後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

爽やかな秋風がそっと頬をなでていくようなエピソード、ある友人の思い出

2017年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
それは心地よい秋風がそっと頬をなでていくような人生のエピソードでした。有難い思い出になりました。
50年以上前の大学時代に淡い交わりをした旧友と3年程前のある秋の日に一緒にビールを飲んだのです。茫々50数年、一別以来会ったことがありませんでした。彼は竹内義信君といいます。そのビールを飲む会は私の同級生の卿農雅之君がセットしてくれた一席でした。

竹内義信君は情熱的で、それでいて何事にもこだわらないさっぱりした男でした。雪深い新潟県の小千谷の出身です。大学の1、2年生の間、同じ教室で学んでいたので時々話をしました。
当時、彼が熱心に私に語っていたことは雪国、小千谷の冬の生活でした。雪が降ると家の2階から出入りするという話に吃驚したものです。2階にも出入り口が作ってあるのです。
そして暗い夜には雪が明るく見えて、それを「雪明り」と言うと教わりました。
町の通りの両側の歩道の上には雪よけの屋根が続いていて、それをガンギと呼ぶそうです。
そのガンギの下の歩道は昼でも薄暗く、雪の壁を通ってきた太陽の光が行燈の明かりのように足もとを照らしているそうです。
雪国の話は何かとてもロマンチックで幻想的です。忘れられませんでした。
その影響もあって、私は中年になってから鈴木牧之が江戸時代に書いた「北越雪譜」という本を読みました。今でも時々読み返しています。雪国の生活を描いた名著です。小千谷のそばの塩沢にある鈴木牧之記念館も数年前に見ました。
その大学時代の旧友が何故そんなに情熱的に雪深い小千谷のことを私に話してくれたのでしょうか。

彼は私とは違う学科の「応用化学科」に進みました。大学院を修了し、大きな化学会社の帝人の研究所に就職しました。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。
その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はヨーロッパに派遣され数年間在住し、彼の地の文化を楽しむことが出来たそうです。
順風満帆のように見える彼の人生は結構、波乱万丈だったようです。

3年前にビールを飲んでいたテーブルの上に彼が中国の大きな地図を広げたのです。満州国が出来る以前の中国の東北部の地図です。
そして幼少のころはその内蒙古自治区のホロンバイルに住んでいたと言いだしたのです。夏は暑くて、冬は雪の無い厳寒の草原です。
彼はその草原の広さと魅力を情熱的に話していました。
そして定年後、そのホロンバイルを何度も訪問し、植林事業のボランティア活動をしてきたと言います。
引き揚げの時の苦難は忘れたように一切話しませんでした。彼のものごとに拘らない良い性格です。
私は帰宅後、ホロンバイルとはどんな所かいろいろ調べて見ました。

冬は雪が降りますが風に飛ばされて積もらないそうです。ですから引き揚げて来た小地谷の生活は驚きでした。彼にとって雪が家の2階まで積もる光景は驚天動地の光景だったに違いありません。
その光景は少年の心に焼き付いて、その興奮は大学生になってもさめなかったのです。その感動を私に話してくれたに違いありません。

彼がホロンバイルのハイラルで通っていた小学校の思い出は2月10日の記事、「遥かなるモンゴルの地、ハイラルにあった日本人学校への感傷」でご紹介しました。

そこで今日は彼が長期間駐在したミラノを中心とした北イタリアの記事をご紹介いたします。
彼に書いてもらった「イタリアの魅力とその混沌」という連載(2013年ー10月7日)に掲載した最終回の記事です。

