後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本民族と温泉文化・・・北海道北湯沢温泉のことなど

2016年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私の悪い癖はクドクドとヘ理屈を書くことです。黙って写真だけを掲載すれば良いのですが、それにこじつけて針小棒大なことを書くという悪い癖を持っているのです。
今日も愚にもつかない話を展開したいと思います。お急ぎでない方はお付き合いの程をお願いいたします。
でもお急ぎの方の為に、まず北海道の北湯沢温泉の第二名水亭とその付近の紅葉の写真を示します。場所は洞爺湖の東の伊達市の山深いところに隠れるようにあります。決して有名な温泉ではありません。

この北湯沢温泉については、http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/18832/rtmap.html をご覧下さい。







さて写真はさておき、北海道には立派なリゾートホテルや名旅館があちこちにあります。
しかし泉質の良い温泉は登別温泉、定山渓温泉、層雲峡温泉など数が限られています。
ところが今度、泊まった伊達市の山の中にある北湯沢温泉の泉質が実に良かったのです。
豊富に湧き出る湯は炭酸泉系アルカリ性で、肌にやさしく、湯上りの後で「嗚呼、これぞ本物の温泉だ」と感動したのです。その上、夜寝ると明け方までポカポカと体が暖かいのです。
こんな温泉は実にまれです。地底深くボーリングすれば何処でも温水は出ます。
しかし温泉として人を感動させる泉質はまれにしか出てきません。単に熱い湯だけの「温泉」がやたら多くなりました。
私は東北地方に生まれ、戦中戦後に育ちました。東北の人は温泉が大好きです。農閑期には何日も旅館の自炊部屋に逗留するのです。
私も仙台のそばの作並温泉や秋保温泉に足繁く行きました。鳴子温泉では自炊部屋に逗留したこともあります。大学生になると蔵王山の登山の折に青根温泉や峩々温泉に泊まったものです。山形の高湯にも行きました。そんな幼少から若い頃の温泉経験をとうして私は「良い温泉」と「悪い温泉」の見分けがつくようになったのです。
東北人の温泉好きは熱烈です。東北の奥には、乳頭温泉や ふけ湯や鳴子のように泉質の良い温泉があります。本物の温泉は東北地方にしか存在しないと言うのです。
愚かにも私は長い間それを信じていました。
しかし停年になり暇が出来ました。
温泉が好きだった私は全国の温泉に行きました。そうしたら全国のいたる所に良い温泉があることを知りました。
しかし有名な温泉地でも泉質がいま一つという所が多いのも知りました。
文句なしに感動したのは道後温泉でした。それと乳頭温泉は本物です。岩手の山奥にあるふけ湯も素晴らしい泉質です。別府温泉は様々な泉質が楽しめます。
もっとも温泉の魅力は泉質だけではありません。広い湯船から見える風景の良し悪しも重要なのです。
湯船が非常に広くて風景の良い所の一例は群馬県の水上温泉に近い宝川温泉です。泉質は平凡ですが川を隔てて露天風呂が幾つもあり、それぞれが驚く程大きいのです。周囲の風景が抜群に良いのです。

さて表題の日本民族と温泉文化について簡単に書きたいと思います。
日本は火山列島というくらいですから温泉があちこちに自然に湧き出していました。
旧石器時代や縄文時代から人々がこの自然の湯に浸かっていたことは想像に難くありません。諏訪地方の縄文遺跡から温泉成分が検出されています。
そして漢字の普及が進むと古文書に温泉に関する記述が急に増えるのです。詳しくは末尾の参考資料をご覧ください。
そして江戸時代になると人々は一段と温泉が好きになるのです。
この時代は一般庶民が入浴する雑湯と幕吏、代官、藩主が入浴する殿様湯が区別され、それぞれ「町人湯」「さむらい湯」などと呼ばれていたそうです。
各藩では湯役所を作り、湯奉行、湯別当などを置き、湯税を司ったのです。
一般庶民の風習としては正月の湯、寒湯治、花湯治、秋湯治など季節湯治が流行します。
決まった温泉地に毎年逗留し温泉を楽しんだのです。
現代も残る「湯治」の風習が生まれたのも江戸時代です。その他に、砂湯、打たせ湯、蒸し湯、合せ湯など、温泉文化が発達したのも江戸時代と考えられます。
この温泉文化は間違いなく日本民族の特徴ではないでしょうか?

