和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

横尾忠則の書評。

2024-12-30 | 書評欄拝見
え~と。どこから話したらよいのか?

新宿区西早稲田の古本屋『 浅川書店 』から本が届く。
ネット『日本の古本屋』で、注文したら安かったので注文。
届いた古本は、本の隙間を新聞紙ではさんでありました。

そういえば、と思うのですが、意外に新聞紙でも書評欄を
包み紙として使用され入れこんでくれる古本屋さんがある。
浅川書店さんも、そうした古本屋の気づかいを感じました。

さて、本題。それは朝日新聞12月14日(土)の読書欄を
包み紙として使っておりました。私は朝日新聞は未購読。
そこに、横尾忠則の書評が載っておりました。

思い出すのは、画家の宮迫千鶴さんの書評でした。
幸田文の『崩れ』だったか『木』だったかの書評をされていて、
それで、新刊を買ったことがあります。
だいぶ前の話なので、その時の書評もどこかに
はさんだまま、忘れております。

今回の横尾忠則氏の書評も、輪郭がはっきりしていて、
その書きぶりが、直接伝わってくるようでした。

書評されている本は『民藝のみかた』(作品社)です。
はい。この書評を読めてラッキーでした。
それでは、書評から適宜引用しておくことに。

「 今日の現代美術ブームの背景には、作家の署名を必要とする
  自我表現としての個人主義があるように思える。・・  」

これが横尾さんの書評のはじまりでした。

「 ・・・僕が地方で幼年時代を過ごした頃は
  土俗的産物として民藝が生活環境を支配していたように思えた。 」

「 ・・・民藝はどことなくうさん臭く、この時代から排除されており、
  土俗的環境からいきなり西洋近代主義に洗脳されたために、
  僕の内部の民藝的土俗性を追放せざるを得なかった。
  が、わずかに残った土俗的尾骶骨(びていこつ)によって、
  あの時代の僕の演劇ポスターが生まれた。・・   」

そして、本の内容にはいっているのですが、
それは、わかったようでわからないから省略。
最後に、『民藝作家の濱田庄司は作品に署名を入れない』として
書評の結論が語られるのでした。その最後を引用。

「 今日の現代美術にない、もっと言えば
  現代美術が無視している民藝の根である人間の
  魂を反映している霊性、それによって現代美術の
  先に立ったのではないだろうか。  」


おいおい。『魂を反映している霊性』って何?
そんな突っ込みを入れたくなるのわけですが、
その一方で、やはり気になる。ということで、
新刊定価から3割引きとなった古本を注文する。

『民藝のみかた』ヒューゴー・ムンスターバーグ著田栗美奈子訳
 ( 作品社・2024年11月15日初版発行 )

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年の暮れの、中〆めの挨拶。

2024-12-29 | 道しるべ
今年は12月になってから庄野潤三を読んでいます。
といっても、遅々として読みすすめませんけれど。
楽しい。始めて読むせいか躓くようにハッとする。
ハッとすると、立ち止まっちゃうのは何時もの癖。
全集の月報には、さまざま交際のひろがりがあり、
枝葉を広げるように、周りを思いめぐらす楽しみ。

ということで、来年も『 貫く棒の如きもの 』
つながりで、庄野潤三を読んでいると思います。
そこからつながる横拡がりのようにたどる読書。

ということで、歳末までブログ更新予定ですが、
いちおう、飲み会での中締めという〆めの挨拶。
こんなブログですが、来年もよろしく願います。
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年の暮れの素人大工。

2024-12-28 | 本棚並べ
家の脇に一畳ほどの納屋があるのですが、
その塩ビ波板の屋根が、穴があいている。
というので、何だか他もあって一日仕事。
やっぱり脚立の上に立つのはこわくって、
へっぴり腰になりながら素人仕事でした。

今日届いた古本は、
佐藤春夫著「蝗の大旅行」(名著復刻・ほるぷ出版)。
庄野潤三をひらいていると、そこに本の名前がでてくる。
気になるのは、佐藤春夫。
こうして庄野潤三を読んでいるはずが、
当ブログでは、最近佐藤春夫の名前が関連して出てくる。
それは、佐藤春夫が私に気になっている証拠でしょうか。
まあ、順番で佐藤春夫の児童書を購入してみました。
それが届いたのでした。



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お年玉と、ナマハゲと、サンタ。

2024-12-27 | 道しるべ
久米仙人は修行のあとに、まずは空を飛べたのですが、そういえば、
サンタクロースもトナカイと共に空を飛んでおりました。
ちなみに、ネット検索すると、

『 ドイツの古い伝承では、サンタクロースは双子で、
  一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、
  もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをする・・
  現在、ドイツでは聖ニコラウスは「シャープ」と「クランプス」
  と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩き、
  良い子にはプレゼントをくれるが、悪い子にはクランプス共に命じて
  お仕置きをさせる。 』

という箇所がでてくる。比較でナマハゲも出てきておりました。


庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の、佐藤春夫の章に、
三歳の男の子をつれて、佐藤春夫氏のお宅へ伺う場面がありました。
印象に残るので、庄野潤三全集第十巻(講談社)をひらくと、
その場面が載っております。それは、
講談社版・佐藤春夫全集の月報に、庄野氏が書いた文でした。
その月報の全文をあらためて読むと、最後にこんな箇所があります。

