和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ともかくも五十年を単位として

2022-04-03 | 柳田国男を読む
柳田国男の『涕泣史談』は、泣くことがテーマのお話です。
そのはじまりは

「いささか気まぐれな演題を掲げたが・・・・
 今まで諸君の考えられなかった問題の中から択び出し、
 印象を深めたいのが底意である。
 歴史の学問は、常に『時のある長さ』を出発点とする。
 ・・・」(新編第8巻 p104)

私が気になったのは年齢のことでした。
それに近い箇所を並べてみます。

「古人はこの『時の長さ』の単位を普通には
    百年とし、モモトセの後と語っていた。」(p106)

「・・・ともかくも五十年を単位として、その前と後とを
  比べるということになると、話がずっとしやすくなる。

 何より都合のよいことは、前の事を知っている者、
 直接自身で見聞しているいわゆる故老の数が相当多く、
 いい加減な自説に有利なことを言おうとしても、
 周囲にそんなことはないと批評する者がいくらもいる
 ということである。また怪しい節があれば
 別の人に聴いて確かめることもできる。
 すなわち我々は安心して、故老の知識を
 利用することができるのである。
 
 ところが現在はむしろそういう便宜が多いために、
 かえってこれを粗末にするという状態である。・・・」(~p107)

日本の田舎のオールドマンへの言及や、

「日本の田舎には、そういう人が元は必ず若干はいた。
 概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと、
 うかとはしゃべるまいとするような人にこれが多かった。

 それが人生の終りに近づくと、
 どうか早く適当な人をつかまえて、
 語り伝えておきたいとアセリ出すのである。
 ・・・・
 どちらかといえば老女の中に、多く見出される
 ようにも言われている。・・・」(p108)

切り返すように、柳田さんは若い人への願望もかたります。

「翻(ひるがえ)ってこれからさきの五十年ないし百年のために、
 もう少し多く良い『故老』を作ること、すなわちそういう心持をもって、
 この眼前の人生を観察しておいてくれるような若い人を、
 今から養成して行くということの必要が認められる点も大切である。

 書物は今日ほど容易に作られる時代はないのであるが、
 さりとて仮に現代人の全力を集めても、果して今日
 我々の楽しみ悦び、または苦しみ悩んでいる生活の実状を、
 さながらに後世に伝えて行く見込みがあるかというと、
 それはまだ然りとは答え得られない。

 未来から今日を回顧して、子孫後裔に誤らざる判断を下させ、
 同情を起させるためには、今からこの現実の生活をよく
 感銘しかつ記憶して、老いて後銘々の愛する人々のために、
 詳しく語り得る者を作っておかなければならぬ。・・・」(p109)


うん。長いのですが、これがはじまりの箇所でした。
ここから、泣くというテーマにはいってゆくのですが、
そこにも、『五十年』という箇所がでてきます。

「・・・旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いているのを
 聴くほど、いやなものは他にはない。

 一つには何で泣いているのかという見当が、付かぬ場合が
 多いからだろうと思うが、旅では夜半などはとても睡ることが
 できないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。」


こうして、泣くことの流行をさぐって、あちらへいったり、
こちらへいったりするのですが、やはり具体的な箇所は印象に残ります。
最後に2つを引用しておくことに。

『私の旧友国木田独歩などは、
 あまりに下劣な人間の偽善を罵る場合などに、 
 よく口癖のように『泣きたくなっちまう』と言った。

 今でも私たちは折々その真似をするが、その癖お互いに
 一度だって、声を放って泣いてみたことはないのである。

 すなわち泣かずにすませようとする趣味に、
 現在はよほど世の中が傾いていると思われるが、
 以前はあるいはこれと正反対の流行もあったらしいのである。』

こうして、柳田さんは、五十年を振り返っております。
そこにでてくるのが

「・・・二十歳の夏、友人と二人で、
 渥美半島の和地(わじ)の大山へ登ろうとして、
 麓の村の民家でワラジをはきかえていたら、
 二三十人の村の者が前に立った。その中から婆さんが一人、
 近くよって来ていろいろの事を尋ねる。どこの者だ、
 飯は食ったかだの、親はあるかだのといっているうちに、

 わしの孫もおまえさんのような息子があった、
 東京へ行って死んでしまったというかと思うと、

 びっくりするような声を揚げて、真正面で泣き出した。
 あの皺だらけの顔だけは、永遠に記憶から消え去らない。

 それからまた中風に罹って急に口が不自由になった親爺が、
 訪ねて来てたちまち大声に泣いたことも忘れられない。

 日頃は鬼みたような気の強い男だったから、
 かなしいというよりは口惜しいという感じであったが、
 それがまたこの上もなくあわれに思われ、
 愚痴を聴くよりもずっと身にこたえたものであった。
 ・・・・・」(~p119)

こうして、まだまだ『泣く』歴史が語られてゆきます。 







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