さて翻って温泉文化の将来を想像してみましょう。
現在の若者にはいろいろな娯楽が沢山あります。スマホもアニメもテーマパークなどの心を魅了するものが沢山あります。
しかし温泉に行ってみると子供や若者が嬉々として温泉を楽しんでいます。若者にも温泉マニアが沢山います。秘湯を守る会もあります。
あちこちに大規模な日帰り温泉の施設が多くなりました。
この様子をみると日本民族の温泉文化は廃れないと確信出来るのです。安心です。
こんなことを書いていると、また温泉に行きたくなります。皆様は温泉がお好きでしょうか?


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
日本の温泉の歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E6%B3%89

日本は火山が多いために火山性の温泉が多く、温泉地にまつわる神話や開湯伝説の類も非常に多い。神話の多くは、温泉の神とされる大国主命と少彦名命にまつわるもので、例えば日本三古湯の一つ道後温泉について『伊予国風土記』逸文には、大国主命が大分の鶴見岳の山麓から湧く「速見の湯」(現在の別府温泉)を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。
また、発見の古い温泉ではその利用の歴史もかなり古くから文献に残されている。文献としては『日本書紀』、『続日本紀』、『万葉集』、『拾遺集』などに禊の神事や天皇の温泉行幸などで使用されたとして玉造温泉、有馬温泉、道後温泉、白浜温泉、秋保温泉などの名が残されている。平安時代の『延喜式神名帳』には、温泉の神を祀る温泉神社等の社名が数社記載されている。・・・

鎌倉時代以降になると、それまで漠然として信仰の存在となっていた温泉に対し、医学的な活用がウェートを占め、実用的、実益的なものになり、一遍らの僧侶の行う施浴などによって入浴が一般化した。鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれ、元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。さらに戦国時代の武田信玄や上杉謙信は特に温泉の効能に目を付けていたといわれる。
江戸時代頃になると、農閑期に湯治客が訪れるようになり、それらの湯治客を泊める宿泊施設が温泉宿となった。湯治の形態も長期滞在型から一泊二日の短期型へ変化し、現在の入浴形態に近い形が出来上がった。
貝原益軒、後藤艮山、宇田川榕庵らにより温泉療法に関する著書や温泉図鑑といった案内図が刊行されるなどして、温泉は一般庶民にも親しまれるようになった。この時代は一般庶民が入浴する雑湯と幕吏、代官、藩主が入浴する殿様湯、かぎ湯が区別され、それぞれ「町人湯」「さむらい湯」などと呼ばれていた。各藩では湯役所を作り、湯奉行、湯別当などを置き、湯税を司った。
一般庶民の風習としては正月の湯、寒湯治、花湯治、秋湯治など季節湯治を主とし、比較的決まった温泉地に毎年赴き、疲労回復と健康促進を図った。また、現代も残る「湯治風俗」が生まれたのも江戸時代で、砂湯、打たせ湯、蒸し湯、合せ湯など、いずれもそれぞれの温泉の特性を生かした湯治風俗が生まれた。
そして上総掘りというボーリング技術が19世紀末にかけて爆発的に普及した事で、明治以降には温泉資源を潤沢に利用出来るようになった。日本の温泉源泉総数のうちおよそ1/10を抱える大分県別府市では、1879年(明治12年)頃にこの技術が導入されて温泉掘削が盛んとなり発展した。・・・以下省略。