『 世の中には、とかく自分の子供は可愛いがるが、
  よその子供は見向きもしないという人間が多い。
  佐藤先生は、自分の子供であるとほかの親の子供であるとを問わず、
  わが前に現われて、『 思邪(おもいよこしま)無し 』
  というふるまいがありさえすれば
  ( こまっしゃくれたのは論外として )、
  すべてそれを楽しむという風があたのではないか。
  区別なんか無かったように思われる。

  私たちは、よくお近くにいる竹田さんの小さいお嬢さんが
  お正月に晴着を着て、打ち連れて先生のところへ挨拶に見えると、
  心からこれを歓迎するというまなざしで頷いて居られたのを思い出す。
  草木や川や雲をめでるように、
  先生は子供をめでて居られたのである。  』
            ( p256~257 庄野潤三全集第十巻・講談社 )

  こういう下地があってこその、お年玉なのでしょうか。
  サンタクロースがプレゼントを配るようにして。
  はい。そんなことを、思い浮かべました。

  そうそう。クリスマスが終わって、
  『 なまはげ 』が活躍するのは、
  昔は小正月の1月15日だったのが、
  現在は12月30~31日におこなわれているようです。



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ピアノの上のお供え。

2024-12-26 | 道しるべ
庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社・1998年) の最後には、
日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」がありました。

庄野潤三氏の家のことが、気になります。
たとえば、仏壇はあるのだろうか? とかね。
「 大きなかめ 」はあることがわかりました。

『 私の書斎に大きなかめが置いてある。古備前の水がめ・・ 』
                ( p239 「野菜讃歌」 )

『 ・・ピアノの近くに置いてある。水がめなのに、
  不思議にピアノのそばにあるのがよく似合う。
  家の中にあっても、ちっとも気にならない。
  ときどき、掌でさすってみる。  』( p241 同上 )

さて、『私の履歴書』から抜き出しているのですが、
履歴書の最後から引用しておきます。

『 書斎のピアノの上に父と母の写真を置いてある。
  毎朝、朝食の間に妻はお茶をいれて、
  この写真の前へ持って行く。それが私たちの一日の始り。 』
                       ( p251 )

どうやら、庄野家には、仏壇がないらしい。

『 父母の命日、二人の兄の命日にかきまぜを作って、
  ピアノの上にお供えし、二人で手を合せる。お盆やお彼岸にも作る。

  ・・長男と・・次男に知らせて、取りに来させる。
  会社が休みの日で、次男が車に子供を乗せて来ると、
  先ずピアノの前に並んで手を合せてくれる。
  私も妻もうしろで手を合せる。 』 ( p252 )


この『私の履歴書』の最後は、
大坂へお墓参りに行った際に、
『 ・・帝塚山の兄の家へ行って、お仏壇に手を合せる。・・ 』(p253)

という箇所がありました。
うん。やはり、東京の庄野家には仏壇はないようなのです。

ちなみに、お墓については、長女の夏子さんの文にありました。

『 ・・父と母はよく訪ねてきてくれて、
  サンドイッチや昼寝を楽しんでいました。
  ある時、近くのお寺に案内しました。
  深い山の中に静かに建つ、曹洞宗の立派なお寺です。
  明るい墓地は小鳥のさえずりが聞こえ、
  お正月は大人も子供もお参りに来て
  『 おめでとう 』の声があふれます。

  先祖を大切にする父は、とても気に入り、
  ここにお墓を作りました。
  南足柄市にある、玉峯山長泉院です。
  私にお墓のお守りを託したのだと思います。・・  』
        ( p78 「 庄野潤三の本 山の上の家 」 )




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飛びて空に昇り。

2024-12-25 | 古典
鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社)で文間文法を語っております。

「 一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか、
  その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。  」


さて、『飛ぶ』ということで、久米仙人の話が思い浮かびます。

『 今昔物語集 本朝部(上) 』(池上洵一編・岩波文庫)に、
「 第24 久米の仙人、始めて久米寺を造れる語(こと) 」がある。

はい。出だしだけでも引用しておきます。

「 今昔、大和国、吉野の郡(こおり)、竜門寺と云(いう)寺有り。
  寺に二の人籠り居り仙の法を行ひけり。
  其仙人の名をば、一人をあづみと云ふ、一人をば久米と云ふ。
  然るに、あづみは前に行ひ得て、既に仙に成て、飛て空に昇りけり。 」
                       ( p90~91 )

 このあとに、久米仙人が寺を造る話までが語られてゆくのでした。
 それはそうと、ここで、徒然草に登場していただきます。

「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)に岡崎武志の文があり、
そのはじまりを引用。

「 大阪出身の作家・藤沢桓夫(たけお)は、
  庄野潤三と親交があり、よき理解者であったが、
  その文学の特徴についてこう書いている。

 『 彼の作品を読みはじめると、自分の家の畳の上に
   やっと横になれたような、ふるさとの草っ原に
   仰向けにねて空の青さと再び対面したような、
   不思議な心の安らぎがみよがえって来る・・  』

 ・・先へ先へ急ぐ現代文学の中にあって、庄野潤三の作品は、まさしく
 藤沢が言うような『自分の家の畳の上』に寝転ぶ親しさと安らぎがある。
 『 徒然草 』が七百年を経て読み継がれているなら、私も本気で、
 庄野作品も五百年後、千年後に読まれているはずだと思っている。 」
                          ( p107 )

