後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

80歳にして想う日本民族とは(1)その精神文化の基調をなす神道と仏教の混淆

2016年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
私の悪い癖は理屈を書くことです。黙って写真だけを掲載すれば良いのですが、それにこじつけて針小棒大な理屈を書くという悪い癖を持っているのです。
このような書き出しで、昨日は、「日本民族と温泉文化・・・北海道北湯沢温泉のことなど」 という記事を掲載しました。
そして今日からは「80歳にして想う日本民族とは」と題する連載記事を始めようとしています。

先週の北海道の旅で積丹半島の熊笹の丘の中腹に腰を下ろして、静かに構想を練った連載記事です。
昨日の「日本民族と温泉文化・・・」という記事はこの連載の序論のようなものです。
お急ぎでない方はお付き合いのほどをお願いいたします。

しかしお急ぎの方の為に熊笹に覆われた丘と、そこから見下ろした日本海の風景の写真をまずお送り致します。









このような写真にある熊笹の丘の中腹の階段に1時間ほども腰を下ろしていました。西の方を見下ろすと秋の陽に輝く日本海が広がっています。
つい人生のあれこれを考えていました。そして気がつくと茫々80年です。その間、私は日本民族に篤い想いを持っていました。誇りに思ったり、民族の欠点に胸を痛めて来たのです。

それにしても日本民族とは何なんでしょうか?どのような文化を持っているのでしょうか?
隣の中国や朝鮮の民族とはどのように違うのでしょうか?
この疑問について思いつくままに連載風に書き進めて行きたいと思います。
老人が薄れゆく記憶で思いつくままに書く随筆ですので間違いや記述の混乱はお許し下さい。

さて日本民族の文化的基調は神道と仏教にあることには異論が無いと存じます。
神道は旧石器時代や縄文時代の自然信仰が次第に鳥居を有する神社に発展してきました。
出雲神社から派生した諏訪大社には縄文時代の信仰の巨大な御柱が現在でも祀られています。
その一方、仏教は538年に中国から伝来しました。
その後、唐の玄奘三蔵法師がインドに渡り16年後の645年に、657部の経典を長安に持ち帰ったのです。
日本の仏教は現在も、全て玄奘三蔵法師が漢文に翻訳した教典によっているのです。
この玄奘三蔵法師の教典はかなりお釈迦さまの教えを忠実に伝えています。

しかしながら日本には古来から神道があったのです。ですから新しく入ってきた仏教は神道と混淆したのです。それは良し悪しの問題ではなく、極く自然な現象でした。
80歳になった現在は神道と仏教の混淆を是認し、それこそが日本民族の精神文化の基調になっていると素直に理解する境地に至っています。その上、日本の仏教は神道の影響もあって多神教的な信仰になっていることもすなおに認めています。

日本の仏教では観音菩薩信仰や大日如来信仰や薬師如来信仰があります。
その上、弘法大師信仰や伝教大師信仰もあります。信仰の対象が沢山あってヒンズー教の多神教信仰に似ているのです。
それに対して仏教学者は信仰の対象が違っても唱える教典は同じお釈迦さまの教えを唱えているのだから一神教的な性質を持っていると強弁します。しかし大日如来や弘法大師が祀ってあるお寺にお参りする人々にとっては、お経の内容は理解していません。そんなことはどうでも良いのです。
お稲荷さんや神道の神々に無病息災、家内安全を祈るように大日如来さまや弘法大師様にお祈りしているのです。
このような宗教のあり方が日本民族の精神文化の基調になっているのです。

よく日本の知識階級は西洋人の真似をして宗教の混淆はいけないと偉そうに論陣をはります。
日本民族の文化を素直に観察しないで西洋の論客の手先になって自分が偉いと錯覚しているだけなのです。
そして多神教は原始的で劣っているので日本人は劣っていると自分の民族をおとしめます。

しかし私は地球上のどんな民族にも絶対に優劣は無いと信じています。勿論、どんな宗教にも優劣は絶対に無いのです。
ついでに言えば、中国は仏教と道教との混淆宗教です。朝鮮もそれに似ていますが、シベリア系の原始宗教も混淆しているのが特徴です。

今日は色即是空、空即是空というお釈迦さまの深甚な教えを説明しませでした。それが日本民族の無常観に大きな影響を与えたことについても一切言及しませんでした。それについては稿をらためて説明したいと考えています。あまり長くなるので今日はこの辺で終わりといたします。 (続く)


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)