後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

懐かしい故郷の風景・・・片平丁、お霊屋下、鹿落坂、大年寺山、愛宕山

2012年10月18日 | 写真

伊達正宗の廟所は経ヶ峰という森にあります。

その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。

片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。

霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。

私は22歳で仙台を出るまで、その向山に住んでいました。

家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺があります。そのお寺のある山は大年寺山といいます。

家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。

経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。

故郷の景色は変わりませんが家族も親類も恩人、知人も居なくなってしまいました。

今回の旅では向山までタクシーで登って、その後は東方向へ2kmほど歩いて愛宕橋から土樋へ抜ける散歩を楽しんで来ました。故人を偲びながらの散歩でした。

つまらないとは存じますが下に写真をお送りします。

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タクシーのフロントグラスの向こうに見える赤レンガの建物は私が1958年に卒業した東北大学の金属工学科の建物です。あれから茫々54年になります。この辺は片平丁と言います。

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金属材料研究所の前の道を西に抜けると片平丁の大通りにぶつかります。その左の角に三角形の狭い公園があります。戦争前から存在していた公園でヨーロッパ風の小さな公園です。それが現在でも存在していたのです。上の写真のように、流石に石材の柱が傷んでいますが。

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上の写真はお霊屋橋の欄干です。右手に正宗の廟所がある経ヶ峰の森が見えます。欄干の間には広瀬川が見えます。そして経が峯の裾を向こうの方へ登っている道が鹿落坂です。

お霊屋橋は正宗の廟所への入り口なので白い石材で綺麗に出来ていて、下の写真のように欄干の上には石燈籠があります。

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橋を渡って、左に曲がるとやがて鹿落坂になります。

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上の写真が鹿落坂です。昔は車道が狭くて、左側に広い歩道がついていて人間が下の広瀬川の景色を見ながら登れたのです。車道にはバスだけがたまにしか通りません。

月夜の夜にカジカの鳴き声を聞きながら叔父さんに肩車をして貰って登ったことを鮮明に憶えています。昭和15年のある夏の夜でした。その叔父さんもとっくに亡くなりました。

向山を歩き、愛宕橋に出て大年寺を振り返って撮った写真を下に示します。066

鉄塔はテレビ塔で、仙台の民間放送会社が使っています。NHKは八木山のほうにテレビ塔があります。

下は愛宕橋です。

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橋の右側に愛宕山の森が見えます。橋の向こうが大年寺山です。

そして下は愛宕橋から見降ろした広瀬川です。

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この写真の場所には貸しボート屋があり随分何度も乗ったものでした。当時は生活排水をそのまま広瀬川へ流していたのでいつも腐ったような臭いがした広瀬川でした。

現在は貸しボートの影も形もありません。時代の移り変わりにしばし感慨を覚えます。

さて皆様にはこのような故郷の思い出があるでしょうか?

ある筈です。

日本中何処にでも故郷はあるのです。そして故郷の思い出は財産です。とくに高齢者になってみると、「故郷の思い出」こそが大切な財産になるのです。

そのような皆様の思い出をコメントにご投稿して頂ければ大変嬉しく思います。


友だちへの追悼・・・疎遠だった私のお詫び

2012年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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数日、逡巡していました。こんな私的なことをブログに書くべきかと。

しかし同じような思いをしている人々も案外多いかも知れないと考え書くことにしました。

先日、仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。

若くして仙台を捨てるようにしてアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。

今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。

その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。

その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私の薄情さがこたえました。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。

まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮本量君ともよく一緒に遊んだものです。

君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。

内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。

大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。

村木良彦君。きみは4年前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。

テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な旅番組を沢山つくりましたね。

仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無かったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を4年前に掲載しましたよ。

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。

そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。

早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。

その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。

今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。

そして亡くなったことも知らないもっと多くの愛宕中学校の2回生の方々の冥福をお祈りいたします。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。

後藤和弘

(上に掲載した写真は昔の友だちを偲びつつ今回撮って来た写真です。愛宕橋の上から広瀬川を見た風景です。はるか向こうに宮沢橋が見えています。)