ここで、岡崎氏は『 徒然草 』を対比の形で出しております。たしかに、
『徒然草』は、短文と短文との章を、縦横に飛びかうようにして読める。
その徒然草の第八段に 『 久米の仙人 』が登場しております。
会得して空を飛べた久米仙人の直後のことが語られておりました。

うん。ここまで、ひっぱったので、庄野潤三の作品から脱線しますが、
徒然草を島内裕子訳で久米仙人の箇所を引用してみます。

「 世間の人々の心を惑わすものの中で、色欲くらい大きな存在はない。
  人間の心というものは、本当に愚かであることだ。

  ・・・・久米の仙人が、
  水辺で裾をたくし上げて洗濯する女の脛(すね)が色白なのを見て、
  神通力を失って空から落ちたという話がある。女の手足や肌などが
  つやつやして、ふくよかであるならば、その美しさも魅力も、
  持って生まれた生得のもので、薫物とは違って、
  取って付けたものではないから、
  仙人だって神通力を失うほどのことはあろう。   」
             ( p31~32 「徒然草」ちくま学芸文庫 )


はい。『徒然草』ではここまでしか書かれていないのですが、
『今昔物語』の方は、

 「 ・・久米心穢れて、其女の前に落ぬ。
    其後、其女を妻(め)として有り。 」

 とあり、久米寺を建立するまでが続けて記述されてゆくのでした。
 久米仙人に関しては、徒然草より今昔物語の方が、物語性があり、
 いろいろと考えさせられます。

 けれども、徒然草によって、久米仙人の話は歴史を通じて語り継がれ、
 徳川時代に、海北友雪筆になる「徒然草絵巻」にも描かれております。

 庄野潤三から、徒然草・今昔物語へと、
 古典の時空へ、下手なりの試し飛行でした。

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二が書け、三が書けて。

2024-12-24 | 重ね読み
庄野潤三全集の各巻の最後に阪田寛夫氏が
『 庄野潤三ノート 』を書いております。

庄野潤三の『静物』は、読んだことがないのですが、
私は読まい前に、『 静物 』を語りたくなりました。

庄野潤三著『 文学交友録 』(新潮文庫)の
佐藤春夫の章に、それはありました。
それは昭和34年。雑誌に一挙掲載の長い小説を書く約束をして、
『 なかなか書くことが決まらなくて難渋した 』(p186)状態が
半年以上続いたことに関しての記述に、佐藤春夫氏が出て来るのでした。
ある出版を祝う会に出席した庄野潤三は、佐藤春夫から声をかけられます。

「 この会で佐藤先生は私を見つけると、
  『 どうしているのか? 』と訊かれた。・・・・

  私が自分の現在の状態を報告すると、
  『 なぜ書けないのか 』と問いつめられた。
  私はどう答えたのだろう。
  書きたいことはあるんです。
  ただ、それがみな断片で、どういうふうに
  つなげてゆけばいいか分からなくて、書けないんです
  というふうにいったような気がする。
  佐藤先生は聞き終わると、

 『 そうか。それなら、
  書きたいことを先ず一、と書いてみるんだね。
  次に二、としてもう一つ書く。とにかく、書いてみるんだね。

  それからあとは、三、として次のを書く。
  四、として次のを書く。そこまで書いて、
  もし三と四を入れ替えた方がよくなると気が附けば、
  順序を入れ替えてもよし。そうやって、
  胸のなかに溜まっているものを断片のままでいいから、
  全部書いてしまうんだね 』

  そういうふうに話された。佐藤先生は、
  考え込んでいては駄目だ、ともかく書き出せ、
  といっておられるのである。それが私に分った。  
  私は『 有難うございます 』といって、
  お辞儀をして引き下った。・・・・・

  私は、実際、佐藤先生にいわれた通りに、
  先ず一、として、子供にせがまれて一緒に
  近くの釣堀へ出かける話から書いたのであった。
  そうしたら、道がひらけて、二が書け、三が書けて、
  話が( 不思議なことに )つながって行った。・・」(p187~p188)


え~と。庄野潤三全集には各巻の最後には、
阪田寛夫の『 庄野潤三ノート 』が掲載されておりました。
そこにこうあります。

「 このノートを書き始める前、ある日
  庄野さんの著書を本棚の右端から出版順に並べ直してみた。
  その時『 静物 』がずいぶん右の方に来たのに驚いた。
  私はもう少し真中寄りだと思っていたからだ。
  私の中には『 静物 』で漸く何かが定まったという気持があって、
  すべてがここに流れこみ、ここから発するように考えていたためだろう。
  知らない間に、私は庄野さんの全作品を『 静物 』の位置から眺め、
  『 静物 』の眼鏡で味わうようになっていたのかも知れない。 」
         ( p475 庄野潤三全集第3巻 )

そうして、どこから引用されてきたのか。
ここにも佐藤先生の助言が載せてあります。
ニュアンスが微妙にことなるので、こちらも引用しておきます。

「 ・・『 書きたいと思うことは幾つもありますが、
  みな断片になって続いて行きません。それで書き出せないのです 』

  『 それなら先ず書きたいことを1と番号をつけて書く。
    次に書きたいことを2・3・4・・・と書いて行く。
    途中で4が3より前に来る方がいいと思えば入れ替えればいい 』

  更に、書かないで書けないと考えるのは
  溝の所まで来て立止るようなものだ、
  『 先ずとんでみよ 』と言われた。
  ( 註「静物」1章を見よ )その後・・・『静物』を書き出すに当って、

