後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

香りの良い金木犀の花と蜜蜂の好きな花々

2012年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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秋になるとキンモクセイの花の甘い香りが風に乗って流れてきます。住宅街を散歩していると時々その香りがします。そんな良い季節になりました。

我が家にも何時の間にか大木になったキンモクセイがあります。秋になると毎年、写真のような花を咲かせます。

こんなに香りが強いのですから、さぞ蜜蜂が群がっているいと思いあちこちの家の庭の金木犀の花を仔細に観察しました。しかし蜜蜂が見つかりません。

そこで蜜蜂の事は何でも出ている「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト」を見てみました。URLは、http://hobeey.bee-lab.jp/hobeeydb/db00/index.html です。

そこには蜜蜂の好きな花々が下のように紹介してありました。

不思議にもキンモクセイが入っていなのです。多分この木は養蜂業のある農村地帯には数が少ないためなのかも知れません。

入っていない本当の理由を何方かお教えくださいませんでしょうか?

蜜蜂の好きな花々の写真は以下のようになっています。花々の名前はこの記事の末尾に写真の順番通りに掲載してあります。

Astragal1_2Clover1

Corneliancherry1 Cornflower1 Dandelion1

Dogwood1 Elm1 Japaneseknotweed1

Maple1 Pea1 Pepperbush1

Plantain1 Robinia1 Sage1

Skunkcabbage1 Squash1 Sweetchestnut1

Touchmenot1 Vetch1 Horsebean1

Goldenrod1 Sunflower1 Holly1

それにしても養蜂業は何かロマンチックな仕事です。

その歴史は古く、人間が農耕を始める前から一部の人は始めていたと推定されています。

下に参考資料として養蜂の文化史を「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト」http://hobeey.bee-lab.jp/hobeeydb/db00/index.html)から引用しておきます。

ご興味のある方は是非お読み下さい。

=======参考資料、養蜂の文化史============

    人間とミツバチとハチミツの歴史は古い。1919年には、スペインの東部、バレンシア近くのアラニア洞窟 Araña Cave で発見された壁画の中に、高所に梯子を掛け、穴の中にあるミツバチの巣から何かを採集している人の絵が見つかっている。壁画の描かれた年代は紀元前6000年頃と推定されている。次は数千年下って、ハチミツを濾すのにつかわれた、穴が穿かれた新石器時代の粘土容器がスイスで見つかっている。その後、スメール、バビロン、ヒッタイト、古代インド(ヴェーダ)などの古代文明の中に、ミツバチやハチミツの記述が登場する。
   
さらに古代エジプトでは、紀元前3500年頃、エジプトの2つの王国が統合された時、一方の王国の象徴としてミツバチのヒエログリフが使われている。そのエジプトでは、ハチミツの採集から保存までの様子を描いた絵が残されている。ギリシアでは、紀元前450年頃の巣が発掘されている。こうした技術はローマに継承された。その後、ヨーロッパ各地で養蜂が試みられた歴史は詳しくしらべられている。西洋におけるこうしたミツバチの文化は、彫刻、ガラス細工、コイン、宝石などの工芸品として残されている。こうした歴史は、Crane Ransome の本、(Crane83Ransome04) あるいは、International Bee Research Association British Bee Books79)などに紹介されている(Ransomeの本は、1937年に出版された本のDover社による復刻版である)。
   
日本におけるミツバチとハチミツ利用の歴史も古く、最初の記述は日本書記に遡るという。平安時代の後期には、藤原宗輔(むねすけ)という公卿が、蜂飼大臣(はちかいのおとど)として今鏡や十訓抄に登場する。虫愛ずる姫君と同じで、これは珍談、奇談の主人公としてであるが、ハチが飼われていた証拠とも言える。江戸時代になると各地で養蜂活動が行なわれるようになり、その様子は、貝原益軒の「大和本草」、久世敦行の「家蜂畜養記」などに伺えると言う(飯田07)。中国の書を翻訳した「国訳本草綱目」にも、ミツバチとハチミツに関連した記述が断片的に紹介されている。江戸時代から明治初期には、養蜂はハチミツとロウを産生する地場産業に成長していた。これらのミツバチはニホンミツバチである。
   
