、講談社文芸文庫の『夕べの雲』になると、はぶかれておりました。

そうそう。みすず書房の「大人の本棚」に入った一冊。
「小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き」は、庄野潤三編となっております。
こちらの最後に庄野潤三が『なつかしい思い出』を書いております。
そこから、一ヶ所引用。

「 小沼は私にとって風雅の友であった。
  しばらくご無沙汰したので、庭の鉄線の花(青)が咲いたとか、
  侘助が咲いたとか、そういうことを葉書に書いて出す。
  こういう何でもない庭先の様子を書いて
  知らせたくなる友というのは、ほかにいなかった。 」(p261)

ちなみに、『大人の本棚』のこの小沼丹の本を目次をひらくと、
『 庄野のこと 』というのがあって、この一冊の中で読める、
庄野潤三と小沼丹の文とを交互に開けば、しばし時を忘れます。


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下手なほど

2025-01-13 | 短文紹介
夏葉社『 庄野潤三の本 山の上の家 』(2018年)
の最後の方に、『年譜のかわりに』がありました。その終りに、
『 2009年、9月21日、老衰のために自宅で永眠 』(p223)とあります。

この本の最初の方には、『 庄野潤三の随筆、五つ 』とあります。
とりあえず、五つ目の随筆『 実のあるもの 私の文章作法 』を
読んでみる事にしました。こんな箇所があります。

『 いい文章は、苦労せずに話がうまいこと運んで行って、
  なるほどと思っているうちに終りになり、あとにいい心持が残る。 』 
                              (p66)

はい。ちょうど、『ザボンの花』をちょびちょびと読んでいるのですが、
これが庄野さんなりの『 いい文章 』を目指した文章なのだと合点。
この随筆のすこし前の方に、詩人がでてきます。
『 詩人の伊東静雄に『 文章 』という短文がある 』(p65)。

はい。気になって人文書院版『伊東静雄全集』をひらくことに。
はい。全一冊本です。『文章』には、詩人の視点が語られておりました。

「 ・・・通俗の達意と流暢とを欲しがる読者に気に入る筈がない。
  又詩人は、他を顧みて物を言ふ現代の悪癖に染つてゐない点も
  あるのである。世間の人の面白がる文章といふものには、
  必ずこの悪癖が一杯してゐなければならぬ。
  又詩人には教師風の懇切鄭寧さもない。・・・  」(p242)

そうして、伊東氏のこの短文の最後には、こうありました。
『 芸術といふものは誠さへこもつてをれば、下手なほどよろしい。 』(p242)

これは、富士正晴主宰の詩誌『三人』へ、頼まれて寄せた文のようです。



なんか、この伊東氏の最後の言葉を見ていると、
庄野潤三家の3人の子供のことが、思い浮かびます。

師・伊東静雄氏が、『 下手なほどよろしい。 』という言葉を
弟子・庄野潤三は、子供たちへ、当て嵌めたのかもしれないなあ。
私といったら、そんな心持ちで『 ザボンの花 』を開いてます。
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こんな会話をして

2025-01-13 | 重ね読み
庄野潤三著「ザボンの花」の、第12章は「アフリカ」。
ここに、主人公の子供の頃の写真が2枚でてくる。
長男と長女とが気に入っている
『 父のアルバムの最初の頁に貼ってある二枚の写真 』
1枚は
『 4つか5つの頃の写真で・・大きな口をあけて泣いているところ 』
『 正三やなつめがそれを見て大よろこびするのも無理ないくらい、
  見事な泣きっ面である。その次に、
  もっと子供たちが面白がる写真がある。 』

ということで、2枚目は
『 それは、棒をもった12人の主人公がならんでいる写真だ。・・
  小学五年の時の七夕まつりで、矢牧のクラスから12人の生徒が選ばれて、
  ニュージーランドの土人の踊りをやった。
  半ずぼんの上から棕櫚(しゅろ)の葉っぱをつけ、
  上半身はむろん裸、頭にはプラタナスの葉っぱをつけている。・・  』

この場面を読むと、あれっ、と思い浮かぶ本がある。
夏葉社の『 庄野潤三の本 山の上の家 』(2018年)。
そこに載っている写真は、3人の小さな子供たちが印象深いのですが、
それにまじって、庄野潤三自身の
『 昭和7年ごろ 帝塚山学院小学部の学芸会でのニュージーランドの踊り 』
という1枚があって、小説のこの箇所は本物だったことがわかるのでした。

さてっと、このあとに、土人つながりなのか、
夫婦二人してアフリカへ船旅をする夢を語る場面があります。
最初に読んだ時、なんだか、この第12章は夢物語の章なのかと、
ちょっと、他の章との違和感を感じました。
けれども、しばらくすると、生活実感があふれた家族の生活が
連綿と綴られているなかで、この箇所が出て来ることで、
夫婦の現実と夢とが入り混じるような章となっているのに気づくのでした。
そして章の終りはというと、
『 千枝は何を考えているのか、ぼんやりしていた。
  二人で行けるはずのないアフリカ旅行について
  こんな会話をしている時、隣りの部屋では子供たちは、
  蚊帳の中で入りみだれて眠っていた。入りみだれて?
  そうだ。四郎のふとんになつめが、なつめのふとんに正三が、
  そして正三のふとんには四郎が眠っていた。
  ・・・・矢牧は次の日の昼、会社で蕎麦を食べていた時に・・・ 』

さらに、この小説に驚かされることは、
庄野潤三年譜をひらくと、わかるのでした。

昭和30年(1955)34歳 ・・・4月
     『 バングローバーの旅 』を『文芸』に発表。
     『 ザボンの花 』を「日本経済新聞」夕刊に連載(152回完結)。

その2年後の
昭和32年 36歳 ・・・ロックフェラー財団の招きにより
        米国に留学することになり、8月26日、妻千寿子と
        ともにクリーブランド号で横浜港を出帆。・・・・・
        留守宅には、妻の母が来て、3人の子供の世話をみてくれた。


いったい何だい。この小説は。と、つい口に出してしまいそうになる。

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