 『 1・2・3・4・・・と書いて行くその置き方、
   一つから一つに移るアレが生命となった。・・・  』
 と庄野さんは言った。・・・・・             」
            ( p478 庄野潤三全集第3巻 )


はい。万事横着な私は、それじゃ『 静物 』から読もうと
読まない前から思うのでした。
さてっと、佐藤春夫先生は、どういうことを伝えようとしたのか?
そう思ったら、私は鶴見俊輔著『 文章心得帖 』(潮出版社)の
この箇所が思い浮かぶのでした。最後にそこからも引用して終ります。

「 これは文間文法の問題です。
  一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか、
  その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。
  その人のもっている特色です。
  この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい。・・・・

  一つの文と文との間は、
  気にすればいくらでも文章を押し込めるものなのです。
  だからAという文章とBという文章の間に、
  いくつも文章を押し込めていくと、書けなくなってしまう。
  とまってしまって、完結できなくなる。
  そこで一挙に飛ばなければならない。 ・・・・ 」( p46 単行本)


まだ、私は『 静物 』を読んでいないのでした。
ただ『 明夫と良二 』をさきに読んでいるので、
そこからオモリをおろしてみたい。そんな楽しみ。

  
          


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うたって聞かせて頂いた。

2024-12-24 | 詩歌
本棚を作り、その空白の棚に、本を並べてゆく。
とりあえず、本棚が埋まった時点で、もういいや。

空白の棚に、本を詰めてゆく作業はワクワクしたのに。
いざ、本が並ぶと、あの本の上の棚には、何を置こう、
右隣・左隣の棚には何をとあれこれ思い描くのが終了。
まるで、空白の棚に、言葉を詰め込みすぎたような気分になる。


それはそうと、庄野潤三の語る佐藤春夫です。

庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をあらためてとりだす。
そこに、読まずにあった、第6章『 佐藤春夫 』をひらく。

『 詩をうたって聞かせて頂いた 』という箇所がある。
九州での学生時代に伊東静雄氏を訪ねる場面なのでした。

「・・・秋の試験休みに帰省して、堺の伊東静雄先生を訪ねた折、
 雑誌で読んだ佐藤春夫の『 写生旅行 』がよかったという話をしたら、
 伊東先生も読んでいて、二人で『 写生旅行 』をたたえたことがあった。
 もともと佐藤春夫は現代の文学者のなかで
 伊東先生が最も尊敬する人であった。先生の二畳の書斎で、
 春夫の詩集『 東天紅 』のなかから『 りんごのお化(ばけ) 』
 という詩をうたって聞かせて頂いた・・・・       」(p162)

この章のなかに、三島由紀夫も登場しておりました。
庄野潤三がはじめて雑誌に掲載された『 雪・ほたる 』の箇所でした。

「 三島由紀夫は『 雪・ほたる 』を読んでいて、
  人なつこく私に話しかけた。
  ご自分で気に入っているところを朗読して下さいという。
  自作を朗読するというようなことは気恥しいので、
  三島由紀夫が何度もねだったけれども、朗読はしなかった。 」(p175)

ここでは、『 気恥ずかしいので・・朗読はしなかった 』とあります。
庄野潤三の家族が、大阪から東京へ引越してきた際に歌がありました。

「・・越して来て一年半くらいたったころに、
 この子(長男)が佐藤先生夫婦の前で『 お富さん 』を歌った。

 そのころ流行(はや)っていた歌謡曲で、
 『 死んだ筈だよお富さん 』という歌であった。

 長男はこのとき三歳で、最後の『 ゲンヤーダナ 』というところが、
 『 ゲンヤーナヤ 』というふうになって、
 佐藤先生も奥さんもふき出された。

 ・・・先生は甚(はなは)だ興趣を覚えるというふうに
 この子を見守っておられたばかりか、歌に終ると、
 『 よく出来たね 』といって、賞めてくれた。・・・・
 
 ・・・・子供が『 お富さん 』を歌ったのは、
 このとき一回だけであったが、先生も奥さんも
 いつまでも覚えていて、その後、私たちの顔を
 見る度にその子のことを尋ねて下さった。

 『  小生、自然と赤ん坊とが一番好きです。
   人間の最も自然なものが赤ん坊なのですから
   当然の事かと思ひますが、人生いかに生く可(べ)き?は
   小生によれば赤ん坊の如(ごと)く生きよだと思ひます 』

  これは、戦後、先生御夫婦がまだ信州佐久に居られ頃に、
  先生から頂いた手紙の一節である。・・・・・
  草木や川や雲をめでるように、先生は子供をめでて居られた・・」

                         (p183~p184)
はい。『 明夫と良二 』などの作品で、
男の子が、唄いだす場面があることを、
その雰囲気が、印象深く残ったことを、
あらためて思い浮かべ反芻してみます。

この章ではさらに、
『 静物 』を書きあぐねている庄野氏に
佐藤春夫が語りかける場面があるのですが、
それは、次回のブログで取り上げてみます。


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お世辞は云ひません。

2024-12-22 | 手紙
庄野潤三の兄が庄野英二。
今まで、庄野英二氏の本を読んだことがなかったので、
この際、古本で買ってみようと思いました。

庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の最後に登場するのが、
英二氏なのですが、そこで、紹介されている本の題名だけでも、