日本にセイヨウミツバチが持ち込まれたのは、1877年(明治10年)であり、それ以後、西洋式の養蜂が広がり、ニホンミツバチを利用した養蜂は廃れていった。

============終り=====================

レンゲ

Astragal

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ソバ

Buckwheat

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シロツメクサ

White Dutch clover(Ladino)

セイヨウサンシュユ


日本の権力者の歴史は教えるが一般庶民の生活の歴史を教えない学校の歴史教育の欠陥

2012年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

学校の歴史教育は実につまりませんでした。天皇や武士政権の権力者の名前とその交代の年号を完璧に丸暗記すると良い点数が取れるのです。

他人には言いませんでしたが、そんな教え方を内心軽蔑さえしていました。当時は先生は聖職者として絶対的な権威を持っていた時代でした。

学校で教える歴史とは権力者の歴史だけだったのです。一般庶民はどのような暮らしをして、どんな気持ちで生きていたかを教えません。その歴史的な変化を教えません。権力者へ治める税金はどのように納めていたかも具体的に教えません。長い間不思議に思っていました。

ところが庶民の生活の歴史的変化を明快に説明し、関連する道具を展示している博物館があるのです。

東京都府中市立の郷土の森博物館です。ここでは縄文・弥生時代から古墳時代に始まって、平安、鎌倉、江戸と全ての時代の歴史を権力者の歴史と一般庶民の歴史に分けて説明しています。とくに一般庶民の歴史は知らなかったことが多かったので驚きの連続です。

そこで以下に一般庶民の生活の歴史的な変化を少しだけご紹介したいと思います。

(1)庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。

平安時代の府中には京都から派遣される多数の役人と一般庶民が暮らしていました。役人の生活は贅沢でしたが、庶民は質素な食器を使い貧しい生活をしていました。055

一般庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。

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農民が使っていた農具の鉄の刃は磨きながら丁寧に使っていた様子が伺えます。

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(2)鎌倉時代になっても租税は京都から派遣された守護へ納めていた?

武家政権の鎌倉時代になっても庶民は平安時代と同じ掘立小屋に住み、租税は京都から派遣されていた守護に納めていました。武蔵野国では府中ある国衙政庁にいる守護職の代理人へ納めていたようです。

そして納めた租税の何割かは鎌倉幕府へ送られた筈です。その上、地方地方の小型武力集団(国衆)へも租税を納めていた筈です。

学校で教える歴史教育では農民の租税の納め方を具体的に教えません。しかしそれこそが一般庶民の死活につながる重要な項目なのです。そのような疑問が湧いて来る以下の説明板です。

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(3)鎌倉時代には天皇や貴族のための佛教から庶民のための仏教が出て来た。

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鎌倉時代の武蔵野国の農民は板碑という自分の信仰のための碑を実に多数立てたのです。

上の方に梵字が彫ってあって、庶民の土俗信仰を暗示するような異様な雰囲気を与えています。

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器用な農民は仏像もほりました。素朴な仏像です。

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現在の日本人は無宗教の人が多いのですが、鎌倉時代から江戸時代の庶民は非常に強く宗教を信じていたのです。

(4)多摩川で魚を取ることは非常に重要な産業だったのです。

現在、多摩川で漁業を営む人はいません。しかし江戸時代までは沿岸の庶民の生活にとっては死活問題だったのです。その様子を示す道具の展示が下にあります。

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取っていた魚はアユ、ハヤ、ウナギ、コイ、カジカ、川エビ、川カニ、などなどでした。

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上にあるドウの他に下のように網も使っていました。

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(5)一般庶民は芸術作品とは無縁?

庶民は藝術作品は残しませんでした。使っていた道具を民藝作品として高く評価する人々もいますが正直言えば洗練されていません。美しくもありません。

しかしすぐれた芸術作品を残した絵師や彫り物師はお寺の支援や保護を受けたいたことが多かったのです。そのお寺の財政を支えていたのが農民や一般庶民だったのです。

ですから、ある国の歴史や文化を総合的に考える時、一般庶民の歴史も重要だと私は信じています。

一般庶民の歴史が私の好奇心を刺激し、尽きない興味を掻き立ててくるているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)