後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

『沈黙 -サイレンス-』に強調されている愛の世界は仏教には無い

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は愛の宗教といいます。お釈迦さまには慈悲があります。
しかしこの愛と慈悲は全く違うものです。
理屈を展開するよりも映画、「沈黙ーサイレンスー」の場面を見てキリスト教の愛の世界を説明いたします。

1番目の写真はキリシタン弾圧の激しい長崎の近くに秘かに潜入して来たロドリゴ神父と彼を取り囲む信者たちの写真です。
皆汚い着物を着ていますがロドリゴの顔や村人の顔が美しく輝いています。ロドリゴと信者たちが愛の絆で結ばれているのです。イエスさまの愛にも結ばれています。
如何でしょうか。お寺の住職さんと信者の間にはこのような関係があるでしょうか?
お釈迦さまと信者は愛の絆で結ばれていません。ですから住職さまと檀徒が一緒に写真を撮ってもこのような写真は撮れません。

2番目の写真はキチジローがまだロドリゴを官憲に売り渡す前の写真です。
キチジローはロドリゴに告解を聴いて罪を許してくれと頼んでいる場面です。
ロドリゴはもう何度も告解を聴いているのでいささか辟易しています。
しかしキリスト教は愛の宗教です。
ロドリゴは何度も裏切られながらもキチジローを愛しています。イエス様が使徒たちを最後の最後まで愛したようにロドリゴが最後までキチジローを愛したのです。
如何でしょうか。お寺の住職さんが檀家の放蕩息子を最後まで愛してくれるでしょうか?
答は否です。当然です。
仏教にははじめ積極的な慈悲の教えを持っていなかったと言います。(http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/bukkyokirisuto09.htm )
 仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。慈悲とは、他の人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることです。
この慈悲の教えは、はじめは仏教の中心的な教えではなかったようです。
「慈悲」が盛んに言われだしたのは、大乗仏教の時代になってからだそうです。シャカの説いた原始仏教においては、「慈悲」は中心的な教えではありませんでした。
それどころか、「慈悲」が実際に説かれることは、きわめてまれでした。
シャカの原始仏教、および上座仏教は、「出家」主義の仏教です。それは出家した者だけが救われる、という教えです。
出家主義の仏教では、出家していない他の人々との関わり合いは、重視されません。ですからそこに「慈悲」という考えが入り込む余地はありませんでした。
 
さてロドリゴ神父とガルペ神父はかつて2人の指導者だったフェレイラ神父を探すためにキリシタン弾圧下の九州に秘かに上陸して来たのです。
潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者に愛され、かくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。
しかしそれも時間の問題でした。間も無く2人とも捕まってしまい棄教を迫られます。
ガぺラ神父は海に落とされた信者を助けようとして飛び込み、自分も役人に海に沈められて絶命します。ガルペ神父は自分の信者を死を賭して愛したのです。簀巻きにされ海に投げ入れられる信者を座して見ているわけにはいかなかったのです。

一方、ロドリゴ神父は紆余曲折の末にフェレイラ神父についに会うことが出来ました。
しかしかつて尊敬していた恩師、フェレイラ神父はあまりにも変わり果てていました。
沢野忠庵と言う日本人になっていました。
そしてロドリゴ神父に棄教を迫ります。苦悩の末にロドリゴ神父も信者達を穴吊りの拷問から解放するために踏み絵を踏みます。
それもロドリゴと信者たちの愛の絆の故です。踏み絵の中のイエス様が「踏みなさい。それで良い」というのです。

棄教し岡田三右衛門という日本人になってしまったロドリゴは江戸のキリシタン屋敷にあてがわれた妻と余生を暮らします。
その折に下男のように世話をし続けたのがキチジローでした。
誰もがロドリゴを岡田三右衛門と呼び彼がパードレだったことをおくびにも出しません。
しかしキチジローだけは2人だけの時はパードレと呼ぶのです。ロドリゴはよせと言いますが、心の奥では嬉しかったに違いありません。
棄教してしまったロドリゴとキチジローの絆はなんでしょうか?それは埋れ火のように残った愛の絆だったのです。
しかしキチジローも終いにはキリシタンと疑われてロドリゴから引き離されます。彼等はその後二度と会うことはありませんでした。

感動的な人間同士の愛の絆がこの映画の主題なのです。そこには夫婦愛や親子の愛とは違うもう一つの愛が美しく描きだされているのです。

さて一方仏教にも僧侶と信者の愛の絆が無いわけではありません。
一つの例は弘法大師の同行二人という考え方です。そして弘法大師は諸国を巡って灌漑用のため池を沢山作ったと言います。あちこちに温泉も作りました。
その故に現在でも弘法大師は民衆の人気を集めています。
しかし弘法大師は数少ない例です。
現在お寺の住職さんが生活苦の檀家の人へ食べ物を秘かに届けているでしょうか?檀家の中の放蕩息子の面倒を一生みているでしょうか?
無縁になってしまったお墓にお経をあげて大切にしているでしょうか?

仏教でキリスト教の愛に似て非なるものに観音菩薩信仰があります。

3番目の写真は山梨県の韮崎市に立っている観音菩薩様です。
お寺の住職さんは観音菩薩さまの慈悲の心のお話をしてくれるでしょうか?私は聞いたことがありません。

このように映画、「沈黙ーサイレンスー」はイエス・キリスト教の愛の絆を明快に説明しているのです。
ですからこそカトリック信者が見ると感動します。幸せな気分になるのです。その理由で私はこの映画を2度見に行きました。
映画、「沈黙ーサイレンスー」は疑いながらも信じようとしているカトリック信者を幸せにする映画なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のお話は美しく、でもせつない一人のモンゴル人の日本人への絆の話です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。

それは大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊の本に書いてあったことです。それは細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本です。
細川呉港氏が熊本日日新聞にこの本の内容を紹介しています。彼はは1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。

この本によるとモンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。

ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。

だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。

ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこへは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。

国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。

ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。

彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。

何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。

今日の挿し絵代わりの写真は彼の生まれ故郷の満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)