 庄野英二著「ロッテルダムの灯」の中の「母のこと」
 庄野英二著「こどものデッキ」の中の「朝風のはなし」
 庄野英二著「星の牧場」

と3冊が取り上げられ紹介されているのでした。
私は地方に住んでおります。はじめての著者の本は
どんななのか、あてずっぽうに、想像するほかないのですが、
地方にいると、利点があります。
住んでいない家があったり、空きスペースがある。
本は置けるので、まあ、冊数は余り気にならない。

さて、庄野英二の本を買おうと、
日本の古本屋を検索していると、
3冊をバラバラに買う合計よりも、
「庄野英二全集」11巻をまとめて買う方がお得感がある。

今回注文したのは、
東京神保町の田村書店。
庄野英二全集揃11巻(凾入り、月報揃)。
これが、3000円+送料1367年=4367円
( 一冊だと、397円となります )。
読めればいいので、単行本へのこだわりはありません。
凾入りで、各冊のページもきれいでした。

ということで、また全集を古本で買ってしまったのでした。
まず、まっさきに読んでみたかったのは、
庄野英二の『 母のこと 』でした。

それは、庄野英二全集9巻にありました。
全集で8ページほどの文でした。
はい。実際に読めてよかった。
ちなみに、全集第九巻の巻末に
前川康男氏の「庄野英二覚え書」が載っており。
そのはじまりに、佐藤春夫の手紙が引用されておりました。
はい。全集を買ってよかった(笑)。
その佐藤春夫の手紙を引用しておきます。

『 呈、御無沙汰に打過ぎました。
  『 ロッテルダムの灯 』をありがたう。
  あれを拝受した頃は、何かと忙殺されて
  読む暇がありませんでした。

  昨夜ふとしたはづみに手もとに置いてあった。
  あれを読みはじめ、今朝また昨夜のつづきを読み、
  現在三分の二ほど読んで、大へん感心しました。

  それで手紙を書く気になったのです。
  僕は手紙ぎらいでめったに手紙を書きませんが
  今日ばかりは書かないでゐられないで書くのです。

  僕は詩人です。お世辞は云ひません。

  僕は大兄をなつかしい人がらの人と
  永く敬愛して来ましたが、昨夜から今日にかけて
  その認識を新にするとともに大兄の
  気取りのない温雅な文才を羨ましいと思ひました。

  『 母のこと 』や『 松花江 』などは、
  そっくり教科書に採用すべき品位のある名文です。

  僕は詩人です。ほんとうをいふ職業です。
  お世辞は一言半句もありません     不一   』 (p390)

このあとに、前川康男氏は、
昭和49年6月に出版された講談社文庫『ロッテルダムの灯』の
河盛好蔵氏の『解説』からも引用をつづけておられます。
最後に、そちらも引用して終ります。

「 河盛好蔵氏は、『解説』で、この書簡に続けて、
  次のように記しています。

  『 ――本書の読者もまたこの手紙を読んで、
   詩人の讃辞に心からの同感を覚えたにちがいない。
   ≪ 気取りのない温雅な文才 ≫という佐藤さんの評は、
   庄野氏の作品の魅力を的確に伝えた言葉であるが、
   私はその上に、
   汲めども尽きぬ豊かなファンテジーと、
   目の覚めるような鮮かな色彩感覚とをつけ加えたい。 』(p391)


はい。とりあえずは、古本全集購入の余得のお裾分け。



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朗読

2024-12-21 | 重ね読み
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)の中に、
岡崎武志の「庄野潤三とその周辺」という9ページほどの文が載ってる。
そこに三島由紀夫との接点がかかれておりました。

「43年12月、広島県大竹海兵団に入団するが、その直前に書きあげたのが、
 初めて活字となった小説『 雪・ほたる 』だった。
 島尾(敏雄)の入隊が決まり、それを見送る心情を綴った作品だった。
 師の伊東(静雄)は『 読んでいて切ない気持ちになった 』と
 これを褒めた。伊東の紹介で、同作は『 まほろば 』という
 同人雑誌(44年3月号)に掲載される。この同じ号に小説を発表した作家が
 三島由紀夫。東京で『 まほろば 』同人の会合があった時、
 庄野は三島に会っている。
 三島は庄野に『 雪・ほたる 』を朗読してくれとせがんだが、
 これを断ったという。・・・           」( p111 )

なんだか、朗読といえば、うたう良二が思い浮かびます。
それはそうと、現代詩文庫『 竹中郁詩集 』の竹中氏の文にも
三島由紀夫が登場しておりました。『 あざやかな人 』という文の
はじまりにあります。

「わたしは奇妙な初対面の記憶を二つ持っている。
 ひとつは三島由紀夫氏が作家の花道にすくっと立った頃、
 銀座四丁目の歩道で画家の猪熊弦一郎氏に紹介された。
 
 三島氏は『 あなたの作詩を愛読しました 』といって、
 つづいてその詩をすらすらと聞きちがいもなしに暗誦し・・・
 狐につままれたような気分になって照れてしまった。・・・

 もう一つは吉田健一氏であった。
 これは場所は大阪か神戸かの小ていな料理屋の、
 潮どき前のしずかな時間、客といえば吉田氏とわたしのほかに
 一人か二人、かねて打合せてあった初対面。・・・

 そのときも、吉田さんは一通りの挨拶がすむと、
 わたくしの詩の暗誦を抑え目の声ではじめられた。・・・

 初対面の固くるしさを軟げる効果を、作者自身のわたくしが
 二人の文学者から教えられる始末になった・・   」( p127~128 )

