後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

あなたが学校の歴史で習わない領主、成田氏の城

2012年10月14日 | インポート

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埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。

石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。

しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。

江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。

上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。

全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。

幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。(終わり)

撮影日時:20086月7日午後1時頃。 撮影者:Mrs.藤山


私達が学校で習う日本の歴史は現実とは違い過ぎる!

2012年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

私たちが学校で習う日本の歴史の教科書は明治政府成立以来、文部省が指導して作ったものです。廃藩置県を実施し、明治天皇と中央政府が全権力を握り、国内を統一しました。国内を統一し富国強兵を実行し欧米の植民地になるのを防ぎました。

従って国民へ教える日本とは飛鳥時代から江戸時代まで天皇と幕府の権力が国の隅々まで統一し、一糸乱れぬ統治をしていたと教える必要があったのです。日本は近代国家と変わらぬ一つの強力な国として存続していたと信じさせる必要があったのです。

したがって地方地方に小規模な武力集団が居て農民を勝手に領有し、一方では中央政権へ年貢の一部を上納し、忠誠を誓っていた実態は教えないことになっていました。このような武力集団の頭は、国人とか国衆と呼ばれ領主として君臨していたのです。国衆が強大になった場合は守護職を天皇から委託され公的にも権限を振るっていたのです。飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国と時代が変わっても地方の小さな武力集団と領主の存在は変わらなかったのが実態だったのです。その領主が成り上がった戦国大名で徳川側についた一群が江戸時代の各藩として生き残ったのです。

現在の東京にはそのような領主が作った城跡が沢山あります。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。そしてこの領主の作った城の名前が品川区、世田谷区、渋谷区、板橋区、練馬区、立川市、八王子市、桧原村という名前と関係があるのです。これは東京地方の一例で、同じようなことは全国の各地にあると思います。

誤解を恐れずに明快に言えば、日本は明治維新以前までは完全な地方自治がおこなわれていたのです。明治維新はこの地方分権を完全に消滅させることになったのです。それを現在、地方自治の重要性を宣伝しています。しかし現在の国家体制のままでは地方分権への変革には大きな制約が存在しています。それは武力無き自治権です。当然、国家政策と国税の許す範囲の中に限定された地方分権なのです。このような視点で日本の歴史を見ると、地方、地方の歴史を調べることの重要さがご理解できると思います。皆様の住んでいらっしゃる地方の歴史はいかがでしょうか?(終り)


今日は日曜日なので宗教記事を書きます・・・宗教嫌いの方はお読みにならなくて結構です

2012年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

お早うございます。今日もお元気でしょうか?

このブログでは毎日、3つ、4つの記事を書いています。その中の一つぐらいは貴方の同感が得られるようにと色々な視点で書いています。ですから記事の数が多くなります。政治、経済、文化などなど雑多な記事です。

ご関心のある記事だけ読んで頂ければ嬉しいのです。

今日は日曜日なので、宗教の好きな方々向けの記事を一つ書きたいと思います。

私はあまり熱心ではありませんがカトリックです。一般の方と何処が違うか?あまり違いません。しかし、どこが違うか考えて見ましたら2つ、3つ見つかりました。

まず食事の前に家内と一緒にお祈りを唱えます。

「主願わくば、我らを祝したまえ。また主の御恵みによりて我々の食せんとするこの賜物を祝し給え。我らのキリストによってアーメン。父と子と聖霊の名によってアーメン。」と唱え十字を切ります。ここまでは普通のカトリックと同じです。

しかし朝食の時は自己流の祈りを付け加えます。

主願わくば 神父様の健康をお守り下さい。XYZ(3人の孫の名)が健康でスクスク育ちますように。AB(娘の夫婦の名)が仲よく暮らしますように。CD(息子夫婦の名)も仲よく暮らしますように。HK(自分たち夫婦の名)もお守り下さい。アーメン。父と子と聖霊の名によりてアーメン。」と言って十字を切ります。

