映画「千年の愉楽」を劇場で見た。
交通事故死した若松孝二監督の図らずも遺作になってしまった。
なぜか末期に多作となった監督が、中上健次の小説をベースにつくった。自分も平成3年から和歌山にいたことがあり、その時に南紀から東紀州へ何回か仕事でいった。非常に特異な集落であった。
その特異性を小説にまとめているのが中上健次だ。和歌山から南紀に向かう電車で彼の作品をむさぼり読んだ。問題もあるが、ちょっと普通と違う性の意識を強く感じた。そのテイストが前面に映画の中にあふれている。
若松が、中上作品を映像化するのにふさわしい場所として選んだのが、眼下に美しい尾鷲湾を見下ろし、背後には紀州の深い緑が連なる時間が止まったような須賀利という集落である。いかにも南紀らしい海辺の集落で撮影して抜群の作品を生んだ。
紀州のとある路地。ここで産婆をしてきたオリュウノオバ(寺島しのぶ)は最期の時を迎えている。オバの脳裏には、オバが誕生から死まで見つめ続けた男たちの姿が浮かんでいた。美貌を持ちながらもその美貌を呪うかのように女たちに身を沈めていった半蔵(高良健吾)。刹那に生き、自らの命を焼き尽くした三好(高岡蒼佑)。路地を離れ北の大地で一旗揚げようとするも夢破れた達男(染谷将太)。オバは自らの手で取り上げた彼らを見つめながら、あるがままに生きよと切に祈り続けた。オバの祈りは時空を超え、路地を流れていく……。
最初に若松映画常連の井浦新が血まみれで倒れているシーンが出てくる。何これ?という感じだ。
最初映画が始まってから意味がわからないまま映像を追っていく。佐野史郎と寺島しのぶが夫婦で寺島がお産婆さんであることがわかってくる。時代背景は昭和のようだが、あえてどの時期というのはわからない。海岸に面する漁村の風景は昭和20~30年代からタイムスリップしていないので、いかようにも解釈ができる。
そうしていくうちに美少年半蔵が身重の妻がいるにもかかわらず、後家さんなど女に狂っていく姿を映していく。若松ワールドだ。そういえば高良健吾は中上健次作の「軽蔑」で紀州新宮をロケした作品に出ていた。あの映画も強烈な印象を残したが、ここでも周りの女をやりまくる役を演じている。
中途半端に人生を生きるモテ男を演じさせると天下一品だ。
そのあとが高岡蒼佑だ。彼が主演した映画「さんかく」はよくできた映画だった。その他時代劇などでも存在感を示していたが、宮崎あおいとの離婚問題やネット事件などで騒がれ、最近は鳴りをひそめていた印象だった。この映画では元不良少年とも言われる彼らしさが光る。この映画の男性役はやはり高良健吾、高岡蒼佑にしかできない役だ。
逆に「ヒミズ」の染谷は前2人の出るシーンが多いせいか、存在感がここでは薄い。正直彼でなくてもよかった気がする。
寺島しのぶは彼女にしては普通かな?でも彼女にとっても若松監督がいなくなったのは大変な損失だと思う。出演作品を増やすたびごとにそれを肥やしとして実力を伸ばしている。今回ある表情が昔から自分がお世話になっている彼女のオジサンにそっくりだということに唖然とさせられた。そういえば寺島しのぶのお母さんも生まれは御坊だったよなあ、そんなことを思い出した。
横溝正史の映画「悪魔の手毬唄」でベースとなる男は、古い村落で好き放題に村の若い女性を手篭めにして子供をそれぞれにつくっていた。横溝正史の映画では男はその顔を示さない。この映画では同じような遊び人の男が何人もいる。そして女に狂う。それが血筋であるかのように語られる。逆に女も狂いまくる。現代と比較して、昔の村落の方が性的開放感があったのであろうか?ふとそう思う。
交通事故死した若松孝二監督の図らずも遺作になってしまった。
なぜか末期に多作となった監督が、中上健次の小説をベースにつくった。自分も平成3年から和歌山にいたことがあり、その時に南紀から東紀州へ何回か仕事でいった。非常に特異な集落であった。
その特異性を小説にまとめているのが中上健次だ。和歌山から南紀に向かう電車で彼の作品をむさぼり読んだ。問題もあるが、ちょっと普通と違う性の意識を強く感じた。そのテイストが前面に映画の中にあふれている。
若松が、中上作品を映像化するのにふさわしい場所として選んだのが、眼下に美しい尾鷲湾を見下ろし、背後には紀州の深い緑が連なる時間が止まったような須賀利という集落である。いかにも南紀らしい海辺の集落で撮影して抜群の作品を生んだ。
紀州のとある路地。ここで産婆をしてきたオリュウノオバ(寺島しのぶ)は最期の時を迎えている。オバの脳裏には、オバが誕生から死まで見つめ続けた男たちの姿が浮かんでいた。美貌を持ちながらもその美貌を呪うかのように女たちに身を沈めていった半蔵(高良健吾)。刹那に生き、自らの命を焼き尽くした三好(高岡蒼佑)。路地を離れ北の大地で一旗揚げようとするも夢破れた達男(染谷将太)。オバは自らの手で取り上げた彼らを見つめながら、あるがままに生きよと切に祈り続けた。オバの祈りは時空を超え、路地を流れていく……。
最初に若松映画常連の井浦新が血まみれで倒れているシーンが出てくる。何これ?という感じだ。
最初映画が始まってから意味がわからないまま映像を追っていく。佐野史郎と寺島しのぶが夫婦で寺島がお産婆さんであることがわかってくる。時代背景は昭和のようだが、あえてどの時期というのはわからない。海岸に面する漁村の風景は昭和20~30年代からタイムスリップしていないので、いかようにも解釈ができる。
そうしていくうちに美少年半蔵が身重の妻がいるにもかかわらず、後家さんなど女に狂っていく姿を映していく。若松ワールドだ。そういえば高良健吾は中上健次作の「軽蔑」で紀州新宮をロケした作品に出ていた。あの映画も強烈な印象を残したが、ここでも周りの女をやりまくる役を演じている。
中途半端に人生を生きるモテ男を演じさせると天下一品だ。
そのあとが高岡蒼佑だ。彼が主演した映画「さんかく」はよくできた映画だった。その他時代劇などでも存在感を示していたが、宮崎あおいとの離婚問題やネット事件などで騒がれ、最近は鳴りをひそめていた印象だった。この映画では元不良少年とも言われる彼らしさが光る。この映画の男性役はやはり高良健吾、高岡蒼佑にしかできない役だ。
逆に「ヒミズ」の染谷は前2人の出るシーンが多いせいか、存在感がここでは薄い。正直彼でなくてもよかった気がする。
寺島しのぶは彼女にしては普通かな?でも彼女にとっても若松監督がいなくなったのは大変な損失だと思う。出演作品を増やすたびごとにそれを肥やしとして実力を伸ばしている。今回ある表情が昔から自分がお世話になっている彼女のオジサンにそっくりだということに唖然とさせられた。そういえば寺島しのぶのお母さんも生まれは御坊だったよなあ、そんなことを思い出した。
横溝正史の映画「悪魔の手毬唄」でベースとなる男は、古い村落で好き放題に村の若い女性を手篭めにして子供をそれぞれにつくっていた。横溝正史の映画では男はその顔を示さない。この映画では同じような遊び人の男が何人もいる。そして女に狂う。それが血筋であるかのように語られる。逆に女も狂いまくる。現代と比較して、昔の村落の方が性的開放感があったのであろうか?ふとそう思う。