庄野潤三著「 明夫と良二 」の兄弟家族じゃないけれど、
家の中で、唄っている良二の姿がダブってくるのでした。

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今年の本棚つくり。

2024-12-20 | 本棚並べ
今は倉庫代わりに使用している場所があり
( 田舎なので、それなりにスペースはあるのです )、
ここに本棚をすえつけて、書庫にしようとしています。

本棚を作ろうと、板材を買ってあったのですが、
そのまま、え~と、1年以上になるでしょうか。
暮れのこの機会に壁に据え付けの本棚を作成しました。
とりあえず、買ってあった木材を縦横切りあわせて、
あとは、電動ドライバーで、ネジ止めする素人仕事。
コンクリート床から天井まで、ヨコは約2.5mほどの本棚
が出来ました。これで、今年の購入本などを本棚に並べられる。

今年は、安房郡の関東大震災に関する資料を
( といっても少ないので助かるのですが )、
集めてみました。図書館へ出かけるのが億劫な性格なので、
家で、古本がネット注文できる現在は、ありがたいかぎり。
その関連で、町史市史などもそろえました。今年はとくに、
もう、本に関しては贅沢をきめこむことにしております。
安い古本なら、題名で購入。
あとは妥当と思える価格なら購入。
それを読みまとめる手腕はありませんが、
それに関する記述を居ながら読めるありがたさ。

ということで、今年は、震災関連の本。
「日本わらべ歌全集」全39冊(柳原書店)。
「庄野潤三全集」および、その単行本など、
本棚に置きたい本が、本棚に並ぶ順番を待っております。

そんなことで、今日とどいていた古本がありました、
庄野潤三著「庭の山の木」(冬樹社・昭和48年)。
庄野潤三著「逸見(へみ)小学校」(新潮社・2011年)。

うん。あとは本を読むだけなのですが、
まあ、今年の本棚作成はここまでです。
さて、新しい本棚にどのように本を並べるか、
今日、その楽しみが残っております。

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庄野潤三全著作案内から

2024-12-19 | 書評欄拝見
私の事だから、興味はせいぜい一ヶ月。
庄野潤三の本を選ぶ楽しみ。
夏葉社の「庄野潤三の本 山の上の家」(2018年発行で2019年第三刷)。
この本の最後に「庄野潤三全著作案内」が載っています。
写真は少ないのですが、精選されたのだろうなあという貴重な写真が
載っています。うん。庄野潤三の本が好きなんだ。というのが、
凝縮されていて、それがさりげなく一冊にまとめられているという手応え。

さてっと、『 庄野潤三全著作案内 』をめくっていると、
私は、初期の作品よりも、後半の作品が好きなのだろうと、
自分の好みを教えられるような気がしてきました。

そうすると、初期から後期へどのような変遷をたどったのか、
きっかけが気になるわけですが、まあ、それはそのままにして、
とりあえず、著作案内から、古本を注文して、
それが届きはじめました。

  庄野潤三著「ワシントンのうた」(文芸春秋・2007年)
  庄野潤三著「小えびの群れ」(新潮社・昭和45年)
  庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社・1998年)


はい。ここは、『全著作案内』から、言葉をひろってみます。

『小えびの群れ』については、こうあります。

「ここではどうしたって『 星空と三人の兄弟 』について書きたい。
 ・・大半が『こわがることをおぼえようと旅に出た男の話』という
 グリム童話の紹介と解説にあてられていること、八割以上が、
 庄野潤三によるグリム童話の周到なリライトになっていて・・・  」

はい。庄野潤三とグリム童話のつながりに惹かれて古本注文。

『 野菜讃歌 』についてはこうありました。

「 その日のテーブルになにが並んだかを書く、
  『 おいしい。 』と書くことも忘れない。
  それだけで、どういうわけか、こちらも食べたくなる。 」

「 小沼丹への追悼文や、おなじみの『 ラムの「エリア随筆」 』など。
  また、・・・日本経済新聞に連載した『 私の履歴書 』が
  収録されている。庄野潤三入門にも最適な一冊。 」

『 ワシントンのうた 』の案内のはじめはこうでした。

「 最後の連載。夫婦の日常ではなく、
  『 これまでとり上げたことのない 』幼年時代から
  『 夕べの雲 』のころまでを描く自伝。
  『 文学交友録 』の文体とは異なり、
  晩年の連作のスタイルで、ゆったりと描かれる。・・・  」


『 知る人ぞ知る 』という作家の後半の作品だからか、
この古本の3冊は、いずれも初版が届きました。
はい。楽しみにして読みます。





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元気にしております

2024-12-18 | 道しるべ
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)も、
「山芋」の章を読んでから、残り少ない章を読みました。

「山芋」の次は「雷」でした。その「雷」のなかに、
浜木綿を大阪の生家の庭から掘って、東京まで持って帰ったことが
書かれております。

「 大浦が生家の庭で兄に手伝って貰って、
  この浜木綿を株分けしたのは、小学三年生の晴子を連れて、
  母の病気見舞いに大阪へ帰った時であった。その年の二月に
  正太郎が生れたので、細君と安雄と赤ん坊は留守番をした。

