壇ノ浦で平家が東国の武士の源頼朝一派の義経に敗れ滅んだ背景には地方における小形領主を中心にした武士団の成長があったのです。
その実態は学校の歴史教育では詳しくは教えません。単に、「地方に武士が現れ、それを支配する領主が育っていったのです」という一行で終りです。
そこで八王子市の近辺ではどのような名前の領主が居たかを調べるために八王子市郷土資料館の展示を見てきました。
展示が武力集団を有する小形の領主の名前と歴史を簡潔に紹介しています。
馬を育てる牧場の主の小野氏・由比氏・立野氏・小川氏・石川氏が平安末期には多摩地方の領主でした。それが後に武蔵七党の一人の横山氏になるのです。そして鎌倉初期に横山党は37派に別れるのです。これらの名前は現在、多摩地方に地名として残っています。
その後は勢力の盛衰があり、長井氏、川口氏、由井氏などが勢力を持ちます。
しかし14世紀の後半に武蔵国守護代に任命された大石氏が広大な領地を持つようになり、武蔵国の西部と相模国の大部分の支配者となったのです。大石氏は香月城や滝上城の建設者として後世に名が残ります。
しかし小田原城に本拠を置く北条早雲とその息子たちが関東平野を席巻して、大石氏の広大な領地を占領してしまったのです。
北条氏康の3男の北条氏照は八王子城を作り八王子を支配していましたが、1590年(天正18年)に豊臣勢の前田利家と上杉景勝によってあっけなく滅ぼされたのです。
以上は1192年鎌倉幕府が出来る前後頃から1590年の八王子城の落城までの多摩地方の領主たちの興亡の概略です。
随分とめまぐるしく小型武力集団が出来たり、消えたりしたものです。この事は多摩地方だけではありません。京都や鎌倉以外の全国の地方、地方で同じような小型武力集団の興亡があったのです。
鎌倉時代と室町時代には天皇勢力が任命する守護が各地の租税を集めていたという理解は実態ではないと思います。
むしろ地方で成り上がった武力集団を従えた在地領主へ天皇が守護職や守護代という官位を与えていくばくかの税金を送って貰っていたという理解が実態に近いと思います。守護職や守護代は当然鎌倉幕府や室町幕府へも税金を送っていたと考えられます。
従って地方の領主は細心のバランス感覚の持ち主でなければ権力を維持出来なかった筈です。特に応仁の乱の後は世の中が乱れ、下剋上の時代になるのです。
武蔵国の守護代だった大石氏の苦労が偲ばれます。そして大石氏の領地を占領して、八王子城で権勢を誇った北条氏照の儚い落城を見るにつけても戦国時代の武将たちの苦しみや悲しみが身に沁みてきます。
下に八王子郷土資料館の説明板の写真を示します。
簡潔にして要領良く、平安末期から1590年の八王子城の落城までの多摩の歴史が書いてあります。(続く)
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参考飼料:北条氏照の生涯
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%85%A7
天文9年(1540年)、北条氏康の3男として生まれ、聡明で武勇に優れていたと言われる。
永禄2年(1559年)、木曾義仲の後裔である武蔵国滝山城城主・大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田安房守氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。
その後、氏照は父に従って、小田原城の戦い直後の永禄4年(1561年)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀でており、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂(大石氏と同様に木曾源氏の後裔)らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。このような氏照自らの奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。
氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵国と相模国の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。
しかしこの八王子城も1590年(天正18年)に豊臣勢の前田利家と上杉景勝によってあっけなく滅ぼされたのです。
尚、北条氏康は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。世に相模の獅子と謳われる。
来年の春には衆議院の任期が終わるので必ず選挙があります。
誰が考えても民主党も自民党も「大阪維新の会」も「国民の生活が第一」も石原新党も公明党も単独で衆議院の過半数の当選者を獲得出来そうもありません。
従って2つ以上の政党が連合して総理大臣を決め、新しい内閣を組織しなければなりません。
今日はどの政党とどの政党が連合して政権をとるか考えてみました。
結論を先に書けば「大阪維新の会」と自民党が連合して新内閣を作るという可能性が一番大きいということです。以下にその理由を書きました。
=======新内閣が出来るまでのいろいろ=============
石原新党が出来て政党間の争いが激しくなって来ました。国民は茫然と眺めているだけです。橋下さんの大阪維新の会は原発反対、憲法改正、尖閣諸島の国際裁判所提訴、従来方針通り普天間基地沖縄内移転、などを主張しています。石原新党は原発賛成、現在の憲法は破棄、尖閣諸島領有確立、などを主張しています。
石原さんは最近、橋下さんと何度も会い、来春の選挙後に連携し、内閣総理大臣になろうとしています。そして橋下さんはその次の総理大臣で良いと言っています。
しかし石原さんと大阪維新の会の体質は本質的に違うと私は考えています。
石原さんは文学的才能にも政治的才能にも恵まれたエリートです。単にエリートだけなら良いのですが独断専行する性質を持っています。それは東京都知事のような立場なら向いていますが、大阪の庶民的性質を背負った維新の会のメンバーとはシックリ行かないと思います。石原さんのようなエリートは大阪人とシックリ行く筈がありません。
従って選挙後の石原新党と大阪維新の会の連合内閣は出来にくいと思います。
体質的に考えると「維新の会」は安部総裁の自民党と連合を組みやすいと考えられます。
安部さん個人は橋下さんと何度も会いお互いに親近感を持っているようです。政策の相違点はムニャムニャにして自民党と「維新の会」が多数派を形成して、総理大臣は安部さんか橋下さんになるでしょう。
但し安部さんは一回総理大臣をしているので橋下さんに譲るかも知れません。その可能性があるので「維新の会」のメンバー達は自民党と連携することを好みます。自民党にも関西選出の衆議院議員が当選する筈です。
所詮、石原さんのような独断専行的な人を嫌いな大阪人が中心になっているのいが「大阪維新の会」なのです。
それにしても来年の新総理大臣になろうとしている石原さんも橋下さんも国際外交の素人です。
必ずや日中関係は悪化します。日米関係も悪化します。その結果、日中経済協力が危機的状況になります。その経済損失の大きさは原発停止による経済損失より非常に大きいと考えられます。石原さんは経済的犠牲を覚悟の上で中国と争う決心をしているようです。
経団連の幹部が危惧しています。こんな政治状況のなかで過半数の取れない民主党の野田総裁はどのように対応するのでしょうか?
日本の政治の風景をみていると頭が混乱します。気持ちが暗くなります。
そこで下に東京港の明るい海の写真をお送りいたします。気分が晴れます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
上は晴海埠頭から見たレインボーブリッジで、下は築地運河に船の見える風景です。数日前に撮ってきました。