冒頭の神父様とはローマ法王、東京大司教区の司教、そしてカトリック小金井教会のディン神父様、その他、教会でお会いした全ての神父様を思い出して、唱えます。

昼食と夕食の前は上の2つの祈りの前の半分だけにします。

ここからが私のこだわりです。外のレストランや寿司店で食事をするときもあります。その場合は食前に黙って上の御祈りをします。あるいはあえてしない時もあります。しないことの方が多いです。

何故か?声を出すと恥ずかしい、という理由もあります。

しかし声を出して祈ると宗教嫌いの方々の食欲を減退させるかも知れません。祈りの鉄則は他人に迷惑をかけないことです。

食前の祈りをする。毎週日曜日は”原則として”ミサに行く。

それだけが違いです。

御祈りをしていない普通の時間は至って俗っぽい生活を楽しんでいます。神前結婚式にも仏教の葬式にも義理を欠かさず出席しています。彼岸の墓参りにも欠かさず行きます。

カトリックになったからと言って親類や友人の付き合いが変化したとしたらそれはいけないことです。

「隣人を愛せ!汝の敵を愛せ!」、これがイエス様の教えなのです。日本人としての義理人情を大切にしているつもりです。

ですからみなさんの周りにいるキリスト教信者をよろしくお願いいたします。(終り)


傑出していたヨハネ・パウロII世の謝罪と思い出

2012年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨハネ・パウロII世は1920年にポーランドで生まれ2005年、85歳で死んだ。最後の26年間はローマ法王の座についていた。

われわれカトリック信者の大親分であった。外国ではパパ様と呼んでいるらしいが日本人の小生にとっては親父、親分いや大親分のほうがシックリする。

1981年には日本にも来て昭和天皇に会い、広島や長崎や東京で大規模なミサを開催した。完璧な発音の日本語で話したという。ただし発音だけで、意味は分からないと自分でも言っていた。

この法王は歴代の法王のなかでも一番素晴らしいことをしてくれたと私は信じている。

それはカトリック教会の犯した間違いを拾い上げ一々心から謝罪したことである。

列挙すると、

(1)ガレリオ裁判での間違いを認め、ガレリオへ謝罪した。

(2)フィリッピン、中南米に対して剣と武力を用いてキリスト教を広めた罪を謝罪した。 

   また十字軍の戦いも武力を用いた罪を認め謝罪した。

(3)第二次対戦中ナチスドイツの占領地での大量虐殺へ対してキリスト教が十分な抵抗をし

   なかったことを認め謝罪した。

(4)ドイツのユダヤ人への差別虐殺の責任の一端はキリスト教会にもあると認め謝罪した。

仏教国の日本に住んでいると、よくキリスト教は排他的で武力を用いて宣教すると非難されます。

しかしイエス様の教えにはそんな指導は一切有りません。

たまたま、キリスト教が広まった地域の民族が、主に狩猟民族で他民族に対して攻撃的な固有の文化を持っていたからと私は推察しています。

例えば日本人の代表的なカトリック信者の高山右近の場合を考えて見ましょう。

彼は武力で成り上がってきた猛々しい戦国武将です。終いには高槻城を有する大名になりました。しかし一旦カトリックを信じた以上節を曲げません。秀吉は、「棄教しなければフィリッピンへ追放する」 と脅かします。

権力も財産も捨てて、彼は悠然と帆船に乗り込みフィリッピンへ行きます。武力で秀吉へ抵抗して討ち死にするのが武士道でしょう。それをしないで平和的な道を選びました。フィリピンでは大歓迎されたようですが、一年後に病死したと伝わっています。

欧米人は絶対に謝らない。だから日本人も外国へいったら謝ってはいけない。と、よく言われます。しかしパウロ2世はこんなに謝っているでは有りませんか?

尚、以上は文芸春秋、2008年3月号の中のpp320-327のヨゼフ・ピタウ著「ローマ法王と昭和天皇の出会い」という記事かた引用しました部分も混じっています。(終り)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)