  二人が帰ったのは、丁度お彼岸のいい天気の日であった。
  母は思ったよりも元気で、大浦が赤ん坊の写真を見せると、
  うれしそうに手に取って眺めていた。一年前に大浦の母は
  脳血栓で倒れた。それ以来、失語症になって、
  病気がよくなってからも、
  みんなと話をすることが出来なかった。

  それで、こちらの方からいろんなことを話しかけるのだが、
  あとは母の表情を見て、自分の話が通じていると思うよりほかない。
  物足りないといえば、物足りない。しかし、
  生命を取り戻したのに、贅沢はいえなかった。・・・・ 」(p230∼231)

「 彼は母にいつ東京へ帰るということはいっていなかった。
  母が苦しんでいる時でなくて、楽になって眠っている時に
  そばを離れることが出来たことを彼は仕合せに思った。
  それから半月ほどで大浦の母は亡くなった  」(p236)


『 夕べの雲 』をさっとですが、読み終えたので、
次は庄野潤三のどの本を読みましょう。と思っていたら、
昨日注文してあった古本が届く。
庄野潤三著『 ワシントンのうた 』(文芸春秋)でした。
ぱらりとひらくと、『 ザボンの花 』のことが語られております。

「・・私にとってははじめて書く新聞小説である。
 どんな風に書けばいいか分からなくて、まるっきり自己流で書き始めた。

 新聞小説は、明日の続きがどうなるかと読者に期待をもたせる
 というのだが、私はそんなこと、全く考えないで、
 自分の好きなように書いた。

 大阪から東京へ引越して来て、
 麦畑のそばの家に住むことになる矢牧一家が、いったい
 どんなふうに新しい土地での生活に馴れてゆくか、
 どんな出来ごとが待ちかまえているかを書くことにしたのである。

 矢牧一家の新しい土地での生活を、
 正三となつめと四郎の三人の子供たちの上に起る
 出来ごとを中心に書いてゆくことにしたのである。
 
 私は、大阪の生家に大きな病気から立ち直った母がいて、
 日本経済新聞をとって、毎晩、私の連載を読んでくれ、
 よみ終ると切抜を作ってくれていることを聞いていた。

 そこで、病気の母に向って、
 『 私たち、元気にしております。こんなことをして暮しております 』
 と知らせるつもりで『 ザボンの花 』を書き続けた。
 母に読んでもらうために書いた小説である。・・ 」(p142∼143)


庄野潤三の年譜をひらくと、
昭和30年(1955)34歳に『ザボンの花』を日本経済新聞夕刊に
連載(152回完結)とあります。
昭和39年(1964)43歳に『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載
(127回完結)と出てきます。

講談社文芸文庫の終わりの方に、庄野潤三による
「 著者から読者へ『夕べの雲』の思い出 」が載っております。

『夕べの雲』を書くきっかけが語られておりました。

「或る日、私は渋谷から乗った地下鉄のなかで日経新聞の文化部長を
 している尾崎さんと顔を合せた。すると、庄野さん、新聞小説を
 お書きになるお気持はありませんかと訊かれた。

 ・・・・あるいは、挨拶代りにちょっと話してみただけで
 あったのかも知れない。
 ただ、日本経済新聞とは私は縁があった。
 昭和30年に、『 プールサイド小景 』で芥川賞を受賞したあと、
 日本経済新聞から依頼があって、夕刊に『 ザボンの花 』という
 小説を書いた。新聞小説として成功したかどうかということは別として、
 作者としては気持よく仕事が出来た。いい思い出が残っている。

 ほかの新聞からいわれたのなら・・・
 多分、引込み思案の気分の方が強く働いただろう。・・・ 」

はい。このような思い出が書かれておりました。ということで、
『夕べの雲』の次に私が読むのは『 ザボンの花 』にします。
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父母に宛てた手紙。

2024-12-17 | 手紙
途中で読みかけだった庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)を
手にとる。今回は『山芋』と題する箇所を読みました。

お母さんが、兄弟に手伝ってもらう箇所からはじまります。

「 ・・ある晩、台所で夕食の支度をしていた細君が安雄を呼んだ。
  『 なに? 』
  『 ちょっと手伝って 』
  『 はい 』
  安雄は部屋から出て来た。
  『 なにするの? 』
  『 あのね。とろろ、すって頂戴 』
  細君はすり鉢で山芋をすっていたのだが、忙しくなって来た。 」(p199)


はい。こうして弟も呼ばれて、主人公もでてきて・・・・
そうこうしているうちに、仙台地方とのとろろ汁談義になって、
そうしているうちに、橘南谿(たちばななんけい)の『 東遊記 』
の記述を思い浮かべるのですが、その『東遊記』を読んだのが

『 彼がこの一節を読んだ時は、戦争中であった。 』(p207)
と話題が、自然な流れとして転換してゆきます。
そこに、一冊の手帳が出てきます。

「これには、彼が海軍の予備学生隊にいた時、家族に出した便りの
 写しが全部入っている。ずぼらな性質の大浦が、どうしてこんな
 まめなことをしたのか、よく分からない。
 生きて帰ることが分かっていたら、おそらく自分の書いた便りの
 写しをいちいち取るというような、面倒なことはしなかっただろう。」
                             (p208)