私どもの知らないイタリア文化の特徴が書いてありますので面白いと思います。

===竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」第5回========
一頃、北部同盟(Lega Nord)という政党がありました。北イタリアの人達はなんで北の俺達が稼いだものをドブ(溝)に捨てるように南に使うのは馬鹿げている。北で稼いだものは北で使わせて貰おうというのがこのLega Nordです。2006年の9月15日にLega NordはヴェニスでおごそかにPadagna共和国の独立を宣言しました。Padagna(パダニア)というのはPo河流域という意味です。
Po河流域は映画「苦い米」で有名になった豊かな米作地帯であり、私どもの会社のTMI(帝人マンテロ工業;ポリエステル繊維後加工会社)のあったVercelli工場は田んぼの真っ只中にありました。米ばかりでなく小麦などの穀倉地帯でもあり、酪農も盛んです。
また北イタリアは各種の製造業が栄えています。FIATやOlivettiで有名なトリノ、ミラノ、ボローニアの工業地帯,良港をもつジェノヴァの工業、またヴェネチアの近くの石油化学コンビナートのメストレなどがあり、もし北イタリアが独立したら、ドイツやスイスより一人当たりの国民所得の高い国が出現し、英国やフランスに取っては脅威になります。
帝人が技術援助したモンテフィブレのAcerra工場はナポリの郊外ですから、ミラノに住んでいた私にはAcerra付近の貧しさを目の当たりにして、南北格差というものを身をもって実感しました。Acerra工場がニンニク畑と羊の放牧地の跡であることはモンテプロジェクトのところで説明済みです。
ドイツも東西が統一されて西が東を今でも担がなければならないように、イタリアは宿命的に北が南の面倒を見続けなければなりません。前述のように、イタリアは都市国家の寄せ集めなのですから、どうしても地域主義になります。イタリア人は自分の出身地を誇りに思い大切にしています。イタリア人である前に、シチリア人であり、ヴェネチア人であり、またボローニア人なのです。北部同盟は政党レベルが堂々と行った独立運動ですが、シチリアの独立運動とか、Friuli(ヴェネチアの北部)の独立運動とかが有名です。
ここではFriuliの独立運動について説明します。第二次世界大戦後、オーストリアがナチスドイツから分離独立した時、Friuliではオーストリアへの復帰運動がありました。この地域はオーストリアと接しており、ハプスブルグ家の領地だったのですが第一次世界大戦の後、イタリアがオーストリアから分捕った地域なのです。従って、ここの住人はオーストリア人で、背が高く、勤勉で生活水準も高いのです。しかし、イタリアでは南部振興のために北部でも税金が高いので不満がある訳です。第二次世界大戦後、何年かゴチャゴチャやっているうちに、Friuliの人達はオーストリア復帰運動を止めてしまいました。何故でしょう、イタリアでは彼等は高所得層に属するのです。しかし、オーストリアに帰って下手をすると低所得層に落ちるかも知れないから、それならイタリアで威張っていた方がいいということになりました。
もう一つ別の例では、ピサの20Kmほど南にあるLivornoという港町の話です。中世時代ピサは四大海運都市国家(他の三つは、ヴェネチア、ジェノヴァとAmalfi)の一つでした。直線距離で50Kmのフィレンツェとは頻繁に戦争をしていました。フィレンツェのメデイチ家は各地と貿易をやっていましたから港が欲しいのですが、一番近くの海岸にあるピサは使えませんから、ピサの領土を避けて、廊下のような道をLivornoまで作って、Livorno港から交易をやっていました。でも、ピサの目と鼻の先では宿敵のフィレンツェのメデイチ家がお金儲けをやっているのを黙って見逃す筈がありません。当然ピサはLivornoを襲撃します。そのためメデイチ家ではLivornoには前科者やならず者を住まわせました。現在でも、ピサとリヴォルノは仲が悪く、リヴォルノの人達は背筋をピンと伸ばしている人が多いと思います。西部開拓時代のフロンテイアの人達を思わせるものがあります。
もう一つ地域主義の典型的な実例を挙げましょう。ミラノ駐在員も2年くらい経った頃、モンテフィブレと帝人の会議の席でモンテ側が私に花を持たせようと、「竹内さん、ミラノの生活も2年になればイタリア料理の素晴らしさは分かるでしょう。」と水を向けてくれました。そこで私は胸を張って「イタリアの国境の外ではイタリア料理は食べないことにしています。」と答えました。モンテフィブレの人達はそうだ竹内もイタリア料理の良さ分かって来たなと皆で拍手をしてくれました。ところがです私の向かいの席に座っていたのが法規部長のRighiさんでポツリとしかも聞こえよがしに言いました「ボローニア以外ではイタリア料理は食べません。」と。彼のお祖父さんがボローニア大学の物理学の教授で、なんと無線通信のマルコーニを教えたという生粋のボローニアっ子です。ボローニアっ子の彼にとってイタリア料理はボローニア料理だけなのです。(終り)

下に北イタリアの風景写真をお送りいたします。この3枚のイタリア北部のガルダ湖の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E6%B9%96 です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)