後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

氷川丸と「 びいなす」号を比較し、日本の文化の大きな変遷に驚く

2016年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
船旅はのんびりして良いものです。波静かな太平洋を飽かず眺めて時間がゆったりと流れていきます。眼を転じると緑豊かな日本の陸地が遠く見えます。2泊3日の蒲郡市への客船の旅をして来ました。
その折に横浜の大桟橋の客船、「ぱしふぃっく びいなす」とそこから見える客貨船、「氷川丸」をつい比較して考えました。
氷川丸は総トン数11,000トンの1930年建造の日本の船です。一方、「ぱしふぃっく びいなす」は26,000トンで、1998年に建造された日本の客船です。どちらも大きなジーゼルエンジンがついていて巡航速度は同じ時速18ノット(約時速30Km)です。
同じような大きさと性能を持っている日本の客船ですが、この両者の客室の違いは非常に大きいのです。
氷川丸に入って見ると、チャップリンなどの泊まった一等客室が公開されていますが、その狭さに驚きます。また船底に近い三等客室は12人分のベットが蚕棚のようになっていて、向かい合っています。その上とても狭いのです。
一等客が食事をするダイニングも狭く暗いのです。当時は強化ガラスが高価過ぎたようで氷川丸の窓は全て小さいのです。
当時の日本の客船は人間が我慢してなんとか太平洋を渡るという考えで設計されていました。
航海中のお客はデッキに出て海を眺め、読書をして時間を過ごしたようです。それが戦前の日本の客船でした。
氷川丸の建造された1930年は昭和5年です。日中戦争がはじまり、やがて真珠湾攻撃の行われるような時代です。
贅沢はいけない。清貧こそ美徳だという文化の時代だったのです。そのような質素を美徳とする日本の文化の中に生まれ育った私は今でも贅沢なことに対してはいささかの抵抗感がるのです。
それはさておき、氷川丸と並ぶように係留されている「ぱしふぃく びいなす」の船内の施設をご紹介します。
その特徴は客室が使いやすく出来ていて、綺麗なのです。そして客室は全室が海に面していて大きな窓がついています。
ダイニングや、ショウのための大小のホールやプールや展望風呂までいろいろな遊びの施設がついていることです。
この人生を楽しむ為の客船は、お客を運ぶためだけの氷川丸とは全く違う考え方で出来ているのです。
「ぱしふぃっく びいなす」のお客を見ると普通の人々です。孫を連れた高齢者、老夫婦、中年の女同士のグループ、若い家族連などです。
決して金持ちそうではありません。この客船の旅は食事や間食を含んで大体一泊5万円程度で、2泊3日で10万円余です。
若い人でも生活を少し切り詰めて貯金すれば手が届く金額です。このような客船の旅を趣味にしている若者にも会ったことがあります。
嗚呼、これが現在の日本の文化なのだと深い感慨を感じるのです。
しかし一方で世界中の貧富の差を感じざるを得ません。
このような客船の良さは従業員のサービスが良いことです。それは一流のホテルのような上質なサービスなのです。
そのサービスを支えているのがフィリピン、インドネシアやウクライナ、スロベニアなどの人件費の安い国々の人々なのです。
深く考えると悲しい現実があるのでしょう。

しかし物事はあまり考え過ぎるといけないのかも分かりません。単純に素直に楽しめば良いのかも知れません。
そんなことを考え、海を眺めて来ました。その折に撮った写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は、戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。

2番目の写真は、ぱしふぃっく びいなす Pacific Venusです。旅客数、620名 、乗組員、220名 、石川島播磨造船会社製。

3番目の写真は、「ぱしふぃっく びいなす」の5階のピアノのあるエントランス・ホールを6階から撮った写真です。

4番目の写真はメイン・ダイニングの夕食の風景です。

5番目の写真は12階のトップラウンジから見下ろした11階のジャグジーとプールです。

6番目の写真は11階のスポーツデッキ、展望大風呂、ジャグジー、オブザベーションラウンジなどの各施設の配置図です。7階後方にはメインダイニングルームがあり前部にはメインラウンジがあります。

===参考資料;氷川丸と「ぱしひっくいびーなす」号================
(1)氷川丸:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%B8
「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。
運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。
氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた日本の12,000t級貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2016年時点では、横浜市で博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている[2][3]。
「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。
運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。
本船(氷川丸)の船名は、大宮氷川神社に由来する[4]。ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている[4]。姉妹船には2隻(日枝丸、平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った[4]。なお本級3隻は頭文字『H』で統一されている。

建造経緯、
日本郵船は昭和初期、北太平洋で展開されたアメリカやカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、明治末期から大正初期に建造された天洋丸級をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。
船種、貨客船。船籍、日本。運用者、日本郵船。就航、1930年5月13日。除籍、1960年12月21日。現況、山下公園に係留。

