まえがき、
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された方の生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。
今日の挿し絵がわりの写真は旧甲州街道の小原宿から裏高尾の小仏峠へいたる道で、昨日、撮った風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された方の生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。
今日の挿し絵がわりの写真は旧甲州街道の小原宿から裏高尾の小仏峠へいたる道で、昨日、撮った風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)