後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

名言を批判する(2)「精神一到何事か成らざらん」

2012年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム

この名言の意味は文字通りどんな困難なことでも精神を集中して一心に努力すれば何事でも成し遂げることが出来るというものです。

この名言は中国の宋時代の儒学者の朱子が言った言葉です。朱子は1130年に生まれ1200年に亡くなりましたが、没後、弟子たちがその教えを纏め、1270年に「朱子語類」を出版しました。この名言はその本にある言葉です。

朱子の教えは「朱子学」として江戸幕府が大いに推奨した儒学でした。

そのせいもあり、日本人は「精神一到何事か成らざらん」という名言が好きでよく使います。

この名言の欠陥はこの世の事はすべて精神を統一して集中すれば出来るという精神力偏重にあります。

さきの太平洋戦争の間に嫌になるほど無理に言わされた言葉です。そしてどんなに貧弱な軍備でもアメリカに勝つという精神を集中すれば、必ず勝つと教えられたのです。

全く間違った教えでした。

戦争に勝つにはまず軍備が優れている事です。敵に破壊された軍備を即刻生産出来る工業力と経済的余裕が一番重要なのです。そして戦争に勝つためには正しい戦略が絶対に必要なのです。精神力など絵に描いたモチのように何んの役にも立ちません。

この名言は科学的に、そして合理的に考えることを蔑んでいるのです。全くバカバカしい名言です。

しかし、この考え方は中国文化圏すなわち儒教文化圏には現在でも人々の心の底に棲みついているのです。そして何か困ったときに、その恐ろしい鎌首を上げるのです。

1966年から1976年まで中国大陸で猛威をふるった毛沢東の「文化大革命」はこの精神主義の塊でした。

土工錬鋼法と称して、全国の津々浦々に土で作った小さな溶鉱炉を作り、鉄の増産運動をしたのです。

科学的に考えると炉内温度が1600度以上にならなければ溶けた銑鉄は絶対に出来ないのです。そこで農民は鉄のクワやシャベルを壊して、小さな溶鉱炉へ投げ込んだのです。下からはその形のままの赤く熱せられた鉄が出て来ました。その重さを測って、そのの鉄の生産量として共産党本部へ報告したのです。

最近、日本では原発廃絶運動がさかんになされています。

しかし原発推進派はこの運動を精神主義的過ぎて、「精神一到何事か成らざらん」という考えに立っていると笑います。すなわち、原発の代わりになる代替エネルギーが存在しないのに原発反対運動をすることが合理的でないと笑うのです。

現在の原発推進論者は大企業の人々が中心になっています。原発の存在している地方の人々を放射能の危険にさらしてでも自分達の経済的利潤を大切にしているのです。その彼等が原発反対は精神運動であって実現が不可能だと言っているのです。

これに対して合理的な反論をすべきと思います。

まず、太陽電池や地熱発電は発電量が小さすぎて原発の代替エネルギーにならない事実を第一に認めるべきです。

その上でシェールオイルやシェール天然ガスや石炭の利用拡大を主張すべきです。発電規模が大なので、合理的な解決法です。そしてこれらの火力発電所から出る炭酸ガスの回集方法の技術を開発すべきなのです。

原発廃絶運動をしている人々の一部に残念ながら精神主義偏重の人々が居ます。合理的な考察抜きでやたらに反対、反対と叫んでいるのは無意味ではないでしょうか?

どうもその辺に、「精神一到何事か成らざらん」という毒蛇がいまだに棲んでいるようです。東洋人の弱みではないでしょうか?

皆様のご意見をお聞かせ下さい。(続く)


北海道の田園風景と本州の田園風景の大きな違い

2012年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム

町に一生住んでいる人々にとっては田園風景は憧れです。

新鮮な空気が体を爽やかにしてくれます。四季折々、花々が咲き、美しい鳥の声が聞こえます。都会の生活の疲れを癒してくれます。

多くの芸術家が田園風景に憧れて農村に住み作品を残します。

自分自身も農村の風景が好きです。

先日、北海道へ旅をした折にはその田園風景を飽きずに見てきました。車を脇道に入れて、牧草地や野菜畑の周囲を歩き回ります。よく手入れした広い牧草地や野菜畑には人影がありません。ただ緑の大地が広がっているだけです。

そして本州で見慣れた田園風景を思い、その違いの大きさに感慨を覚えます。

広さの違いがまず大きな相違です。広さだけではありません。北海道の農地は大きな曲面になっているのです。大昔に氷河が大地を覆い、何万年もかかってけ削った大地の形なのです。ですからその曲面は不思議な美しさを示しています。

北海道の田園風景を見ると昔氷河が大地を覆っていた頃を想像してしまうのです。

悠久の歴史を想います。

その上、北海道では大型の耕運機や作物の収穫機で作業をします。その機械の通った跡が遥かに続いています。果てしない人間の努力を考えさせます。

本州の農村では田や畑が小さく区切ってあり、曲面を作っていません。山の斜面では段々にして田や畑にします。人間の手によって完全に自然を変えています。それはそれで努力の賜物です。ですから私はそれも美しい風景と思います。

しかし北海道の田園風景とは何か根本的に違う印象をうけます。北海道の田園風景に似た所はアメリカ大陸、ヨーロッパ大陸の農村地帯のようです。特に大昔、氷河が覆っていた北の地方の景観は北海道とよく似ているようです。

地球の風景の基礎は46億年にわたる地質変動や動植物の盛衰によって出来たものです。それに人間の手が入ってために一層美しく見えるのが「田園風景」というものです。人間の努力や美しい性格を暗示しているのです。人間は本来善い存在なのだという感じがするのです。

その上、その風景はどのような作物を、どのようにして作っているかによって変わります。

北海道では大規模農業に適したジャガイモ、トウモロコシ、麦、ビートそして牧草などを広い農地一面に作ります。本州では種々の野菜や園芸種の花々を小さく区切った畑に作ります。水田も小さく区切っています。

本州の田園風景も大好きですが、北海道のように雄大な気分になれません。氷河期を想い、悠久の歴史を感じません。北海道の田園風景の魅力はそのようなところにあるのでしょう。

下に先日撮ってきた女満別の風景写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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