後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

僕の若い友人のブログー「dr yuki の部屋」をご紹介します

2009年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

彼は正義感の強い直情径行の青年です。若いときはヤンキーでした。そのうち航空自衛隊に入って真面目になり除隊後は会社に入社し、ある商品の営業で抜群の成績を上げます。家庭も持ち、幸せな生活を続けます。しかし成功しすぎると人間は時々考え違いをするものです。職場も家庭も失いました。現在は犬と暮らす独り者のようです。その彼がブログを書いています。毎日沢山書きます。悲劇的な体験を情熱的に書くので若い読者が集まり、毎日20、30人の若者からコメントが投稿されます。若い人に人気のあるブログで毎日1000人以上の人々が読んでいると想像しています。

1年以上前に彼のブログを「みんなの足跡」というSNSで知り読みました。彼の強烈な愛国心と社会正義感に共感を覚え、友人になって下さいと申し込みをしました。それ以来、個人的なメールの交換も数回しました。そして1年が経ちました。飽きやすく、薄情な私はなんとなくご無沙汰がちになり最近は交流が途絶えがちになっていました。その彼から以下のようなメールが来ました。短いメールですが私にとっては踊り上りたいほど嬉しいメールです。

========dr yuki さんからのメール=============

藤山杜人 様(小生の本名が書いてありました)
拝啓、お体の具合が悪いとの事を、
前にプログで拝見致しました。来月手術をされるという事で
何とも・・・遠くながら 心配致しております。
早く直ってヨットに僕も乗せて下さい。
お願い致します。
私は現在は足元はまだ不安定でございますが、
自分の道を見つけ精進しております。
藤山様が早く回復する事を心よりお祈り致します。
敬具
ゆき(ゆきは筆名ですが、本名が書いてありました)
追伸:メールアドレスが変わりました。古いのは廃棄して下さい。

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http://fanblogs.jp/dryuki/ が彼のブログのURLです。高年齢の方々にも是非お読み頂きたい内容の深いブログです。特に7月22日に書いた「これが侍だろう?」とその下の記事の、「血縁の因縁」には深く考えさせられます。

それから彼の少し古い記事も開けて見て、そこに投稿された数多くの若者らしい人々のコメントをご覧下さい。皆が真剣に人生を考えて生きているのです。感動すると思います。よく老人は、「最近の若い者は気迫が無い、努力が足りない」 などと非難しますが、とんでもない事です。いずれにしても、そういう若者が居る限り日本の将来は心配する必要が無いと思います。文章は若者の言葉なので読み難いところもあります。しかし、色々な意味で感動的なブログです。お読み頂ければ小生も嬉しく思います。(終わり)


ムクゲの花のこと、

2009年07月24日 | 写真

私はこのコンピューターの前に毎日、数時間座っています。目の前のガラス窓の向こうには6月から咲きだしたムクゲが毎日つぎからつぎへと花を咲かせます。あまり咲き過ぎるので枝を剪定しています。何十年か前に家内が30cm位のムクゲの木の苗を買ってきたものを庭に植えたものです。この写真のムクゲがいつの間にか増えて狭い庭に4本の大きな木となり同じように花を毎日咲かせています。夏の間中、咲き続けます。夏の間中といえば庭の水盤のスイレンの花も間をおきながら一輪ずつ可憐な花を咲かせます。夏の間は花が少なく、ムクゲとスイレンの花だけです。それでもムクゲが豊かに咲き誇りますので毎日楽しんでいます。皆様も写真でお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終わり)

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鰯の頭も信心から、そしてキリスト教文化との比較

2009年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

若いころ、ある宣教師から英会話を教わっていた。ある時、宣教師と学生数人で田園地帯へハイキングへ行った。

田の畦道に平な大石があり、腰を下ろすのに丁度良い。歩き疲れた皆がごく自然に座り、しばし休憩をする。すると一人の老婆が寄って来て、手を合わせ我々を拝むようなしぐさをする。その意味が分からない。と、大男の宣教師が顔を赤らめて飛び上がった。我々もつられて、立ち上がり、大石のそばから離れる。老婆は何事も無かったように大石の前に2、3本の野の花を供え、膝まづいて祈り始めた。それを見た宣教師が英語で説明してくれた。「あの大石は田の神様なのでしょう。今年も豊作になるように祈っているに違いありません。我々は神様の上に座っていたのです」。

大男のアメリカ人宣教師は我々に老婆の信仰を大事にしなさいと話した後、「どんな信仰心も立派なのです。信仰の対象に優劣がないのです」 と強く話す。

あの場面は一生忘れられない。その宣教師の名前はウイリアムズさんと言った。もう50年以上前の仙台の近くの田園でのことであった。

明治維新の文明開化以来、日本人の欧米崇拝は時々度を過ごす。第二次大戦で負けた後は何でもアメリカ一辺倒になる。本来、優劣の無い民族文化や宗教の問題でも日本人は過度な劣等感を持っていた。高度成長をしてからはそんな考えも消えて行ったが。

しかし現在でも知識人の書いたものに、「多神教の日本古来の宗教よりもキリスト教の方が優れている」 という評論を見ることがある。挙句の果ては、キリスト教から生まれた西洋の絵画は日本の絵画よりも上級だなどと訳の分からない話をする人も居る。

文化の一部である科学技術には明確な優劣がある。その優劣は誰の目にも明白である。しかし科学技術以外の文学、宗教、芸術、など全ての分野には優劣は無い。そのように信じている欧米の知識人が多い。

自分は、1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けた。それ以来、宗教には優劣が無いと確信が持てるようになった。問題は「信仰と行為の関係」なのだ。

強くキリスト教を信じ、毎週教会へ通っている欧米人が他人を傷付けることを平気でする。戦争では熱心なキリスト教信者が平気で残虐行為をする。

しかし田の畔道の大石に祈っていた老婆の日常生活はどうだったのだろう?時々そんなことを考える。きっと心優しい人間で他人を傷付けることはしなかったかも知れない。あるいは逆に冷酷な性格で毎日 嫁いびりをしていたのかも知れない。行為の優劣は有っても、信仰の対象に優劣は無い。そのことを私は時々考えています。あなたは、「鰯の頭も信心から」と他人の信仰の対象を少し見下したことはありませんか? 私は時々他人を見下すことがあります。しかし、そうしないように努力しています。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  藤山杜人