19世紀から欧米の租界があった上海は混沌とした都市として栄えた。いろいろな国の人々が住みついていた。そんな時代の上海のことを書いた本を昔から沢山読んでいた。そして1982年に上海に行き、錦江飯店に数日泊まる。
1920年代の上海にはジャズが流行っていたという。
1982年に行ったときもホテルのフロアーで観光客相手のジャズバンドがスローテンポで弾いていた。オハイオ州から来たというアメリカ人とダンスをした。植民地風の建物の並ぶバンド地区も散策した。その数年後にまた行ったら、高架の高速道路が走り、浦東地区には大型商業施設も出来、すっかり近代的な街になっていた。上海の近郊には日本の援助で宝山製鉄所もできている。ある時は揚子江の中流から一晩かけて上海近くまで船で下って来たこともある。
何故か上海と聞くと心が騒ぐ。
昨日、狼皮のスイーツマンさんのミステリー小説をご紹介した。その小説には1920年代の上海の様子が描写されている。下にその一部を引用する。
・・・・・上海の街路は急に幅が広くなったり狭くなったりする。このでたらめな規格の道路を縫って路面電車が窮屈そうに走り抜けていく。路面電車を追い越していくリムージンには、シナモンと叔母君、さらには見送りに行くといって乗り込んできた近所の有閑夫人たちの姿があった。リムージンを運転しているのは叔母君だ。シナモンは名残惜しそうに車窓から街並みを眺めていた。
黄浦江左岸の船着き場をバンドという。バンドは上海の金融街であった。サッスーンハウス(現在の和平飯店)、上海海館などの石造建築物群が建ち並ぶ。石造建築物群にはネオバロック様式、ネオルネッサンス様式、アン女王復古様式などがあり、英領植民地に多く建造されたものだ。
人や車で麻痺した街路を警官達がてきぱきと誘導する。警官達は中国人のほかに、インド人、ベトナム人、ロシア人といった外国人もいた。インド人はイギリス人が、ベトナム人はフランス人が植民地から呼び寄せ雇った。ロシア人はロシア革命で亡命してきた没落貴族だった。
上海の空気は淡いセピア色で、市街地の南を流れる黄浦江は、セピア色をもっと濃くした土色をしている。黄浦江を誰も大河だとはいわない。けれども、大型船が何十隻も停泊できるほどの川幅と水深を有している。米英列強は、租界にいつ襲いかかってくるか判らない中国政府軍や反乱軍に備えて、何隻かの巡洋艦を黄浦江の真ん中にたえず停泊させていた。・・・・・・
このミステリー小説は殺人事件の謎解きの面白さだけではない。1920年代前後のイギリスや中国の歴史が活き活きと描かれている。
第一次大戦中にはイギリスの諜報機関がアラビアのロレンスをペルシャに送りこみ敵国ドイツの同盟国トルコを牽制させたことも書いてある。それを下敷きにして、イギリスの諜報機関から中国へ派遣され日本軍の様子を伺っていた考古学者が重要な役で登場する。
一方、蒋介石の中国では各地に軍閥が居て「将軍様」と呼ばれて地方を統治していた。ある軍閥は日本軍と関係を結び、後の上海事変に続く、中国侵攻の足がかりになっていた。そんな背景もこのミステリー小説にはきちんと織り込んである。日本軍に招待された「将軍様」も登場するのだ。
すぐれたミステリー小説とは描いてある歴史や文化も興味深い。
伯爵令嬢シナモン「飛行船の殺人」(http://r24eaonh.blog35.fc2.com/)もその様なミステリー小説なのです。上海の興味のある方へお勧め致します。(終わり)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人