総トン数、11,622トン。載貨重量、10,436トン。
全長、163.3m 。  型幅、20.12m
主機関
B&W社製 ダブルアクティング4ストローク8気筒ディーゼルエンジン2機2軸
主機関
出力
11,000hp (5,500hp×2) 最大速力18.21ノット、航海速力、15.0ノット

(2)ぱしふぃっく びいなす Pacific Venus
http://www.venus-cruise.co.jp/
就航年月、1998年4月
主機、Diesel United 12PC2-6 (9,270馬力×2基
総トン数、26,594トン
全長、183.4m。 幅、25.0m
巡航速力、18.0ノット。 甲板数、12層。
旅客数、620名、乗組員、220名
石川島播磨造船会社製、
日本クルーズ客船が運航するクルーズ客船。
同社が運航していた「おりえんとびいなす」の姉妹船(同型ではない)として1998年に就航した日本籍で2番目に大きなクルーズ客船である
設備;
エントランスロビー
メインダイニングルーム「プリマベーラ」
オブザベーションラウンジ「グラン・シャリオ」
トップラウンジ「サテライト」
メインラウンジ「ル・パシフィーク」
ピアノサロン「アルカンシェル」
プロムナード
プールサイドデッキ
カジノゲーム
客室
客室は全室が海に面している。
ロイヤルスイートルーム - 65m²
スイートルーム - 35m²
デラックスルーム - 23.5m²
ステートルーム(A・B・C) - 15.3m²

日記、横浜のカトリック山手教会のミサに行きました

2016年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ3日ほど記事の掲載をお休みしてしまいました。旅に出ていたのです。
横浜、大桟橋から2泊3日の船の旅に行き、今朝の9時に大桟橋に着岸しました。急いで下船し、駐車場に停めてあった車でカトリック山手教会へと丘を登りました。9時30分からのミサに間に合いました。
この時間のミサは英語なのでインド人、シンガポール人、フィリピン人、欧米人などなどいろいろな外国人の信者達が聖堂を埋め尽くしていました。
私は英語はよく分かりませんが、カトリックの式次第は同じなので一緒にミサにあずかり祈りました。
嗚呼、カトリックには国境がないと感動しました。
司式した日本人の神父さまはピンチヒッターで英語があまりお上手でありません。説教の時は日本語と英語をまじえて話しました。
しかし各国の信者達は根気よく聞いて、説教が終わった時、盛大な拍手をしていました。英語が上手でない神父様を励まし、助けようとする暖かい気持ちが聖堂に満ちていたのです。それは心温まる光景でした。イエス様の愛が信者の心を優しくしているようです。
旅の帰りに横浜で教会に行って良かったと思う経験をしました。
写真は今日撮ったカトリック山手教会の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考:山手教会の歴史、http://catholicyamate.org/history/====
開港後日本最初の聖堂
聖フラシスコ・ザビエルにより日本宣教が始まった1549年の後、厳しいキリシタン弾圧が続いていましたが、幕末の1859年開港時に日本再宣教のため、パリ外国宣教会のジラール神父らが来日しました。1862年横浜居留地80番地(現横浜市中区山下町80)に「横浜天主堂」(イエズスの聖心教会)が献堂されました(国宝・長崎大浦天主堂が献堂される3年前の事です)。近代日本最初の教会であり、現在のカトリック山手教会の初代聖堂です。
1906年、天主堂付近の市街化により移転を行い、山手町44番地(現教会番地)に双塔を持つゴチック風の威風堂々とした聖堂が献堂されました。しかし、1923年の関東大震災によって崩壊、就任間もない主任司祭ルバルべ神父はその犠牲となりました。
その後、約10年の建設募金活動等を経て、1933年に鐘楼をもったゴチック式鉄筋コンクリート作りの美しい現在の聖堂が献堂されました。設計者は山手教会信徒・チェコ人のスワガー氏です。この司教座教会は教区の母なる教会であるだけでなく、1988年に横浜市の歴史的建造物に認定され市の文化的建物でもあります。
教会の中庭にある聖母像は、1868年にフランスから贈られたもので、開国後初のキリスト教会として1862年(文久2年)に居留地に建てられたイエズスの聖心教会の入り口の上に人々を見守る形で設置されていたものです。1906年(明治39年)に教会が、現在の地(山手町44番地)に移転した際に現在の場所に移されています。
塔の鐘は、1874年(明治7年)にフランスから贈られたものです。第2次世界大戦における兵器の製造に必要な金属資源の不足を補う目的で公布された金属類回収令による回収の危機に見舞われたものの、鐘に刻まれている『NAPOLEON』の文字によりその難を逃れたと言われています。
初代聖堂のあった中区山下町80番地には、『横浜天主堂』跡地として、再宣教100周年を記念したイエス像が立てられ道行く人々を招いておられます。