こうして、その家族への手紙が引用されてゆくのでした。
そこには、体の具合の悪いことを書けなかったとあります。

「だが、そういうことは、父や母に宛てた手紙には書けない。
 ひとことも書けない。・・・・
 そこで、家へ出す手紙の文面は、次のようなものになった。

『 こちらは別に変ったことはありません。
  先日は僕の誕生日でしたが、次の日に思い出しました。
  学生隊の生活にも少しずつ馴れて来ました。
  それにこの頃は、来た頃にくらべてだいぶ気候がよくなりました。
  お昼すぎの暖い時には、もう春が近くなったと思うことがあります。
  そんな日には、富士がやわらかく霞んで、
  上の方だけ浮いたように見えます。
  風邪も引かずにいますから、御安心下さい 』

 嘘はちっともついていない。ただ、
 いうと心配するようなことは書かないだけのことであった。 」(p212)

この『山芋』の章は、最後に
『 とろろ汁をこしらえた次の日に植木屋の小沢さんが来た。 』(p214)
ということで、小沢さんの話し方を紹介してゆくのでした。

「 小沢は山紅葉の下に立って、枝を見上げていた。
  『 いい色に紅葉を 』と小沢はいった。

  この人の言葉を文字に写すのはむつかしい。
  決してひと息に全部いってしまわないで、
  何度も立ち止まる。そこへ『 あー 』でもないし、
  『 えー 』でもないが、字に書くとすればそう書くより
  ほかない声がはさまる。それも極く自然にはさまる。‥」(p214)

 こうして文庫本にして、12ページほどが植木屋の小沢さんとの
 話になって終るのでした。

 何だか次へと読みすすめるのが、もったいなくなるような
 『 山芋 』の章でした。ということで昨日はこの一章のみ読みました。



そういえば、ちょうど
重ね読みをしていた庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)のなかに、
兄庄野英二をとりあげた箇所がありました。忘れがたい箇所です。

それでも私は忘れっぽい。時が経過すると、探せないかもしれない。
そのロスを省くために、長くなりますが、ここに引用しておくことに。

「 或る日、思いがけず兄から電話がかかって来た。
  父が出た。いま、広島にいますといったから驚いた。
  次に、昨日、着いたところで、いま、陸軍病院からかけている
  という。どうした?
  腕に負傷したけど、大したことはない。近いうちに大阪の病院へ
  転送になるから、見舞いに来ないでほしい。
  わざわざ来てくれても行き違いになるといけないから。
  ああ、分った。お母さんにもそういっておいて。
  ああ、そんなら大事にせえといって父は電話を切った。

  電話のそばで父のやりとりを聞いているだけで全部分った。
  父と母に心配をかけるのをふだんから最も怖れていた兄は、
  先ず元気な声を父に聞かせて安心させておいてから、
  負傷して内地に送還されたことを小出しに報告したわけである。

  『 ロッテルダムの灯 』の中の『 母のこと 』には、
  来ないでとあれほどいっておいたのに、電話をかけた翌々日、
  父が広島へ面会にやって来て、上半身ギブスに包まれた兄に
  いろいろ質問するところが出て来る。ここで再び兄は
  母が来ないようにと父に頼むのだが、
  その数日後に母が病室へ現れる。

     母も看護婦に案内されて私の病室にくるなり、
     『 ごめんよ、かんにんしてよ、痛かったでしょう 』
     涙声で母の郷里の徳島なまりのアクセントでいいながら
     かけよってきた。
     ごめんよ、かんにんしてよ、と母が私になんで謝っているのか、
     とっさに私にはわからなかった。
     が、私の頭のなかで何秒か考えが回転してから、
     やっと判断することができた。
     それは私が戦場で重傷を負ってあやうく死にかけたことを、
     母はまるで自分の責任のように感じて、
     そんなもののいいかたをしたのであった。 ( 「母のこと」 )

  私たち兄弟にとって
  在りし日の父母の姿がありありと目の前に浮ぶ場面である。・・ 」
                   ( p399~400 新潮文庫 )


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臨海学校

2024-12-16 | 安房
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)に
庄野潤三長女の「私のお父さん」が載っておりました。
そこに「 夏の思い出 」があるのでした。

「 父は、10月に生まれた私に『 夏子 』と名付ける程夏が好きでした。
  それは、入道雲が湧き上り生命の躍動する様が好きという他に、
  海で泳ぐのが大好きだからです。

  帝塚山(てづかやま)学院の初代院長だった祖父の庄野貞一は、
  夏休みに全校生徒を臨海学校に連れてゆき、
  丈夫な体と心になるように遠泳させました。

  父は、夏になると自分の家族を引き連れて
  外房の海岸に行き、小さな宿に三日程滞在して
  朝から晩まで真黒になるまで遊ばせました。
  小舟を借りて沖を遠泳させられた事もあります。

  お蔭で私達姉弟は、魚のように泳ぐし、
  荒海もこわくありません。
  昼には、近くに住む近藤啓太郎さんのご家族が合流し、
  奥様の作られた豪快なお弁当をたいらげました。

  遊び疲れて帰る日には、太海駅前の田丸食堂の
  カツ丼をとどめにいただき大満足。
  どんな時でも食べる事がついてくるのが我家流です。 」(p71~72)


はい。まだまだ続くのですが、引用はここまで。
写真はそんなに多く載っていないのですが、
古い写真に夏子さんが写っていると、
大人たちに交じって、そこだけ清水が湧き出しているかのように
真っ白で真新しく思えてくるから不思議です。

この本には、最後に「 庄野潤三全著作案内 」があり、
初心者には、お誂え向きの著作コメントを読むことができます。
今日はさっそく、後半生の本の中から選び注文したところです。
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