後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯

2016年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された方の生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)

あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。

今日の挿し絵がわりの写真は旧甲州街道の小原宿から裏高尾の小仏峠へいたる道で、昨日、撮った風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「80歳にして想う日本民族とは(5)自然の風景や花々を愛する民族」

2016年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の自然は四季折々美しい姿を見せてくれます。そしてその山野には可憐な花々が季節のうつろいとともに次々と咲いてくれます。早春の梅の花に始まり、絢爛な櫻花、そして梅雨時になればアヤメやアジサイが野山を飾ります。庭にも咲き乱れます。
そんな花々や美しい自然の風景を日本民族は昔から愛してきたのです。
万葉集には自然の美ししさや花々の華麗な姿を歌った和歌が沢山あります。

「春の野に すみれつみにと 来しわれぞ 野をなつかしみ 一夜ねにけり」 山部赤人

自然の風景と言ってもいろいろです。
春霞にかすんだ田園風景、梅雨雲が中腹にかかった山々の遠景、長閑な春の海などなどいろいろな景観が楽しめるのです。そしてそれらの風景が季節の流れにともなってまた別な美しさを見せてくれるのです。
暑い夏が過ぎれば、秋が喨々と鳴るのです。その空に魂が吸われます。
山々の紅葉にも心が奪われます。
静かな山の湖の碧さとしれを縁取る紅葉した木々の様子も息を止めて眺めてしまいます。
高原の湖も良いものですが、豪快な滝の風景も良いものです。
ここで昨年の11月14日に撮った茨城県の袋田の滝の写真を示します。









自然の風景や花々を愛するのは日本民族にかぎったことではありません。
しかし緑豊かな山々に囲まれ、花々が溢れるように咲いている国はそんなに多くはないのです。
その上、緑に覆われた列島は美しい海にかこまれているのです。
それは幸運なことです。日本民族はその美しい風景に魂を吸いとられ、一層強く自然を愛し、崇敬していると思います。
その一つの証左が小堀遠州が作った庭です。小堀遠州流派の庭です。
その庭には自然の風景が凝縮して再現されているのです。小さな池が石の置き方で大きな海に見えるのです。巧妙に作った小さな滝が雄大な袋田の滝を連想させるのです。
大自然が家の前に持ち込んであるのです。
その上、その庭を前にして静かに坐っているとお釈迦様の教えが見えて来るのです。
特にお寺の庭にはそのような庭園があります。

ひるがえって西洋の庭を見ると日本の庭の自然を凝縮した特徴が明瞭に理解されます。
西洋の庭は草木を幾何学の形に刈込ます。庭全体を対称美で飾ろうとしています。
ベルサイユ宮殿の広大な庭を思い出して下さい。美しい池や樹木がありますが、全て左右対称的に配置されています。嗚呼、西洋文化だと感銘を受けます。
しかし日本の庭は左右対称には作りません。自然そのままなのです。

やはり日本民族は自然の風景や花々を愛する民族だと言っても過言でないと信じています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)