後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら般若心経を考えた

2016年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム




一昨日、以下のように「般若心経」に関する記事を書きました。題目と冒頭の数行だけを示します。

「佛教を簡単に理解する方法」
外国に行くとよく、「仏教とはどのような教えなのですか?」と聞かれます。
答は簡単至極です。お釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめた「般若心経」の中の2つくらいの言葉を説明するのです。
「色即是空、空即是色」と「受・想・行・識亦復如是」という句です。
前者はこの世のことはすべて空しいという意味です。空しいからこの世なのですという意味です。
後者は全ての精神活動も、また同じく、実体は「空」ですという意味です。
そうするとキリスト教を知っている人は「この世のことに執着しないで天の神様やイエス様のことを愛せ」という教えと似ていますと言います。この理解も少し違うのですが、その辺で会話を終りにします。・・・以下省略。

そうしたらある方から次のようなコメントを頂きました。
・・・「色即是空、空即是色」すべて空と解釈することとはどのような生き方をすることなのか。そこに関心があります。・・・

難しい問題です。
そこで昨日、車を100Km走らせて、晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら答えを考えて来ました。写真は昨日撮ったものです。
簡明な答えが出来ました。
お釈迦さまは人それぞれの人生をどのように生活し、どのように生きなさいと具体的には一切教えていません。
どちらにしても人間は食べるために作物を作ったり魚や獣を取ります。現在では食べるため、家族を養うために会社で働きます。
その具体的な暮らし方は時代が変われば変わります。住んでいる環境によっても違います。
そのような具体的な生き方についてはお釈迦様は一切言及しません。
しかし人間は働いていると失敗もあります。苦しい目にも会います。悲し出来事も起きます。
そんな場合に此の世のことはすべて空と解釈すれば気が楽になるのです。心が救われるのです。そしてまた働いて生きていく勇気が湧いてくるのです。
お釈迦様は「般若心経」で全ての人々の悩みや悲しみを救ったのです。どんな時代でも共通に起きる人間の悲劇から人々を生き返らせたのです。ですからこそお釈迦さまの教えは2500年もの長きに渡って世界宗教になったのです。

さて人間はさまざまです。どんな悲劇に会ってもお釈迦様の助けを必要としない人もいます。どんなに困難に遭遇しても自分自身の意志力でそれを克服出来ると信じている人もいます。宗教などは必要ありません。それはそれで良いのです。

ここで宗教という言葉が出ましたので一言書きたいことがあります。
私は「般若心経」に書かれている内容はお釈迦様の宇宙観と信じています。ですからそれは哲学です。宗教とは違います。
しかし内容がこの世の深い、深い真理です。
そこで多くの人はお釈迦様は人々の上に超越して立つ絶対的な存在と考えます。そしてお釈迦様を超越した存在として崇めたて祀ります。これが宗教的な行為です。こうして一つの哲学が仏教という世界宗教になったのです。
これにはお釈迦様もびっくりされていることでしょう。死に臨んで自分の遺骨は野に捨てて、お墓は作ってはいけないと言い残しました。仏像もすべての偶像も作るなと言い残したのです。約400年間、仏教には仏像がありませんでした。

仏像を作ったり、お寺を作ったりいろいろな宗派に別れたりするのは全て人間の弱さです。
そのような人間の弱さを持っていない人には「般若心経」は不要です。無視して良いのです。

最後に一言。私はカトリックです。しかし「般若心経」は大好きです。哲学と考えているので矛盾を感じません。
キリスト教でも教会を作ったり、いろいろな宗派に別れたりするのは全て人間の弱さです。
戦争をするのも全て人間の弱さです。宗教の限界、人間の限界を感じています。

ある方が・・「色即是空、空即是色」すべて空と解釈することとはどのような生き方をすることなのか?・・と質問を送ってきましたが、上記が私の答です。昨日、晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら考えて来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





山々の葉が色づく季節が待たれます

2016年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム



この季節になると毎日、毎日、紅葉黄葉の風景に憧れるようになります。
東京の郊外に住んでいるので雑木林が多いのですが一向に紅葉する気配がありません。この近辺では11月の終りにならないと紅葉しないのです。
皆様のお住まいの所の紅葉の時期は何時頃でしょうか?
北海道や東北の山々は文字通り錦織りなす絢爛とした紅葉に覆われていることでしょう。
そんな風景が待遠しいので2010年の11月に撮った紅葉の写真を朝から眺めて楽しんでいます。
ここに示す紅葉の風景は山梨県の甲斐駒岳の山麓にある自分の小屋の付近で撮った写真です。
そして毎年、紅葉の風景を見ると、高校時代に習った漢詩を思い出します。紅葉を焚いて酒を温めるという白居易の漢詩です。
毎年この時期になると何故か決まって思い出すのです。

唐の詩人、白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩です。
もう自分は遠方の仙遊寺の林へは行く事も無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。
この句は皆様も高校時代に習ったことがあると思います。平家物語にも出て来てよく知られている漢詩です。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。
(以上の訳の出典は、以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/ です)

ついでに語句の解説も示しておきます。
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
                海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水、の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵、の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆く、の意。

嗚呼、紅葉が待遠しいです。山に行って落ち葉を掃き集めて焚火を楽しみたいです。
でも焚火禁止の場所が多いので、自分の小屋の中の薪ストーブで落葉を焚きます。煙突から出る煙の良い香りが林間に漂います。
その雑木林も写真に示すように黄葉しているのです。
そんなことを思い出す今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)