秋になるとキンモクセイの花の甘い香りが風に乗って流れてきます。住宅街を散歩していると時々その香りがします。そんな良い季節になりました。
我が家にも何時の間にか大木になったキンモクセイがあります。秋になると毎年、写真のような花を咲かせます。
こんなに香りが強いのですから、さぞ蜜蜂が群がっているいと思いあちこちの家の庭の金木犀の花を仔細に観察しました。しかし蜜蜂が見つかりません。
そこで蜜蜂の事は何でも出ている「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト」を見てみました。URLは、http://hobeey.bee-lab.jp/hobeeydb/db00/index.html です。
そこには蜜蜂の好きな花々が下のように紹介してありました。
不思議にもキンモクセイが入っていなのです。多分この木は養蜂業のある農村地帯には数が少ないためなのかも知れません。
入っていない本当の理由を何方かお教えくださいませんでしょうか?
蜜蜂の好きな花々の写真は以下のようになっています。花々の名前はこの記事の末尾に写真の順番通りに掲載してあります。
・
・
・
・
・
・
・
それにしても養蜂業は何かロマンチックな仕事です。
その歴史は古く、人間が農耕を始める前から一部の人は始めていたと推定されています。
下に参考資料として養蜂の文化史を「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト」(http://hobeey.bee-lab.jp/hobeeydb/db00/index.html)から引用しておきます。
ご興味のある方は是非お読み下さい。
=======参考資料、養蜂の文化史============
人間とミツバチとハチミツの歴史は古い。1919年には、スペインの東部、バレンシア近くのアラニア洞窟 Araña Cave で発見された壁画の中に、高所に梯子を掛け、穴の中にあるミツバチの巣から何かを採集している人の絵が見つかっている。壁画の描かれた年代は紀元前6000年頃と推定されている。次は数千年下って、ハチミツを濾すのにつかわれた、穴が穿かれた新石器時代の粘土容器がスイスで見つかっている。その後、スメール、バビロン、ヒッタイト、古代インド(ヴェーダ)などの古代文明の中に、ミツバチやハチミツの記述が登場する。
さらに古代エジプトでは、紀元前3500年頃、エジプトの2つの王国が統合された時、一方の王国の象徴としてミツバチのヒエログリフが使われている。そのエジプトでは、ハチミツの採集から保存までの様子を描いた絵が残されている。ギリシアでは、紀元前450年頃の巣が発掘されている。こうした技術はローマに継承された。その後、ヨーロッパ各地で養蜂が試みられた歴史は詳しくしらべられている。西洋におけるこうしたミツバチの文化は、彫刻、ガラス細工、コイン、宝石などの工芸品として残されている。こうした歴史は、Crane や Ransome の本、(Crane83、Ransome04) あるいは、International Bee Research Association のBritish Bee Books(79)などに紹介されている(Ransomeの本は、1937年に出版された本のDover社による復刻版である)。
日本におけるミツバチとハチミツ利用の歴史も古く、最初の記述は日本書記に遡るという。平安時代の後期には、藤原宗輔(むねすけ)という公卿が、蜂飼大臣(はちかいのおとど)として今鏡や十訓抄に登場する。虫愛ずる姫君と同じで、これは珍談、奇談の主人公としてであるが、ハチが飼われていた証拠とも言える。江戸時代になると各地で養蜂活動が行なわれるようになり、その様子は、貝原益軒の「大和本草」、久世敦行の「家蜂畜養記」などに伺えると言う(飯田07)。中国の書を翻訳した「国訳本草綱目」にも、ミツバチとハチミツに関連した記述が断片的に紹介されている。江戸時代から明治初期には、養蜂はハチミツとロウを産生する地場産業に成長していた。これらのミツバチはニホンミツバチである。
日本にセイヨウミツバチが持ち込まれたのは、1877年(明治10年)であり、それ以後、西洋式の養蜂が広がり、ニホンミツバチを利用した養蜂は廃れていった。
============終り=====================