谷沢永一著「十五人の傑作」(潮ライブラリー)の
はじまりは今西錦司。その文中で、谷沢氏は開高健を引用してる。
その引用文は、開高健著「言葉ある曠野」(文藝春秋)の
なかにはいっている「カゲロウから牙国家へ」からの引用とあります。
さてっと、未読でしたが、開高健著「人とこの世界」(中公文庫)は
本棚にあります。今西錦司の「カゲロウから牙国家へ」はそこにある。
読み始めるのですが、その文のはじまりで、もうわたしは先へと、
読みすすめませんでした。はい。ではそのはじまりを引用。
「今西博士の名を知ったのはかれこれ十年ほど以前のことである。
『日本動物記』という本を読んで知った。これはたしか四巻本で、
光文社から出版されたのだったと思う。憂鬱で苦しんで字も書けねば
人にも会えないでいる私に富士正晴氏が手紙で推奨してきた幾冊かの
薬用書籍のなかにそれが入っていた。憂鬱の発作に抵抗するには
鳥獣虫魚とか、失われた大陸とかの本がいいようである。
富士氏は昔から京都のいろいろな学者と接触が深いから今西博士の
人格や業績をよく知っていて私に推奨してくれたにちがいない。
・・・」(文庫p173)
はい。憂鬱な開高健は、これ以上読まないことにして、
ここに登場する、今西錦司への連想を楽しむことに。
思い浮かんだのは、寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)。
ここに、「京ことばに生きる男たち」という文があったのでした。
そのはじまりは、今西錦司らのある座談会の場面からはじまります。
そこで寿岳さんが指摘するのは
「今西、梅棹両氏には方言で話す能力とでも言いたいものが
非常にあらわに存在する。」(p28)と観察して楽しんでおられる。
うん。全文引用できないのは残念ですが、
最後の方をちょこっと引用しておきます。
「・・人はあることに気がつくに違いない。
それは・・学問が、きわめて濃厚な個性をもっている
ということである。その文明論、その研究方法、発想、
人がおぼめかしてひそめていたものを、堂々と白昼明らかにして、
思いがけない方法でみごとな体系につくり上げてゆく力。
それは関西の力とでも言いたいものがある。
・・・・・
いわば大地に足をふんばって、生きている力をフルに発揮する
ところに出てくる学問、たくましい現実を構想する力、
そんなエネルギーがぎらぎらしている感じがある人たちである。
・・・・・・
私は思う、関西のことばを大切にし、時には第二標準語論にまで
発展するくらいの気構えと誇りで勝負するこの人たちは、
すなわち、京都弁でものごとを考えている人たちである。
絶対に共通語の語り口からは生まれない何ものかがあるのではないか。
いわば土地のことばによる土着の思想の世界に実ってゆく学問
と言ってよいであろう。ほんとうは私はそんな世界にあこがれて
いるのである。・・・・」(p37)
はい。あこがれがあれば・・。
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