後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大津波の被害が無かった松島の風景をお楽しみ下さい

2012年10月17日 | 写真

松島市は島々が防波堤のようになり、津波の勢いを弱くして守ってくれました。

海岸通りには海水が上がって、商店の一階部分にだけ浸水したのです。海水の流れが比較的ゆっくりだったので全壊した家が殆ど無かったのです。

観光客の行く海岸通りの商店はすぐに復旧して、元通りになりました。

岸壁にある数多くの観光船も以前と同じようです。そして湾内に散在している島々はあまり海水を被らなかったようです。松の緑が以前と同じように美しいのです。

そんな風景写真を下にお送りいたします。松島は変わりありません。ご安心下さい。

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上の白い島の上には五大堂が以前と同じにありました。被害は無かったようです。

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五大堂の向こうにある福浦島への赤い橋も昔のままです。

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島々は津波で壊された形跡がありません。

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島陰では何事も無かったようにのんびり釣りを楽しんでいる人がいます。

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この島にある4つの洞窟は昔のままで、向こう側の海が見えます。

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仁王島です。激しい地震があったのでしょうが首が折れたりしませんでした。

船内の観光案内に寄ると昔のままベレー帽をかぶりパイプを咥えています。

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松島から島々を巡り歩き、塩釜までの定期観光船にカモメがいつまでも考え事をしながら付いて来てきました。

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塩釜港も被害が少なく、漁船用岸壁には大型漁船が横づけになっていました。多分サンマでも水揚げしているのでしょう。

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塩釜から電車で仙台に出て、新幹線に乗り換えました。ずっと右手に夕日が美しく輝いています。これで今回の秋保温泉での同窓会、大津波の被害地の東松島市東名、松島観光、そして塩釜への旅も終わりました。大津波の被害地を見たのでひどく心が疲れました。

そのあとで昔のままの静かな松島の島々の風景を見て少し心の平安を取り戻しました。

津波の勢いが、「激しい」、「中くらいに激しい」、「静かに攻めてくる津波」と3段階に分けて考えると被害地の様相が変わることが理解出来ます。渦の巻き方によっても被害地の様相が変わるのです。大津波の被害地の東松島市東名を案内してくれたタクシーの運転手さんが言っていたことです。そしてどんな津波が来るかは運命ですねと言ってました。

それにしても考えさせられる旅でした。(終り)


津波被災地で見た人間の心の温かさ・・・茫々とした荒れ地にそこだけが

2012年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日、大津波で一切を流されてしまった東松島市の東名(とうな)の写真を撮ってきました。その写真を中心にして昨日 書いた記事が、大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。 です。

それは心の凍るような光景です。大津波の猛威がいかに残酷なものかひしひしと肌に感じる光景です。しかしそんな中に2つの心温まるものを見つけたのです。

JR仙石線の東名駅の踏切を越えて、海側に出ると伊達正宗の作った貞山掘(東名運河)があります。その橋の傍に下の花を見つけたのです。運転手さんに急停車をしてもらい撮った写真です。

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運転手さんの話では、佐藤やえ さんというおばあさんがここで亡くなったそうです。津波が来るので近所の老人たちの避難を助けているうちに流されたのです。あれからもう1年7ケ月も経ちますが、毎日のように花が供えられているのです。佐藤やえ さんに助けられた人々が供えているようです。運転手さんが悲しそうに説明してくれます。

やえさんは心優しい人だったそうです。自分を犠牲にしても近所の人々の避難を助けたのです。その恩を忘れずに花を供え続ける人々の心も優しいのです。

この花の所を過ぎて暫く行くと下の写真のように真新しい墓石が整然と並んだ墓地が見えて来ました。

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昔の墓石はすべて津波が海へ持ち去ってしまったそうです。残ったのすっかり平になった墓地だけでした。この地区の生き残った住民がまず急いで新品の墓石を取り寄せて作ったのです。この地区で亡くなった260人の人々も先祖と一緒に新しい墓に葬られたのです。

急いで墓地を整備したのは、津波で非業の死を迎えた人々の鎮魂と供養のためだったのです。

普通、墓地はお寺の本堂の裏に広がっています。その本堂も海へ流されてしまったので墓地の前には広い空間になっているだけです。

運転手さんは生き残った住職さんの指導に従って、自分の家の墓はまだ作っていないそうです。そのわけは「墓よりもまず自分の生活を立てなおすのが先です。生活の立て直しをする前に墓を新しく作っても先祖様は喜ばないのです」。これが住職さんの指導なのです。

新しい墓は家族に犠牲者のいる家の墓が大部分なそうです。そのことについては住職さんは何も言いません。毎週、避難先からやって来て墓地の前で読経して、帰って行くそうです。

この墓地の周りはすっかり何も無くなっていますが、下の写真が示すように家々の間に通っていた生活道路の跡だけが鮮明に残っています。

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住宅地の片隅には毎年と同じようにコスモスの花が咲いていました。地中に残っていた種が芽生えて花を咲かせたのでしょう。方々の流された屋敷の跡に白やピンクの花が秋風に揺れていました。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)