竹内義信君は大学時代の旧友でした。2年ほど前に何度か会い、彼の通っていた遥かなるハイラルにあった日本人学校の思い出話を聞きました。
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
しかし2年前に何度かお会いし、話を聞くとその後、その小学校を訪問し心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。
以下は竹内君から聞いた話です。
まず現在、中国の東北にあるフルンバイル平原の風景の3枚の写真をご覧ください。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。(写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1016966-d1718080-Reviews-Hulunbuir_Old_Town-Hulunbuir_Inner_Mongolia.html です。)



この平原に昔、ハイラルという町があり日本人が沢山住んでいました。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し日本の教育をしていたのです。その全てが敗戦とともに、うたかたのように消えてしまったのです。母校喪失です。この悲しみの記憶を背負った日本人は戦後たくさん居たのです。
他国を武力で占領して日本人が住み、日本の学校を勝手に作った歴史がアジアのあちこちにあったのです。それは現在になってみると日本の負の遺産として残るのです。
旧友、竹内君から聞いた話を続けてご紹介します。
かつての満州にあったハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」について、ご報告します。この「草原明珠」という本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。ですから私はその学校が日本人だけを入学させ、現地人を入学させなかったかを問題にしたいのです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。負の遺産を正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しいい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。
この本は数百人の悲しい涙と感傷の缶詰なのです。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。
日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。
上記のハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。
鄧小平が亡くなり江沢民の時代になると日中関係は暗転したのです。
しかし我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。嗚呼、それにしても最近の日中関係の悪化はどうしたことでしょうか?
最後に「草原明珠」(草原のなかの美しい真珠のようなハイラル)の写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
しかし2年前に何度かお会いし、話を聞くとその後、その小学校を訪問し心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。
以下は竹内君から聞いた話です。
まず現在、中国の東北にあるフルンバイル平原の風景の3枚の写真をご覧ください。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。(写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1016966-d1718080-Reviews-Hulunbuir_Old_Town-Hulunbuir_Inner_Mongolia.html です。)



この平原に昔、ハイラルという町があり日本人が沢山住んでいました。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し日本の教育をしていたのです。その全てが敗戦とともに、うたかたのように消えてしまったのです。母校喪失です。この悲しみの記憶を背負った日本人は戦後たくさん居たのです。
他国を武力で占領して日本人が住み、日本の学校を勝手に作った歴史がアジアのあちこちにあったのです。それは現在になってみると日本の負の遺産として残るのです。
旧友、竹内君から聞いた話を続けてご紹介します。
かつての満州にあったハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」について、ご報告します。この「草原明珠」という本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。ですから私はその学校が日本人だけを入学させ、現地人を入学させなかったかを問題にしたいのです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。負の遺産を正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しいい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。
この本は数百人の悲しい涙と感傷の缶詰なのです。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。
日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。
上記のハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。
鄧小平が亡くなり江沢民の時代になると日中関係は暗転したのです。
しかし我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。嗚呼、それにしても最近の日中関係の悪化はどうしたことでしょうか?
最後に「草原明珠」(草原のなかの美しい真珠のようなハイラル)の写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
