今日の福音書の朗読は「マルコによる福音書」の6・1-6でした。
分かりやすく省略して書きます。イエスがある時、故郷のナザレに帰りました。安息日が来たので会堂で説教をします。すると故郷の人々は驚いて「彼はこのようなことをどこから得たのだろう!大体、彼は大工ではないか?それにマリアの息子でヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという兄弟がいるのだ。」というような意味のことを言いあって誰もイエスの説教を理解しようとしなかったのです。そこではイエスは少しの奇跡しか起こさず故郷を後にしました。
以下は私の想像です。イエスは子供の頃、結構悪戯っ子で仲間の少年たちと遊びまわっていたのかも知れません。そんな当時の頃をよく知っている故郷の人々が彼の説教なんてバカバカしくて、真面目に聞こうとしないのは当然でしょう。
少年の頃は普通で20歳過ぎてから急に才能が伸びて偉い人になることは良くあります。もちろん幼少の頃から才能が周りの人々に称賛されている人もいます。イエスは前者だったので、故郷では尊敬されず、苦労したのです。故郷ではわずかの奇蹟しか起こさず、そうそうに去って行きました。
さてもう一つの部分はイエスの多くの兄弟がいたということです。これは神の力でマリアが身籠り、イエスを生んだというイエスの神聖なイメージを壊しています。イエスに兄弟が居たとは4つの福音書の全てに書いてあるので事実だったのでしょう。
この兄弟という記述の解釈が宗派によって違います。プロテスタント宗派では、文字通り本当に居たと信じています。カトリックでは当時のその地方では従兄妹(いとこ)という言葉が存在していなかったのでイトコやハトコのことを意味すると信じています。すなわち、本当はイエスは独り息子だったと信じているのです。
もっと面白い解釈はギリシャ正教の解釈です。イエスの父のヨゼフは以前に結婚していて連れ子を何人か持っていた。その後やもめ暮らしをしていたが、年の離れた若いマリアと結婚してイエスがうまれた。したがって異母兄弟が一緒に住んでいたと信じています。
今日の山本量太郎神父様のお話では、この「兄弟」は神を天の父と信じている全ての信者と解釈するのも良いということでした。
どの解釈も神学者が苦心に苦心を重ねて研究してきた結果なので簡単に否定は出来ません。
しかし毎年、この時期になると上に書いたような福音書の箇所を朗読します。その度に神の右の座にいるイエス様のこの世での人間らしい苦労が偲ばれて、とても身近に、親しく感じられます。福音書にはこの他にも人間的なドラマが沢山書いてあるので興味深いものです。(続く)